【衡量】⑥
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「さて、少しの時間だが話でもしようか」
「はっは、ボクは何時間でも構わないよ」
車椅子の男は向けられた銃口を意に介することなく豪胆に嗤う。
対面のカウチソファに陣取った由々桐群造はハンドガンをテーブルに置き、懐からシガーケースを取り出して一服する。
向かい合う二人を取り囲むのは三人の男。華僑マフィア【紫海】の構成員。
いずれも灰色の都市迷彩に身を包み、小銃を首から下げて不測の事態に備えている。
不測の事態が起これば、佐久間も由々桐もターゲットになり得る。
三勢力の思惑が衝突する均衡点で、由々桐は深く吸った煙を溜め息で吐き出した。
船室の天井にぶら下がる裸電球が波で揺らめき、かき混ぜられた紫煙が白い靄となってゆっくりと降りてくる。
壁の打ち放しコンクリートには湿気で黒カビが繁殖している。
豪華客船という出自なのに朽ちた倉庫のような部屋を自室に選ぶのは、成金趣味とは縁遠い男の思想を反映しているように思えた。
佐久間ジョージ。
八雲會の頭脳であり、この男の下は個々の意思を持たない歯車に等しい。
単独の意思と知恵で八雲會を存在させている切れ者。
下半身不随と聞いてはいたが、上半身の鍛え方は闘技者のそれに近く、不格好なチキンレッグになっている。
手置きは組んだ膝の上、緩く五指を絡ませた祈りの形。尊厳、余裕、僅かな遊び心。
齢は六十代、髪は白髪のオールバック、目元は濃いサングラスで覆い、身なりは麻の上下、右腕には数珠が巻いてある。
禅か仏教を取り入れたロハスなライフスタイルを感じさせる。
おそらく後者だろう。
現果という通名は仏教用語で前世の業因と現世の報いを指す。
そもそも八雲會というものは幕末に暗殺された佐久間象山が発足させたものだとされている。
しかし明治維新後も撃剣興行の裏で彼が暗躍していたという逸話があり、その真偽は定かではない。
由々桐の見解では仮託だと断定している。
象山の正式な子孫は存在しないが、複数の妾を囲って子を残しており、史実に残らない子の一人が途絶えた佐久間家を乗っ取ったのかもしれない。
大正期には移民として米国へ家系が移り、大戦時の排日移民法で祖父と祖母は引き離され、米国籍を持つ祖母の家系で生まれたのがジョージということになる。
実体が虚ろである、と由々桐は考える。
父親は黄禍論に晒されながら米国で育っている。
歴史に翻弄され国に帰属するという意識が希薄な移民家系で育ったジョージは、自己を定義する拠り所として先祖である象山と八雲會に辿り着いたのだろう。
過去への帰属。それが彼の現果なのだろうか。
眼前の佐久間はただ静かに口元を緩めている。
その余裕がどこから来るものなのか確かめなければならない。
言葉を選ぶ由々桐の機先を制して、佐久間の方から喋り始めた。
「あー、話し合いの前にまず聞いておきたいけど、ユーはどうやって入ってきたのかな?」
「俺は由々桐という。船さえ特定できれば入る方法なんて幾らでもあったが、食料の搬入路が一番楽だったな」
「そうなるとキッチンを通って来たはず。シェフは殺したのかい?」
「いいや。何人か拘束したが死ぬのはおそらくお前だけだ」
事実だ。
八雲會を知らず、この船で働いているだけの人間でも抵抗するなら殺すつもりだったが、誰もが無抵抗で降伏している。
佐久間の部屋へも招かれたかのようにすんなり到達できた。
「結構。あのエッグベネディクトを食べられなくなるならネゴシエーションは終わりだったね」
「余裕だな。自分の命を惜しまないイカレならこっちこそ交渉の余地はないんだが」
「どうだろうね。生も死も等しく実感がなくてさ。現世は夢って誰の言葉だっけ?」
「死んだ奴の言葉だろ。夜の夢に真実を感じるなら、お前はプロファイル通りのガキだな」
「夢を馬鹿にしちゃいけない。アインシュタインは十時間睡眠だったし、メンデレーエフは夢の中で周期表を完成させている。夢を正しく運用すればイマジネーションの泉になるのさ」
「そうか。そろそろ目を覚まして現状を理解するんだな」
違和感はあったが、無防備に銃を突きつけられている時点でゲームセットだ。
佐久間に選べるのは死に方くらいだろう。
死に方を選ぶ交渉。こんなものか。八雲會という巨大組織を作り上げた男の最後はこんなものなのか。
白ける思いすらある。
「欲しいものは単純だ。構成員、及び出資者のリスト。それと電子化した資金の複号鍵を寄越せ」
「なんてグリーディでスライミーなんだユユギリ。ユーは海賊かい」
「イマジネーションの泉とやらを使ってくれ」
「なら答えはこうだ。『それは出来ない』」
くだらない。
駆け引きにもなっていない。
最高に惨たらしい死を選んだだけだ。
由々桐は吸い殻を携帯灰皿に押し込んで、もう一度溜め息をついた。
「誤解する前に説明しておくよ。ユーの欲しいものはもうココにはナッシングだよ。残念なことにボクの手をリーブしまったのさ」
佐久間は尚も嗤う。
見せる余裕に確たる事情があるからだ。
「続けろ」
「オーケー。ユユギリはちょっと遅かったんだ。本当のネゴシエートはさっき終わったところさ。ココにボクが残っているのは……まぁ、ただの好奇心かな」
時間に急かされる状況ではない。
