【適者】⑤
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漂う異臭に鉄華は顔をしかめた。
発生源は腐敗が始まっている死体の山――ではなく、チケットが小鍋で煮詰めている謎の液体である。
味とは複数の感覚器官の複合信号であり、一説に嗅覚が大部分を占めているともされている。
鉄華は鼻腔に刺し込む苦味だけで、汁を舌上に乗せられた感覚すら覚えていた。
「ホイ。できたヨ」
差し出された椀には、闇の中でも毒々しい液面が窺える。
覚悟を決めなければならない。
手元が震える。
――これを飲むのか。
毒である可能性はない。
チケットが鉄華を殺す気ならとうの昔に達成しているだろう。
それでも十六年の人生経験が未知の液体を飲み込むことへの拒絶反応を引き起こしていた。
「大げさネ。ただの鎮痛剤ヨ」
一般的に水辺の植物とされている柳だが、山間に植生を置くマルバヤナギという種がある。
柳の葉と樹皮からはサリチル酸という解熱鎮痛薬が抽出でき、日本では古くから撤里失涅という薬として利用されてきた。
柳のサリチル酸を元に合成された薬が現代のアスピリンとなる。
鉄華は味覚の何割かを遮断すべく指で鼻孔を閉じるが、折れた軟骨が痛覚を刺激し視界が明滅した。
その脳の混乱を利用して液体を流し込む。
渋い日本茶どころの話ではない。
ニガウリと山菜を潰したような青臭さと洗剤のような刺激。焦げた金属の舌触り。
苦さの集合体が味蕾を殺しにかかってくる。
単にチケットの調理法が悪いのも相まって地獄の窯に口を付けた気分になった。
通っていく異物を吐き戻そうと食道も胃も収縮を始めている。
「ねぇねぇ? ドウ? 味は?」
「……」
声が出ない。
喉元までせり上がってきた液体を無理に飲み込むことを何度も繰り返している。
呼吸まで気が回らない。
「ふーむ。胃腸に良いヨモギも混ぜたのガ悪かったカ? 味の大雑把さは『大陸的』だと寛容に見て欲しいネ」
冷静に分析しながらも吹き出しそうな笑みを堪えているチケットが眼に映る。
在りし日、兵糧丸の実験台にされていた記憶が想起された。
軽く殺意を覚えるが、今は身体のコンディションを優先して心気を抑え込む。
――凪だ。私は静かな水面。
思考のノイズを直視しない心置き。
痛みも苦しみも電気信号に過ぎず、努めて切り離すことは不可能ではない。
禅道のように心を無にすることはできないが、思考を並列して積み重ねれば個々の信号の強弱は変えられる。
考えなければいけないことがあった。
まずは、この興行の帰結。
理想的なのはこの地下壕に泥蓮が誘い込まれることだ。
彼女の対処に関してはチケットも了承済みである。
説得が通じる相手ではない。
二対一で拘束し、興行終了日まで隠れ続ける。
もし実力で及ばなくとも地の利と多勢の有利がある。
最悪、地下壕の出入り口を封鎖するだけでもいい。
問題はその後。
八雲會をどうするべきか。
興行を暴露し事後処理を警察に委ねるのは悪手であるが、八雲會を潰すアイデアは未だ浮かばない。
八雲會が存続する限り泥蓮も参加し続けるだろう。
また、能登原貴梨子も出資をやめることはなく、家族と友人を人質にして鉄華の参加も強制させるだろう。
野村源造を追う過程で貴梨子が死んでくれれば問題も半減するが、如何せん見ず知らずの他人頼りでは心許ない。
貴梨子だけでもこの手で殺す算段を立てておかなければならない。
その為にチケットを取り込む必要があった。
彼女が興行に参加した理由。戦い続ける動機。鉄華に戦い方を教える意味。
それらを把握して上手く動かせば貴梨子を殺すことは容易い。
「……チケットさんは、どこでこんな知識を学んだんですか?」
「ん~~?」
口内の苦味が無視できるくらいに薄まった頃、鉄華はチケットの過去を探るべく口を開く。
露骨過ぎるくらいでいい。
迂遠に距離を縮める猶予はないからだ。
「施設ネ」
「施設?」
「そう。【理由なき道徳】と呼ばれル児童養護施設。ワタシはそこデ殺しを学んだヨ」
