【延鏡】⑤
◆
ライオネル・クーパーにとって長楽十四朗という男は何ら脅威にならなかった。
実力、思考や動機、行動のプライオリティ全てが常人の枠を超えてはいない。
常人の枠。
それは『死との向き合い方』が定義付ける。
必要に迫られて死ぬ覚悟を宿すのは常人の悪足掻きに過ぎない。
異常人にとっての死とはただの結果である。
欲求に従って行動することが己の生死よりも勝るプライオリティを持っている。
故に、突如現れた異常人を前にしたライオネルは動かなかった。
石礫と素手の打撃。碌な武器も持たず殺し合いに割り込むイカレは自分が死ぬ可能性を勘定に入れていない。
ハンドガンのリロードを待ってくれるわけもなく、近接戦闘を余儀なくされるまでの僅かな時間をライオネルは戦力分析に割り当てる。
マワタリ、と長楽は呼んでいた。
旧知の関係性。八雲會の闘技者であろう。
事前に入手していた闘技者リストの中に存在する男だ。
馬渡恋慈。
當田流という古流剣術をバックボーンに置く近接戦闘の巧者。
ライオネルは日本古流の体系に辟易している。
型という独自の技術を知っておけば容易に対策できるかと思えたが、分岐した流派を含めていくと膨大な枝葉があり、最終的には術者個人の取捨選択で未知の技が作られたりもする。
特定の流派を識るということは、前後の歴史を丸ごと取り込む作業に等しい。
また、八雲會が用意する舞台は道場稽古を離れた戦場である。
そこで生き残ってきた強者が型を型通りに振るうわけもない。
戦場の経験から法則を導き出す帰納法が型、型という法則の組み合わせから戦場の解を導く演繹法が守破離。
守破離に至っている闘技者が流派名を名乗るのはブラフのようなものだ。
対策を立てやすく、その実対策に意味はない。
かと言って軸にあるバックボーンを全く無視するわけにもいかない。
結局のところ、限られた時間で学び切れるものではなく、ライオネルは奇襲と不意打ちで術理そのものを無効化すること選択をしていた。
馬渡の腕から解放された長楽が人形のように滑り落ち、地面で跳ねた頭骨がゴトリと音を立てた。
心臓打ちによる失神は心室細動を伴う。奇跡的に回復できてもリタイヤは確実だろう。
長楽が用意していた特殊な刀は、今は馬渡の手に。
あと数秒後にはどちらかが死ぬ近接距離。
互いに呼吸を隠す激尺の静寂を破り、馬渡が口を開いた。
「緊張。誘惑。素晴らしい。ぜひ身を委ねたいところですが……場所を変えませんか?」
それは提案であった。
ライオネルは半身の後ろ腰でナイフをゆっくりと抜きながら会話に乗る。
「場所が重要か?」
「ええ。私も貴方も死ぬことを問題としていない。問題なのは生きることの純度です。違うなら話はおしまいです」
「見えてこないな」
異常人は常人以上に同類を見抜く。
常人には抽象的な言葉でも、同類には存在意義に響く具体的な言霊を帯びる。
馬渡は演技するでもなく、言葉を選ぶでもない生粋の異常人としてそこに在り、その存り方だけで独自の説得力を構築している。
人間とは関係性と社会性の生き物だが、時に覚醒した意識で独自の個を切り開く者が存在するのだ。
ライオネルは馬渡という男に興味を持った。
「この地には大戦時の坑道が多く残されていて、何人かが引き篭もって安全に狩りを続けているようです。踏み込むには協力者が必要なんですよ」
「……どうやってその情報を?」
「主催者ですよ、レニー。公平性が崩れれば介入する。それが彼らです。貴方達のズルは長楽君の退場で帳消しとなるでしょう」
「それは有り難い。なら、お前の提案を受け入れる強制力もないことになる」
「報酬はありますよ。この興行の賭け金はとある資源の採掘利権です。それに関わる上院議員と請負人のリストを貴方に渡す用意があるそうです。必要があれば以後八雲會が貴方を保護します」
「……」
調べられている。
ライオネル・クーパーが米軍の使いっぱしりにされている理由から、米軍が違法性の塊である興行へ参加する理由まで。
馬渡の言うことが本当なら、単にアメリカと日本の資源戦争という枠に収まるものではなく、長楽が翻弄された赤道ギニアの政争など遥かに超えるスキャンダルとなる。
末端で働く掃除人など最初から始末する算段でいるのだろう。
指示されていたカーネーション兄弟の抹殺は本来の目的ではなく、彼らにとってサブクエストのようなものだ。
「これで最後です。場所を変えませんか? ここで徒花散らすも一興ですが――」
「いや、充分だ。これ以上無い提案に感謝すると、飼い主に伝えてくれ」
間合いを離した馬渡が拾った鞘に納刀するのを確認して、ライオネルもナイフを腰に戻す。
共闘というわけにはいかないが、この場で戦う理由は失くなった。
怒りで逆流する胃酸がライオネルの喉を焼く。
沸騰する体液が無差別な殺人衝動を掻き立てて脳を震わせる。
最適な判断をしていたつもりだったが、大局を動かす屑どもの手の平で転がっていただけであったという事実。
――俺もまた、完璧ではない。
完璧な者など存在しない。
であるからこそ、模倣し、取り込む必要があるのだ。
まだ足りない。
飢餓と渇望が本能を呼び起こしていく。
個人では補いきれない欠損を埋めるピース。
