【衡量】④
◆
勝負は付いた。
武器を握る手首を斬り落とされ、相手は未だ無傷。
これ以上戦う理由はない。
鉄柵越しに勝負を見ていた南場雄大は篠咲の勝利に嘆息する。
南場のみが、これで終わりだと思っていた。
絶海の廃船内、カメラの向こう側にいる観客。
八雲會興行を知る面々が未だ賭け金を上乗せしていることを南場は知らない。
南場を除く観客の共通認識として、『八雲會特別闘技者は金が目的ではない』という確信がある。
金を欲している人間が不可避の殺し合いに身を投じる意味は薄い。
多くの場合、そこに名誉があるから戦うのだ。
暴力衝動を肯定し、殺人には名誉と称賛が齎される。
世に一定の割合で存在する反社会性人格者をターゲットにして、表社会から弾き出された異常者を、異なる法が支配する異世界へと誘う仕組み。
それこそが質の高い闘技者を補充し続ける唯一の方法だ。
記録として残るロコサビオの出自は、原油価格統制に失敗したハイパーインフレ、ベネデンシア危機でジャマイカへと逃亡を余儀なくされた難民一家の一人となっている。
流れ着いた地で家族を失い、麻薬カルテルに拾われ、殺し屋としての知名度を上げて、最終的にカルテルの幹部を皆殺しにして、辛うじて繋がりのあった表社会からも姿を消すに至る。
八雲會への参戦にあたり、佐久間現果との面談にて彼はこう述べている。
『ジャーが光あれと言った。そしてレゲエが始まった。だから俺は俺に始められることをしなければならない』
黒人解放運動から発生したラスタファリ運動というものが存在する。
バビロンから同胞を解放し、全ての黒人の母国、ザイオンへと帰還することを理想とした宗教的思想であり、ジャーとはエチオピア最後の皇帝ハイレ・セラシエ一世と神ヤハウェの同一視から生まれた概念である。
しかしながら、ロコサビオはラスタファリアンのコミュニティから追放された異端者であった。
殺人という活動を通して他者を支配し、自己評価し、やがては社会を変えることができるという妄執に囚われていた。
実践とフィードバックの繰り返しで見出した存在意義はジャーそのものになるという独自の宗教観であり、それがアプリオリな使命であると動機付けられる。
要するに、社会環境とトラウマの残存が認知マップを形成するという、教科書通りの快楽殺人者である。
八雲會を知り、ロコサビオを知る者たちは、彼の手首が斬り落とされたという事実を終了の合図だとは思わなかった。
むしろ、瞬間的に彼への追加ベットが殺到する事態になっている。
ロコサビオは、手首を斬り落とされながらも前に踏み込んでいた。
足元は篠咲の前足を踏み締め、この先の攻防での後退を封じ込めている。
その瞬間篠咲は後退を諦め、小手打ちを引き戻す最中にファルカタを握る右手首を横へ弾き飛ばした。
ロコサビオが前に伸ばす左手で武器を掴み直すと予想していたからだ。
死闘が始まって以来、初めて予想が覆される。
左手が掴もうとしていたのは篠咲の刀身であった。
手の平に刻まれる無数の皺。それは、よく見れば直線の刀創である。
古の空手家は生身の拳にて木を打ち、石を打ち、鉄を打つ鍛錬にて打撃面の角質化を成す。
それとは真逆、真裏の鍛錬。
幾度もの負傷と再生を繰り返した手の平を盾とする。
空いた手での着衣コントロールのみならず、武器の拿捕すら念頭に置いたロコサビオのガローテ・トクヤーノ。
彼が群雄割拠の八雲會で生き残り続けてきた特別がそこにあった。
相対する篠咲は、呼吸を止めていた。
予想が追い付かないのは酸素の供給間に合っていないからだ。
身体の限界が近い。
思考を乱す喘鳴と横隔膜の収縮を止め、攻防にだけ集中力を注ぐ。
足は踏み付けられ、日本刀の切っ先はロコサビオの手の平が強固に保持している。
引き斬りで指を切断できるか試そうとするが、その前に結論が出る。
ロコサビオは刀を握ったまま躊躇なく左手を引き込み、篠咲との間合いを詰めてきた。
刃物を全力で握ることが可能ならば、後は握力の差が物を言う。
フィジカルで勝ち目の無い篠咲は刀を手放し、素手の両手を前に伸ばして前方を守る。
その両手をロコサビオの頭部が押す。
入身からの頭突き。
舞い上がるドレッドヘアーが篠咲の視界を塞ぐ。
頭突きを受け止めた手の平から鋭い痛みが伝わり、髪に鋼線のようなものが絡めてあることが分かる。
――次手は。
篠咲の視界が激しく揺れた。
またも読み違え。
盗り上げた刀を振り回してくるかに思えたが、実際に篠咲の側頭部を叩いたのは手首のない右腕の方。
そのまま腕を押し込まれ、体重を預けるようにしてロコサビオが覆い被さる。
入身からの当身、そのまま投げに繋げる動作は日本の組討術に通ずる。
――よかった。手首を斬り落としていなければ襟を掴まれて刺し殺され、
為す術なく押し倒される最中、篠咲は思考は曖昧な記憶の淵を彷徨い始める。
虐げられた母親。
傲岸不遜な父親。
利用し使い捨てた女。
顔も名前も知らない男。
誰だろうか。
共に笑い、愛し合えたかもしれない瞬間。夢の時間に存在した男。
男の結末を知る篠咲は、胸が軋む。
とうの昔に忘れ去っていたつもりの想いが蘇る。
ああ、そうか。お前はこんな顔をしていたっけ。声を聴かせておくれ。
男の声が聞こえる。
低く、強く、優しく、儚い声が呼んでいる。
素槍を構えた男は笑い、長刀を蜻蛉で掲げる女は子供のように泣いていた。
その日は激しい雨が降っていた。