「児童養護施設で、ですか?」
「不思議なことじゃないヨ。アノ国じゃ孤児と人身売買は密接ネ。人間なんテ腐るほどいるし、輸出業が成立する程ヨ」
幼少時から教育を施すことが可能なら特化した人材育成も効率的になる。
倫理を無視できる孤児や黒孩子は格好の餌食とされるのだろう。
有り余る人口を背景に他国に集団入植させる事例も後を絶たず、国策を影で支えている人材派遣業がチケットのルーツであった。
「最初は静と呼ばれてたかナ。親を殺されテ以来、失語症でネ。まぁ、そういう泣きもしない笑いもしない人形ヲ抱きたい客は割と多くて人気あったヨ」
「……」
聞かなければよかったと鉄華が後悔し始めた頃には遅かった。
過去を探る意図の誘導にチケットは開き直りで応えてきたからだ。
必要以上に同情してしまうのは危険だと分かりながら、もう会話を止めるタイミングは逸失していた。
「ある日、訪れた客の一人が見知った顔でネ。ワタシは思い出したノ。コイツは両親を殺しタ強盗だってネ。初めての殺しの瞬間がその時ヨ」
環境が悪を作る。
ただ必死に生き足掻いて結果的に悪人になってしまう。
本人を責めようがない足跡が同情という免罪符となる。
「殺しを覚えテ言葉を取り戻したワタシは人生が一変したヨ。天啓と言うのかナ。生まれながらの才能ッテ本当にアルと思うんだ。死へと誘う车票。それがいつしかワタシの名前になったネ」
生きるか死ぬか、殺すか殺されるかという選択を迫られた時、倫理や道徳というものは容易く崩壊する。法律は紙切れとなる。
生き残る選択をした者を悪と断ずるのは幸福に囲まれた部外者だけだ。
踏み付けにしている社会的弱者が暴力で反抗するのを恐れているだけなのだ。
これはマズい、と思った。
鉄華にはチケットの在り方が痛い程理解できてしまったからだ。
程度の違いはあれど、不幸な環境というものはどこにでも有る。
当事者たる鉄華はチケットを否定できる言葉を持っていない。
――瞬間、息が止まった。
湯気のように漂う心の虚を、チケットの双眸が覗き込んでいた。
いつの間にか鉄華の胸元に迫っていたチケットは、見開かれたキツネ目で鉄華の心底まで見通している。
椅子から仰け反るように倒れた鉄華を追い、そのまま這い登るように顔を近づけていく。
鉄華の両腕は機先を制したチケットに押さえ込まれ、互いの両足が絡まって身動きが取れない。
「フフフ、同情したカ? ワタシには鉄華の闇も見えるヨ。アナタも同類ネ」
「……離してください」
「嫌ヨ」
鉄華を満足気に見下ろすチケットは紅潮していた。
彼女がわざと同情を引く話をしたのは明らか。
話の真偽すら疑わしく思え、鉄華はチケットに弄ばれていることに気付いた。
吐息が混じり合う距離。
風呂すらまともに入れていない鉄華は自身の体臭を気にしたが、チケットの纏う香水の香りが空間を埋め尽くしていく。
やがて頬と頬が触れ合う。
温かい。
おおよそ善性の対岸にいるチケットも、同じ熱を持った生き物であることが分かる。
「鉄華にだけ教えたげル。ワタシは金なんか要らないノ。ワタシは本当の名前を思い出したいだけ。だから過去を思い出せる殺しに縋るしかないのヨ。笑えるよネ」
やめろ。
聞きたくない。
何でそんなことを話す。
何で戦い方を教える。
鉄華の疑問は言葉にならないまま答えが示される。
鉄華の手首を押さえていた力が無くなり、這い登る蛇のように指と指を絡めていく。
これは同情と同情の交差。
傷の舐め合い。
写し鏡の自分への奉仕。
自己愛の延長とも言うべき歪んだ価値観でしかない。
それでももう遅い。
鈍化する思考はチケットへの同情で埋め尽くされている。
愛されることを知らずに生きてきた彼女が唯一手にしたのは、愛に似ているだけの偽物である。
泣きたくなる程哀れで、抱きしめたくなる程愛おしい。
これまで生きてきたことを褒めてあげたい。褒めて欲しい。
チケットの伸びる舌先から唾液を受け取った鉄華は、ただ静かに写し鏡の自分を受け入れて慰めるのであった。