ミュトス・カーネーション。アイザック・カーペンター。馬渡恋慈。八雲會。餌場。贄。
ライオネルは異常人を喰らい血肉とする度、新しい個が生み出され珠玉の輝きを増していくことを知っている。
本分を取り戻した獣は、飢えで剥き出す牙を隠すように死者のマスクを被り直し、導かれる死地へと歩を進めるのであった。
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出会いとは数奇なもので、すれ違うだけの他人として終わることもあれば、時に抗い難い運命を垣間見せることもある。
運命とは川の濁流と同じだ。
流される小石は、角が取れて錬磨されていく自分の変化を知る暇もない。
「夢があるのヨ」
女は虚空に向けて呟く。
手先も見えない漆黒の中、天井で反射した声が更に深い闇へと吸い込まれるように木霊する。
時間の感覚は消え失せ、外が昼なのか夜なのかも分からない。
「戦うのは楽しいケド、いつかはこんな生き方辞めなきゃってサ、思うワケ」
「うん」
コンクリートの床は抱き合う二人の女から容赦なく体温を奪い続けているが、それでも尚体外に溢れる熱が呼気にも顕れる。
裸の女二人を中心とした寒暖の境界線が結露で湿る。
チケットの双丘で鼓動を聞いていた鉄華は、懺悔にも似た言葉を静かに受け入れていた。
弱さ。脆さ。危うさ。
誰にでもあり、誰もが恥じ、誰もが巧妙に隠して生きているもの。
一方で、生きる動機になり、その個人を形作る根源であるもの。
鉄華はチケットの根源を知りたいと思い、視線を合わせて続きを促した。
「で、殺し以外デどんな生き方があるのカナって考えたラ、ワタシは絵を描きたいのかもしれないネ」
「絵?」
「そ。昔ぶっ殺したターゲットに絵描きがいてサ。まぁ、ソイツは贋作ばっか作って荒稼ぎしていたクズだたけど、ナンカのタイミングでソイツ個人の作品を観る機会があってネ」
「どんな絵だったの?」
「くだらない絵ヨ。オートマティスムっていうのかナ、絵の具乗せたキャンパスを雨水に晒しテ無茶苦茶にする抽象画ネ。ソンナモン売れるわけないネ」
「そっか」
「そんでソイツの最後の作品がまた傑作でサ、キャンパスを真っ黒に塗り上げたダケの黒い板なのヨ。……でも、実際はソウじゃなかった」
そこでチケットは一呼吸置いた。
喋りすぎてしまった後悔と諦めの嘆息。
全てが肌を通して鉄華に伝わる。
「実際は黒一色ではなく何層も絵の具が塗り重ねてあっテ、水で表面を洗イ流すと綺麗な風景ガ現れるノ。ナンでそんな形で遺したのか分からないけド、こう、白塗りの玩具みたいな家が段積みデ並んでてサ、海岸線に虹がかかってテ、ワタシはただ魅入ってしまったネ」
「ミコノス島?」
「そそ。地中海の島。とても綺麗でサ、ワタシ学がないからただもう綺麗としか言いようがナイ景色」
「だから絵を?」
「うん。作者はクズでも、絵に罪はナイって思たのヨ。きっとワタシが描く絵もワタシより綺麗なモノになってくれるネ」
「チケットが描く絵、私も見てみたい」
本当にそう思った。
考察の末、納得した気になるような芸術ではなく、ただただ殴りつけられるような衝動を齎す本物は実在する。
漠然としていて言葉にできないが、彼女なら到達できるという確信があった。
「鉄華は? 夢とかナイの?」
「無いというか、分からない。子供だから」
「ハハ、大人でも分からない人イッパイいるネ」
「そうだね。真剣に考えてないだけかも」
「ナラ、一緒に来るカ?」
「……一緒に?」
「この一件が終わったらサ、ワタシと一緒に世界を見に行くネ。信じられないくらい広いヨ。今ある悩みナンテ本当にちっぽけネ。小さな島国の重荷ハ全部捨てテ視野を広げる。そしたら本当の役割が見つかるヨ」
突然向けられる提案に、鉄華は胸がざわつく。
期待と不安で鼓動が弾む。
「……世界」
熾烈な過去を背負っていようとチケットがチケットで在り続けられるのは、自分の不幸など取るに足らないという世界の視野を持っているからだ。
もっと深い泥濘でも必死に足掻き、笑って生きる人々もいる。
そういう人生に触れることはきっと糧になるだろう。
しかし、今まで築いてきたもの全てを捨てるのは並ならぬ勇気がいる。
家族、友人、師匠。
彼らは自分の決断を悲しんだりしないだろうか。
「なーんてネ、冗談ヨ」
「は?」
「これはワタシのわがまま。そんなもので人生流されちゃ駄目ネ」
暗中でいたずらに舌を出すチケットがいた。
子供のような無邪気さ。だが、暗くて捉えられない顔貌はどこか悲しみを帯びて見える。
「ごめん。優柔不断で」
「イイヨ。でも、ふと思ったノ。この先の人生、隣に鉄華が居てくれたらワタシはもっともっと幸せになれる気がするネ。だから鉄華モ自分のコトだけ考えて自分本意に生きるといいネ」
「うん。ありがとう」
答えの出ない思考を拭い去るように、鉄華はチケットを強く抱きしめた。
このところ緊張続きで休まる暇もなかった身体が休息で脱力していく。
鉄華は覚醒と睡眠の間で、海風に揺られていた。
蒼い空。碧い海。赤橙の砂浜で白いイーゼルと向かい合う女がいる。
そこには暴力もなく、悲劇もない。
波飛沫のようにキラキラ笑う少女を脅かすものは何もない。
それはきっと、とても素晴らしい人生なのだろう。




