【延鏡】③
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朝日が空の色を変え始める時刻、くぐもった破裂音が立て続けに三度反響した。
どす黒い血糊が廃墟の壁面に叩きつけられていく。
さながら現代アートのように、ロールシャッハテストのように、滴る液体が重力で惨劇の尾を引いていた。
至近距離の射撃は人体を消音器代わりに独特の音を上げる。
八雲會の舞台ではもう聞くことはないと思っていた破裂音に、長楽十四朗はある種の郷愁を抱いていた。
目の前にはハンドガンを持つアメリカ人、ライオネル・クーパーと犠牲者の肉塊。
鍛え込まれたフィジカルで競技的武術を修めるのではなく、ただひたすらに暗殺分野に割り振って特化させている男。
試合形式の興行では真価を発揮し得ない別方向の強さ。
米軍がお墨付きで送り出すだけのことはある。
廃屋の窓から夜風が吹き込む。
吹き込んだ風さえも死臭を伴い、嗅覚を鈍化させていく。
長楽はニットキャップを脱いでスキンヘッドを晒し、汗を拭ってからまた被り直した。
長楽は潮時を感じ取っていた。
今回の八雲會興行は失敗であると言わざるを得ない。
純粋な闘争の場を用意するという遊び心が発端であっても、参加者を集めるのに多くのカードを切り過ぎている。
米軍など最たるものだ。
彼らを動かせる人物が求める成果など想像の枠外である。
今でこそドローンによる支援物資等々、ルールを曲げる有利を享受しているが、現地協力者である長楽は米軍がそこまで介入する理由を知らない。
このまま勝ち残っても不要になれば容赦なく消されるだろう。
相手はそういう人選をしている。
長楽がライオネルのエスコート役に選ばれたのは、過去の傭兵経験と八雲會への在籍を米軍に知られていたからだ。
発端は二十代前半。
殺人犯として日本国内を追われ、東南アジアを横断し、なし崩し的に流れ着いた中東にて民間軍事会社に参加したことにある。
当時は金が必要だったが、売れるものといえば身体に宿る暴力のみ。
しかしいくらか日本古流を修めた程度で近代兵器に対抗することはまず不可能である。
治安が崩壊した地域では町の喧嘩で銃器が飛び出してくることも度々あり、早急に対策しなければならないと思っていた。
そんな折にPMC、アームズゲート社が声をかけてきたのは僥倖であったと言える。
選抜試験もなくサインさえすれば入れるという掃き溜めのPMC。
内戦が続く中東では急造の武装組織を編成することに需要があり珍しい話ではない。
軍事経験がなくとも引き金さえ引ければ戦闘力になる。
火器の知識と近代戦術の講習を受けて、更に金まで貰えるのだ。
当時の長楽にすれば降って湧いた儲け話である。
今思い返せばそれが運の尽きだった。
数回の護衛任務を終えて向かった先は赤道ギニア共和国。
いつものように目的も告げられないまま出向させられたゴロツキたちは渡された報酬にニヤつくばかりで、戦場がアフリカ中央へと南下していくことへ疑いすら持っていない。
無知と私欲を詰め込んだ泥の舟は予定された沈没へと導かれる。
赤道ギニア大統領の暗殺未遂。
ギニア湾で新たに発見された海底油田の政争から勃発したクーデターである。
失敗に終わった公用車の狙撃を主導していたのはSAS。発展途上国に国際資本を投入したいイギリスの絵図であった。
国家間の陰謀であったことは後に明らかになるのだが、当時SASが国外逃亡の時間稼ぎとして用意したのがアームズゲート社の傭兵ということになる。
フリーの傭兵とは紛争当事者ではない職業殺人者であり、拿捕されれば単に犯罪者として扱われる。
訳も分からず現地軍警察に拘束された長楽にはジュネーブ条約が適用されることもない。
異国の檻の中が長楽十四朗という男の終着点であった。――本来なら。
拷問か裁判による死を待つだけの獄中生活は、一通の手紙で転機が訪れる。
手紙の前半は親族を騙る安否の心配が英語で並び、後半は日本語。毛筆の草書にて脱出の手順が書かれていた。
道中では避けられない戦闘が数度あり、最終的に埠頭で待つ脱出艇へ辿り着けばゴール。
その手紙を受け取ってから長楽は二つの変化を確認していた。
拘置所の監視カメラの動きが変わったこと。
看守の人員が総入れ替えになったこと。
そして気付く。
これはゲームだと。
凄まじい権力を持つ者の遊び。退屈しのぎ。
