【衡量】①
スプレーの手書きで粗雑に拵えられたヘリパッドに降り立つと、僅かに傾いた接地に躓きそうになった。
送迎ヘリも着陸せず地面スレスレでホバリングを続けている。
踏み留まろうと足置きを模索する南場雄大は、絶え間なく変化する水平にたたらを踏む。
クルーズ船エカテリーナ号。
かつては富裕層相手の世界周遊で活躍した豪華客船であったと聞く。
今やその面影はない。
経年の材質劣化のみならず、船楼には人の手で荒らされた形跡が見受けられる。
地元の解体業者が乗り込んで目ぼしい機器や装飾品を盗んでいったのだろう。
それでも鋼材目的の違法解体にまで手が及んでいないのは政治的な理由がある。
ここまでの大型船舶は接岸させるだけでもリサイクル利益を上回る大損になり、誰が費用を持つのかで国際問題にまで発展しているからだ。
しかし洋上解体は燃料流出を懸念している環境保護団体が許さない。
政争が絡むトピック故に地元民は迂闊に手を出すことができない状況を形成することになった。
正規の手続きでどうにかできないかとまごついている内に、エカテリーナ号を取り巻くように小型船舶が違法廃棄され続け、更に解体作業の難易度を上げていく。
かくしてエカテリーナ問題は、どこかの慈善活動家が名乗り出るまで棚上げにされるアンタッチャブルになった。
或いは、この拮抗状態を作り上げたのが佐久間であるというのが由々桐の見解だ。
送迎ヘリが飛び去るとようやく鼻腔に潮風が舞い込んできた。
鉄錆と繁殖した藻の生臭さが入り混じる海の匂い。
不安定な足場も相まって南場は強烈な船酔いに苛まれていた。
「来るんじゃなかった、って弱音吐いていい?」
「好きにしろ。状況は何も変わらん」
南場を一瞥した篠咲は飛び去っていったヘリを眺めながら笑みを零す。
その歪さに南場は暫し閉口した。
篠咲は髪束を後ろで纏め上げ、前髪で隠していた顔貌の左半分を晒している。
夥しい火傷痕。
一度剥がれ落ちた皮膚を無理矢理縫い合わせて留まる肉塊。
眉もまつ毛も無く、膨れ上がった目蓋が左の視界を狭めている。
「あまり見てくれるな。照れるだろ」
「あんた金持ってるんだから整形くらいしろよ」
「余計なお世話だ。割と気に入っているんだよ」
篠咲の余裕は強がりなどではない。
それ以前の自分と明確に分け隔てる顔の変化を受け入れている。
彼女を剣姫として持て囃していた世間の風潮は、彼女の美貌が一因であったことは言うまでもない。
失うことと引き換えに得られた何かに満足しているのだろうか。
――変わった。
前とは違う、と南場は結論する。
由々桐も口にしたように、篠咲鍵理は変わった。
撃剣大会の流れの中で見せていた冷徹で強硬な意思が感じられない。
思考の柔軟さが身に帯びる雰囲気をも変えてしまっているのだ。
何が彼女を変えたのか。
時系列的に、答えは撃剣大会の三回戦を欠場した理由にあるように思える。
噂では無観客の死闘にて負傷したものとされていて、相手は同じく欠場した小枩原不玉。
小枩原には槍使いの娘とセコンドを務めた弟子がいて、そいつらは開催中の八雲會興行にも参加しているという話だ。
篠咲は取り零してしまった生命の分、犯してしまった罪の分、代わりの誰かを救うことで許されようとしている。
まるで死ぬ間際の贖罪行為のように思えた。
「おい、俺を巻き込んでおいて勝手に死ぬなよ」
「……そんな風に見えるのなら心外だ。私ほど生き汚い人間はいないよ」
杞憂か、楽観か。
戦闘に備えて顔貌を晒した篠咲だが、声には覇気がない。
軋む甲板に合わせてゆらゆらと歩む亡霊。
何を思い、どこへ向かっているのか。
ボディーガードとして同行した南場だが、篠咲の行き着く地獄の果てまで着いて行く気はなく、場合によってはコウモリのように立ち回らなければならない。
篠咲、由々桐、佐久間。それぞれが求める落とし所を捉え、尚且最大の利益を得る。
身を滅ぼすほどの富ではなく、誰の因縁も引き摺ることもない丁度良い地点。
最弱の存在である南場にとって想像以上に難解な問題であった。
スプレー書きの矢印に導かれるままに歩を進めていくと、甲板から船室へと下る階段に差し掛かる。
内外を隔てる扉は無く、長年雨風に晒されてきた手摺の塗装が棘のようにささくれ立っている。
階段には絨毯が貼られていたのだろうか、繁殖した藻や苔の分厚みが増し、踏み込む度に水分を飛ばし心地悪い感触を靴底に返していた。
これから船底へ向かっていくことになるのだろうが、南場は船が沈没しないかが気掛かりになっていた。
エカテリーナ号を取り巻く廃船群が消波ブロックのように機能して本丸を守ってはいるが、乗り込む前に確認した外観は喫水線も大きく上がり、船尾のドラフトマークすら水底へと沈んでいる。
