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どろとてつ  作者: ニノフミ
第四十一話
223/224

【衡量】⑤

   ◇




 大粒の雨が草木を激しく叩き、鼓膜がざわめく。

 遠雷が空気を揺らし、潜めていた呼吸が乱れる。

 泥濘む地面が素足を沈め、構えの平衡感覚を狂わせる。


「悲しいな、鍵理」


 対岸から声が聞こえる。

 自然が織り成すノイズを擦り抜けて脳に直接響く声。

 篠咲は湧き上がる言葉を飲み込んだ。

 蜻蛉に掲げた長刀の柄が雨と汗と血で滑る。

 戦い始めてから何分経ったのであろうか。

 斬り合う男女は共に存命ながらも、既に数度の切創を肌に刻みつけていた。


「強さは傲慢さであってはならない。彼我の成熟を見守る無言の優しさとして花開くものだ」

「今日はよく喋りますね」


 篠咲は右蜻蛉、左足を前にした撞木足で構えている。

 直線的な攻防では槍の方が圧倒的に強いことを識っている。

 槍の男は左半身の中段で、素槍の穂先をゆっくり揺らして相手の胸部を捉え続けている。

 立体的に動く古流剣術が相手だと槍の有利が消えることを知っていたが、穂先が分かれた枝物を使わないのは流派の意地であり、扱う男自身の剣境の高さを真っ直ぐに示していた。


 篠咲は槍の恐ろしく広い間合いに怯むことなく自分の立ち位置を測る。

 どんなに的確な予測をしようとも、行動の起こりを見逃すか間合いを間違えれば槍の刺突を躱すことはできなくなる。

 コンマ数秒のミスが人間の反応速度を超えてしまう。

 その地獄の駆け引きを一瞬で何度も浴びせかける。

 だから必ず『先』は取られる。

 眼前の男、小枩原有象(アリカタ)の槍術とはそういうものだ。


「古流の廃絶などに人生賭けてどうする。そんな使命を抱えるのはよせ。幸せはいつも手の届く範囲にずっと昔からあるものさ。青い鳥のオチだよ」

「生憎、家庭には恵まれていなかったもので」

「全てが恵まれていなかったとは言い切れないだろう。君の技は君がゼロから生み出したものではない」


 反吐が出そうになる。

 元より弁が立つ人間ではないが、説得の言葉で虎の尾を踏んでいる。

 あんなに信頼し、愛して、寄り添うことを選んだのに、これ程までに致命的な行き違いを見落としていた。

 腹立たしい。

 有象は、よりによって父の流派を指して恵まれていると言っているのだ。

 怒りをどこに向ければいいのか分からないのが腹立たしい。

 こんなことになるなら始めから有無を言わさず戦えばよかった。

 心の内を誰かに見せて生きていくのは、今日この場で終わらせよう。

 もう二度と泣かないよう、この場で涙は使い果たそう。


「有象、もう黙れ」

「……そうか。ならば俺は俺の意地を張ろう」


 篠咲は眼を見開き、滲む視界を下方へと追いやる。

 人間の脳は光より音の方を速く認識する。

 実際の速度は音より光の方が圧倒的に速いが、互いを同調させることで正確に世界を認識できるように機能しているのだ。

 その僅かな歪みを修正するべく全ての音をノイズとして切り離す。

 そう思い込む(・・・・)

 想像力を以てして認識できる世界を包み込み、身体機能を押し上げる。


 そして最後の覚悟。

 小枩原有象が相手ならば必勝の策がある。

 瞬間的には最強クラスの剣客だが、長時間のスタミナ勝負になれば彼の勝ち目は消え失せる。

 決して狙ってはならない下策中の下策、愛する者が抱える病状を利用した外道の謀略。

 篠咲の想像力は既に、十数手先の凄惨な結末を捉えていた。




   ◆




「篠咲ぃ!」


 叫び声が聞こえた。

 反射的に息を吸い込んだ篠咲は、鼻孔から喉に下りてくる血液を食道側に飲み込むことで誤嚥を回避した。

 意識が飛んでいた。

 押し倒されてから何秒経ったのか分からない。

 鼻骨は圧し折れ、腹の上にはロコサビオが跨っている。

 篠咲の顔面に押し付けた右手首の断面を引き戻し、代わりにナイフの長さで握った刀身を鉄槌の要領で振り下ろす瞬間であった。

 防御が間に合わない。

 回避もできない。

 刺し違えることもできない。

 夢の続きとばかりに聴覚を切り離して反応速度を上げても、もう間に合わない。

 終わりを悟った。

 勝ち続ける博打打ちなど存在しない。

 辞め時を見失ったジャンキーは、本当に勝たなければならない大博打で最悪な最後を迎えるようにできている。

 悲愴と後悔が脳裏を埋め尽くし、走馬灯すら押し流していく。


 死を告げる鉄槌は無慈悲に振り下ろされ、ラウンジ中に響き渡る鈍い音と共に大きな血飛沫を上げた。


 勝敗を分けたのは篠咲でもロコサビオでもない。

 唯一、現場の観客として鉄柵に隔離されていた南場の機転であった。

 土壇場で柵の隙間から投げつけたパイプレンチが床で跳ね、ロコサビオの死角で鈍重な爆音を生み出していた。

 一対一の勝負に水差す横槍。

 それは申し合わせた作戦ではなく、本来なら篠咲もロコサビオも等しく居着かせる公平なイレギュラーだが、篠咲は視覚に全神経を注ぎ、聴覚を切り離している。

 ロコサビオだけが攻め手を止めた瞬間、振り下ろされる鉄槌に篠咲の両手が間に合った。

 指取りでロコサビオの左小指が持ち上げられる。

 しかし折ることはできない。握力の差がありすぎる。

 軌道を逸らされた切っ先が篠咲の右眼球に刺さっていた。

 奪刀の意図を理解したロコサビオは左手の握りを強め、切っ先を右眼の更に奥へと捩じ込んでいく。

 それが彼の最後の抵抗であった。


 競技武術に於いて、マウントポジションは圧倒的な有利を生み出す。

 だが全く対策が無いというわけではない。

 一般的には下側の人間は背を丸め、相手の頭部を抱えて引き込むことで視界を塞ぎ、上からの一方的な打撃を封じ込める。

 競技武術でないならばそこからの選択肢も多い。


 まず初めに篠咲の左腕が流血した。

 ロコサビオの頭部を抱え込んだ時、ドレッドヘアーに絡まる鋼線が皮膚を切り裂いたからだ。

 それでも構わず引き寄せ、頬を並べた篠咲はそのままロコサビオの右耳を咬み千切った。

 痛みで止まるような男でないことは充分に理解している。

 しかし痛みも欠損も現実に起きている現象だ。

 意識まで切り離すことはできない。

 意識の分散が隙を生み出す。

 右耳の咬断と同時に、指取りに抵抗していた左手の小指を折り曲げる。

 奪刀に成功した篠咲は刀身を握り込み、切り裂かれる手の平の奥にある指骨で最後の刺突を支えていた。


 ロコサビオは刀が側頭部を突き抜ける感覚を、実際に刺されてから数秒遅れて感じ取っている。

 全ての攻防は流れるように、速やかに実行されていた。

 抵抗することは容易な体格差なのに、思考の速度が身体反応の追随を許さない。

 泥臭い闘争の中に於いても褪せない鮮やかさ。

 ロコサビオは心地良ささえ感じていた。

 

 パイプレンチの落下と共に舞い上がった血飛沫は、二人分の熱を交えて床面を染め上げていた。




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