哀れな経緯の男を無作為に選出し、死に際の活力でどこまで生き足掻けるのかを試すゲーム。
腹立たしさを超えて笑いがこみ上げてくる。
これまで必死に生きていたのが馬鹿らしくなる。
絶望の底で真理を見出した長楽はその醜悪さに耐えかね、檻の中で腹を抱えて笑い転げていた。
脱出艇に到着した長楽はこれまでの罪を帳消しされ、操り人形程度の自由を手に入れることができた。
流れ流され日本に舞い戻り、山奥の廃村に放り込まれ子供じみた殺し合いゲームに参加している。
悪くないと思う。
何の為に生きているのかと問われた時、今なら胸を張れる理由と場所があるのだから。
だが人形は替えが利く。
長楽は過去の経験から操者の引き際を予測し、米軍が絡んでいると判った時点で自身も逃走できる準備を整えていた。
国家間の陰謀に巻き込まれたら個人の戦闘力など塵に等しく、また死を待つだけの惨めな獄中へと流される。それだけはごめんだ。
「なぁライオネルはん。俺っち、ちょっと腹壊してもうたわ。トイレ休憩でかまへんか?」
長楽は調子を崩さず相棒に最後の言葉を告げる。
死体の物色を終えたライオネルは気味の悪いモヒカンヘアーのデスマスクを脱ぎ捨てて汗を拭っている。
彼が変装を続ける目的は聞いたが、目的を知っても変装をしなければならない理由は理解できない。
ただの変態だろう。
八雲會にはよくいる。
暴力だけで評価される世界にいると欲求を抑える弁のようなものが壊れるのだ。
ライオネルは長楽のキツネ目を一瞥すると、事も無げに返答した。
「構わんよ。好きなだけ遠くへ逃げろ」
深まる静謐が場に満ちていく緊張感を顕にしていく。
長楽は『さすが』『なぜ』と言いかけた言葉を飲み込む。
このライオネルという男、暗殺に慣れているだけあって洞察力に関しては野生動物並である。
可能性として考慮していなかったわけではない。
「……はは、まいったな~。」
「本心だよ。逃げていい。俺にはお前が分かる。どう考え、どう行動するか、全てな」
「なんや。あんさんメンタリストかいな」
「それだけ薄っぺらいんだよ、お前は」
見逃してくれるというのは本当だろう。
殺すつもりなら何も言わず撃てばいい。
それでも、ライオネルの言葉は長楽の心底に突き刺さる鋭さを持っていた。
「心配するな。お前の人生はもう忘れたよ。その場しのぎで何かを成した気でいる永遠の被害者でしかない」
視界が歪む。笑いがこみ上げてくる。
相手の過去を知り尽くした者だけが選べる鋭利な言葉をライオネルは意図して投げている。
「自由になりたいと喚きながらも隷属させられることに安堵する。飛び方も分からず自分で籠の中に戻ってくる哀れな小鳥がお前だ。誰の脅威になることもなく、取り立てて殺す価値もない」
気付けば、柄頭に手をかけていた。
しかし抜刀には至らず躊躇している。
こんな些細な煽りで争っている場合ではないのだ。
今回の興行は終わりの合図もなく、第三者の介入で終わるのが運命付けられている。
もう予定していたタイムリミットは過ぎている。
そんな長楽を眺める碧眼が愉しげに歪む。
言い訳ばかりで向かってこないのは俺が怖いからだろう? と、もはや言葉にするまでもなく予想していた反応を確かめて嗤う。
腹が立つ。無意味に殺してやりたい。
「――なんてな。からかわんといてや。臆病者で結構。小物で結構。それはあんさんも同じやろ」
「自分のことを棚上げするのが人を煽るコツだよ」
「人が悪いわ~」
二人の男は視線を切ることなく、乾いた笑いを響かせ合う。
何がきっかけで『気が変わる』のか分からない今生の別れ。
いつか殺すが今戦う意味はないと、長楽が逃走へと心置きを変えていく最中――室内の気配が増えた。
スーツ姿の男。小柄で猫背。
逆台形型の眼鏡が目元を覆い、朝焼けの逆光で視線を隠している。
姿を現した男に対して長楽もライオネルも動けないのは、未だ両者の探り合いが続いているからである。
男はこれまでのやり取りを理解した上で、奇襲するでもなくゆっくり現れることを選んでいた。
「いけません、いけませんねぇ。実に勿体無い。こんな張り詰めた空気だけ残して逃げるなど、アナタの筋肉が哭いていますよ」
第三者の男は両者に伝わるよう英語で語り掛けてきた。
長楽は男のことを知っている。
馬渡恋慈。
八雲會の特別闘技者。
三人の男を擁する廃屋の空気は、複雑に絡む殺意で飽和し始めていた。