解体作業を待つまでもなく、老朽化した船体から燃料が漏れ出すのは時間の問題だろう。
船内の照明は点いていない。
薄暗い船室の全容はまだ見えてこないが、矢印の蓄光塗料が行き先を教えてくれている。
ついさっきまで照明に照らされていた証左だ。
ただの面会ですらゲーム感覚の演出を盛り込む佐久間という男の趣味の悪さが窺い知れる。
このまま普通に対面できるかも怪しい。
送迎ヘリのボディーチェックをパスするために武器の持ち込みを諦めていた南場は、階段の踊り場に落ちていたパイプレンチを拾い上げた。
上顎部が折れて使い物にならないあたり、解体業者が捨てていった防爆工具だろう。
ベリリウム銅の強度は心配だが、鈍器として振るう分には問題なさそうだ。
先導する篠咲もいつの間にか手頃な金属片を握りしめている。
真っ当に会う気のない佐久間の手の平の上、心許ない現地調達でも素手で特攻するよりはいくらかマシに思えた。
折り返し階段を三階分下りると、ようやく矢印は室内へと向かい始めた。
最初の部屋はかなりの広さがあり、各客室に通じるラウンジであったと予想できる。
老朽した壁の隙間から微かに差し込む陽光がまだ海の上であることを知らせていた。
壁際には乱雑に押しやられたテーブルや椅子、観葉植物が見え、床の上では船体の揺れに合わせてガラス片が輝いている。
天井を飾っていたシャンデリアの名残だろうか。金目の物は全て盗まれた後だ。
「南場、お前はそこにいろ」
「お、おう。何かあったら勝手に援護するよ」
ボディーガードとしての役目を忘れかけていた南場を階段に残し、篠咲は蓄光塗料の矢印が途絶えるホールの中央で立ち止まった。
視線の先の闇中、誰かがいることは南場にも確認できた。
不気味な演出に飽き飽きしていた南場が声をかけようとする直前、船内のスピーカーがノイズ音を掻き鳴らす。
『あーあー、テステス。聞こえるかな? 鍵りん。ウェルカムトゥマイヘイヴン』
低く嗄れた男の声。
確認するまでもなく佐久間現果本人の声である。
佐久間は下半身不随で車椅子生活を余儀なくされていると篠咲は言っていた。
ならば対岸に立つ影の男は何者なのか。
「随分みすぼらしい城だなジョージ。お前幾つだ? 未だにごっこ遊びか?」
『ハハハ! 君はもう少し遊びを覚えたほうがいいと思うよ。人生なんてただの暇潰しさ』
艦内放送と会話が成立している。
佐久間は離れた場所に居ながら、マイクとカメラでこの場所を監視しているのだろう。
何故現れないのか。篠咲との会合を望んでいたのではないのか。
南場の思考よりも早く状況は変化していく。
頭上から轟音と共に降り注ぐ何かが南場の視界を遮った。
鉄柵だ。
階段の区画とホールを仕切る鉄柵が南場と篠咲を隔離していた。
『いいかい、鍵りん? 今の人間は過剰な情報に目を奪われ、情報の奴隷になっているんだよ。僕は哀れな君たちを時代や文化から解放してあげているのさ。これもデジタルデトックスの一種だね』
「どうでもいい。お前は約束を果たせ」
『つれないね~。……でもそこがいい! 毒に侵されて尚君の魅力は揺るがない! ビューティホー!』
スピーカーから流れるフィンガースナップを合図にして、暗闇の世界が一斉に輝きを取り戻す。
まばゆいばかりの光、光、光。
いつの間にか天井に現れたミラーボールが忙しなく光点を踊らせている。
鉄柵の内側にはスポットライトに照らされる二人の男女がいる。
篠咲の対岸に立つのは、漆黒の巨人。
ライトに照らされても影を纏う黒褐色の肌。黒人。
かろうじて頭部のドレッドヘアだけが特徴として捉えられる。
今から何が始まるのか。南場は思考を先回りして理解していた。
篠咲は始めからこの場へ向かって歩を進めていたのだ。
真昼のような明るさで照らされた舞台。
篠咲が握っていた金属片と思わしきものは実際のところ、日本刀であった。
注視していれば気付くタイミングは何度もあったことに南場は後悔する。
『さぁて、他ならぬ鍵りんのお願いだからね。僕も奮発して最高なカードを用意させてもらったよ! 紹介しよう! 【ブリンカドール】、ロコサビオ!』
黒人の大男は二つ名を証明すべく、助走なしの前宙で大きく跳ねて距離を詰めて躍り出た。
手には大振りのククリナイフ状の刀身が握られている。
紀元前から存在する刺突、斬撃両方に対応した実戦武器、ファルカタ。
扱われる術理が日本古流である可能性は低く、未知の武術と戦う篠咲の対応力を試す組み合わせ。
全ては予め仕組まれていたことであった。
ロコサビオと呼ばれる男は純白の前歯を覗かせて陽気に嗤う。
「アイリー。元最強との巡り合わせ、ジャーにビゴップだぜ。ジャッジはノーバイアスでよろしく!」