【六節】⑥
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「兄さんは私が生まれる前から古流を学び、高校を卒業する頃には槍術家としての道を選んでいた」
木々のざわめきも蝉の音も水を打ったように静まり返り、泥蓮の透る声だけが鉄華の耳に届く。
泥蓮は気怠げに足を崩した態度でいたが、声には不思議と覚悟の熱が篭って聞こえた。
「流派を継ぎ、研究研鑽を重ね、他流を倒し、持てる才能の全てを以て流派復興のために尽力していたが、ある日の野試合で敗北することになる」
「篠咲鍵理ですか」
「そうだ。あの女と兄さんの間でどういう取り決めがあったのかは知らない。私も直接見たわけではないが戦いは真剣と素槍で行われた。その結果どちらも死ぬことはなかったが兄さんは頭を砕かれて入院することになった」
真剣同士の戦い。
現代の倫理を踏破する価値観の中に篠咲はいる。
鉄華と冬川の戦いなど児戯に等しく思える必死必殺の世界であった。
「古流の戦いだ。いかなる卑怯があったとしても咎める気は無い。だが兄さんは身体に問題を抱えていたんだ」
泥蓮は一呼吸を置いて視線を落とし、道場の床の一点を見つめながら続けた。
「筋萎縮性側索硬化症。運動や呼吸で使う筋肉が衰えていく難病だ。兄さんは槍術の天才だが、どこまで流派を修めようとも全力を出せない身体だった」
往々にして求める者に全ての才能が揃うということはないが、時として努力でも財力でも超えられないハンデを試練として与えられる者がいる。
運動神経や筋力に関連する疾患ともなれば闘技者としては致命的である。
「若年性ALSの場合、病気の進行は遅く致命的な症状は出ない。それでも篠咲に敗北したことで思うところがあったんだろうな。退院後は更なる猛特訓を重ね、最終的には道場の真ん中で窒息して死んでいたよ」
泥蓮が見つめる一点はシミも汚れも無く、よく磨かれた床板は天窓の光を反射して白く輝いていた。
そこに倒れていた小枩原有象は何を思っていたのであろうか。
鉄華は想像を投影して有象の心情を捉えようとするが、あまりに現実味が無さ過ぎて断片すら見えてこない。
ただ、病気に抗い修行の中で絶命する姿勢は、生きることよりも重要な使命を見つけた人間の行動に思えた。
「鉄華、私はお前との戦いどころか一叢流ですら心底どうでもいいんだ。私は兄さんに一度命を救われている。だから私は兄さんが果たせなかった思いを遂げる。その為だけに生きている」
鉄華と視線を合わせた泥蓮は溜息をつくように笑ってみせたが、その実、誰の方向も見てはいない。
過去に捕われ、現実の光景を夢のように眺めているだけだ。
それが泥蓮の気怠さの正体であった。
「篠咲さんを……殺すんですか?」
「さぁな。戦った結果そうなる可能性はあるが私の知ったことではないな」
鉄華は泥蓮の生き様を美しいと思った。
行き場を失った恩義は、亡き兄の代わりになることを選んだ。
口だけの戯言ではなく、彼女の持つ強さがそのまま覚悟の現れである。
報われる、浮かばれるという鎮魂を目的とした復讐は、所詮は個人が納得するかしないかという勝手な思い込みでしかない。
それでも泥蓮の行き過ぎた愚直さは、ある種フィクションの中の美学のように輝いて見えた。
しかし一方で、決闘の場で人を殺せばそれは重罪である。
古流を解放した篠咲の強さを鉄華は知らないが、おそらく泥蓮との戦力差は殆ど無い段階にまで来ているように思える。
衝突は時間の問題だ。必ず場を整えて真剣で殺し合うだろう。
そうなれば勝ち負けに関わらず凄惨な結果が残るだけだ。
「……何とかして説得したいですが、無駄なんでしょうね」
説得するには出会いが遅すぎた。
もはや言葉は響かないだろうと思いつつも鉄華は言葉を探る。
「よく分かってるじゃないか。お前は空気が読めないアスペなんかじゃなく、馬鹿が付くくらい優しいお人好しなんだよ。無駄なこと考えすぎて自分で重荷を増やしていく超馬鹿だ」
「そうかもしれませんね。だから兆しを感じたら止めますよ。手足を折ってでも」
「それでいい。精々強くなって仮想敵としての役目を果たしてみせろ」
死ぬ覚悟が出来ているが故に、向けられる好意に無頓着過ぎる。
残された者の気持ちを誰よりも知っているのに、自分だけは輪の外に行こうとする。
小枩原泥蓮はただ一人で孤独な闇の中を突き進む。
たとえ暴力で止めてもただの先延ばしにしかならず、彼女の心を折ることなど誰にもできないことを鉄華は理解し、その堅牢な壁の存在を少し悲しく感じたのであった。