何を捲し立てるのか見届けてやるだけの余裕は由々桐にもある。
「実はね、ついさっき上で鍵りんとウチのファイターがやりあっててね」
「待て。カギリンって誰だ?」
「鍵りんは鍵りんさ。シノサキって苗字だよ」
「何だか頭痛がするな」
「それで彼女が勝った。だからボクは約束を守らねければならない」
「内容は?」
「今、日本でやってる興行の参加者を二人、安全にリタイヤさせることさ」
やはり篠咲は先に条件を提示していた。
彼女が助けたい人間ならもう答えは出ている。
「小枩原泥蓮と春旗鉄華か」
「正解。何だ、ユーの知り合いかい?」
「いいや、全くの他人だ。だからそいつらの生き死になんて知ったことじゃない。話は終わりか?」
女子供の死に心が傷まないわけではないが、少なくともその二人は能動的に参戦している。
自己責任の領分だ。
「無関係じゃないから話してるんだよユユギリ。ユーの欲しているものは全て鍵りんが持っていったのだから」
「……ほぉ。そうくるか」
「騙して悪かったね。実はユユギリの素性もズーハイの介入も全部知ってたんだ。さっき教えて貰ったからね」
「篠咲はどこにいる?」
「病院だよ。戦いには勝ったけど大出血の大怪我してたからね。復帰するのは当分先だと思う」
「じゃあ誰がお前と交渉したんだ?」
「付き人のナンバー君だよ」
「……」
思考が居着く。
南場の裏切りは予想の範囲内だが、こうも簡単に全て持って行かれるとは思ってもいなかった。
「ナンバーの提案はこうさ。ユユギリの素性、作戦を教える代わりに鍵りんを救えってさ。泣かせるね。ボクは好きだよ浪花節」
「はぁ? それで何で八雲會の情報まで渡してるんだ?」
「ボクはね、こう見えて約束はちゃんと守るんだよ。ボクが死ねば鍵りんは救えない。鍵りんが助けたかった二人も救えない。でもユユギリは僕らを殺したくて仕方ない。じゃあ切り札は第三者が持っているべきだ」
なるほど。佐久間の入れ知恵込みで南場は高跳びしたか。
腹立たしいことに、ゲームは随分前に終わっていたのだ。
「ナンバーからユーへの伝言だ。ボクと鍵りんの安全が確保され、全ての約束が履行された時、情報を渡すってさ。ボクを使いっぱしりの伝言役にするとはレバーが座ってるね彼」
「……復号鍵のバックアップは?」
「もうナンバーの口座に送金したから彼の復号鍵を手に入れないと意味ナッシングね」
南場が大人しく情報を渡す保証などない。
佐久間はこの先逃亡生活を続けるだけだが、この件で全てを失ったわけではない。
篠咲も南場も小枩原も春旗も、生かしておく理由は特にない。
由々桐は新たに取り出していた紙巻タバコをシガーケースに戻し、机上のハンドガンを持ち上げた。
「お前を殺して、篠咲も南場も探し出して殺す。八雲會は世紀のスキャンダルで解体され、資金は永遠に電子の海を漂い続ける。そういう幕引きも悪くないな」
「はっは、僕の死に意味はない。八雲會も名前を変えて存続し続けるよ」
「お前が居なくなった後の世界の事なんて気にしてどうする」
「全くだ。でもズーハイの姉御はどうするだろう、ね」
誤算があった。
もっと早く注視するべき事実があったことを、由々桐は思い出した。
気付けば紫海の三人が由々桐の強攻を止めるべく銃口を向けている。
そしてタイミング良く、懐中のスマートフォンが震え始める。
通話の発信者は想像するまでもない。
「出るべきだと思うよ」
佐久間は下肢を手で持ち上げて足を組み替えながら由々桐に着信を促した。
「……由々桐だ」
『久方ぶりねグンゾー。元気ぃ?』
「月栄」
懐かしい声。
枯れ具合に僅かな加齢を感じるが、確かに紫海の首領、張月栄の声だ。
『アナタが出し抜かれるとは珍しい。正直小気味良いかしら』
「黙れ」
『ふふふ。まぁそう言わないで。アナタには感謝しているのよ。だから失望させないで欲しいわ』
「失望だと」
『単純な損得の話よ。誰がリタイヤするか分かっただけで大儲けなの。興行はもうちょっとだけ続行してもらうわ』
八雲會興行の話だ。
任務遂行を考える余り、脇道に転がる情報を失念していた。
良くない習慣だ。
気の強い女が絡む問題は大抵碌でもない見落としがある。
「やっぱりアンタも出資者だったか」
『まぁね。お互いここらへんが引き際だと思うの。皆が生き残り、金も貰えるハッピーエンドね』
「おい、俺はまだ何も手に入れてないぞ」
『私が思うに右眼の借りは返し終わっているつもりなんだけど、今回矛を収めるならまた新しい借りになるわね。どうするかは、ん~、まぁ、アナタに任せるよ。サイチェン~』
通話の切れた室内に緊張だけが残る。
四人を殺して南場を追うことは今ならまだ出来なくもない。
道中で仕掛けた爆弾と足元に仕込んだスモークグレネードで先手は取れる。
そこまでして命を懸ける理由も見当たらなかった。
「はぁ。何だか疲れちまったよ」
「答えは出たかなユユギリ」
由々桐がハンドガンのセーフティを上げて懐中へとしまうと、紫海の三人も同じく不戦の意思を示した。
「あぁ。帰って酒を呑む。そんでいつ鳴るか分からない電話とにらめっこだクソッタレ」
「それはグッドアイディアだ。丁度、ここにテキーラがある。互いの成功を祈り伝統に倣おうじゃないか」
佐久間は待ちかねた瞬間とでも言わんがばかりに、車椅子の背から琥珀色の一瓶と四つのショットグラスを取り出した。




