【六節】①
「野営地の基本は乾燥した高台っす。湿気の多い川の畔は虫や蛇の住処っすから」
二日間に及ぶ看病で回復した鉄華は、一巴の後を追いかけて川から離れた高台を目指し藪の中を進んでいた。
一度はリタイヤを決断したものの、あの瞬間は肉体の疲労よりも精神的なダメージの方が大きかったと分析している。
他者と会話できるという安堵と安心がショック症状の回復に貢献しているのは明らかであった。
逆に言えば精神的な摩耗は体温、脈拍の低下、発汗、過呼吸、錯乱や幻覚といった物理的な症状が出る事を知った。
鉄華の脳裏に「精神的に未熟」だと言う不玉の言葉が思い出される。
「危険な蛇や蜘蛛ってのは滅多にいないけど飛び回る虫には注意しないといけないすよ。あいつらは菌の媒介だから些細な虫刺されでもちゃんと消毒しないと」
一巴は手頃な枝を振りながら草木を掻き分けて先導していく。
服装こそ学校の制服そのままという浮いた出で立ちであったが、サバイバルに特化している知識と行動は鉄華の短絡的な決断よりも圧倒的に信頼できる。
「場所を確保したらまずは洗濯っす。特に靴下がべたべたのままだと水虫と凍傷が併発して塹壕足になるっすよ。衣服は出来る限り清潔にする、これ森林サバイバルの鉄則っす」
地に足がついている、と鉄華は思った。
鉄華は未知の理論に対してはまず座学でその効率性を測ろうとするが、一巴は実践的な方法を好む。
体当たり的に行動し、成功も失敗も経験として落とし込む。その後に座学で補強していく。
効率を追い求め回避した物事にも教訓はあり、イレギュラーへの対処法は大抵そういった教訓の中にあるものだと鉄華は知っている。
知ってはいても中々実践できる生き方ではない。
「――さて、この辺りが良いんじゃないっすかね。……ん~?」
一巴は歩みを止めた。
川から二十メートルほど離れた地点、その場所は手入れされたように雑草の背丈が低く地面の土が剥き出しになっていた。
地表を走る蔓草がいくらかあるものの、それは人工的な間隔で生え揃っていて、土が盛られた形跡も確認できる。
「一巴先輩、これってもしかして」
「じゃがいもっすね。……不玉さんの畑じゃないっすか?」
「……」
ご丁寧に「馬鈴薯」と書かれた小さな立て札が刺さっているのを確認した鉄華は、自身の危機管理能力の低さに愕然とした。
この場所を指定した事自体が不慣れな鉄華のために用意された明らかな救済措置である。
「鉄華ちゃんがもう少し早く現地調達しようと探索していればあんな苦労しなくてよかったのにねぇ」
「ぐぬ……」
言葉も無い。
用意された思惑を無視して勝手に飢えていただけであった。
「あーあ、なんか一気に難易度下がちゃった感じっすねぇ」
「な、なんか残念そうですね……」
「鉄華ちゃんにはソテツの幹を剥いて食用デンプンを取り出すまでやらせたかったのに。ヤシ科の幹を食用とするのはマルコ・ポーロの東方見聞録にも記載されているプリミティブな手段なんすよ」
「はぁ」
一巴が小さく舌打ちしたのを鉄華は聞き逃さなかった。
恐らく八割くらいが親切心で、残り二割は後輩の反応を見たいという好奇心だ。
そしてたまに好奇心に負ける。
負けた時に何を試されるかは想像したくなかった。
本当の意味でのサバイバルなら哺乳類の解体や昆虫食も避けては通れないものだ。
「まぁ前にも説明したけど炭水化物さえあれば飢えることはないから、もう余裕っすね」
そう残念そうに呟いた一巴は、鉄華の心を見通すかのように悪戯な微笑を浮かべていた。
鉄華の背筋を一筋の冷や汗が伝う。
「んーじゃ、洗濯ついでに簡単な魚の捕り方講座でも始めるっすか」
「……よろしくお願いします」
◆
鉄華は学ぶ。
近代化された食料の供給を考えれば随分と非合理な方法を学ぶ。
魚は朝方と夕方になると岩陰から出て浅瀬に近づく習性があるので、その流れを灌木を立てて誘導し網で捕まえる。
捕らえた魚はエラから見える背骨の血管を切って血抜きをし、鱗を取り、腹を捌いて内臓を親指で取り出す。余った魚は縄を通して干した後に燻製にする。
植物は口に含んで刺激や苦味があるものは避ける。鳥類が食べるものを参考にすると楽で、キノコは熟練者でも見間違える事があるので絶対避ける。竹林があれば雨後にたけのこを探しに行く。
一巴は教えるだけで手伝うことはしなかった。
合理的な方法というものがただの近道でしかないことを知っている彼女は、成功も失敗も鉄華から取り上げたりしない。
夕焼けの明かりが山間に消える頃、ヨモギやオオバコを始めとする食べられる野草の形と群生地を記したメモが完成した。
これで鉄華は残り一週間余りを生き抜くのに十分な食料を確保することができたことになる。
◆
「サバイバルってのは本来脱出まで含めて考えなきゃいけないっすからね。こんなのはまだ気楽な方っす」
辺り一面に広がる暗闇の中に焚き火の明かりが一つ、道具を使う人類の尊厳を表すかの如く赤く灯っている。
二人の少女は今日の成果を称え合って食事を済ませた後、何をするでもなくただ炎を取り囲んで座っていた。
「あんまり手助けしちゃうと不玉さんの機嫌損ねちゃうかもしれないんで私は今日で帰るっすよ」
鉄華は虫よけに新緑の葉を焚べながら、一巴の顔を伺う。
人間の本能は野生動物のそれとは違い、闇に飲まれないように、正気でいられるように明かりを求める。
暗闇は原始的な恐怖だ。
それなのに炎を眺める一巴の表情がどこか悲哀混じりに見えた鉄華は少し気が滅入ってしまった。
鉄華との別れを惜しむのか、他の何かを思い出しているのか分からない。
「空気を読む」、「相手の気持ちになって考える」など、その手の作業が鉄華はどうにも苦手であった。
個人の思考は一人称を超えることはなく、頑張って客観的に捉えようともそれは主観でしかないのに、相手の心情や経験を把握する神の視点を持てというのは無茶な話だと思っている。
誰もが自分を中心に世界を作っていて、他人の手の届かない範囲がある。
鉄華はこれほどまで世話になっている木南一巴のことを殆ど知らないままであった。
「一巴先輩は何でそんなにサバイバルに詳しいんですか?」
悩んだ末、鉄華は当たり障りのない質問から入ることにした。
一巴が語るのは体験談だということに確信を持っていたが、推論で踏み込むと誤解や行き違いを招く可能性がある。
「ふふふ……何を隠そう私は忍者っす」
「はい。知ってます」
間髪入れず肯定する鉄華に一巴は面食らった。
「あ、え? なにそれ? もっと驚くところっすよ? ほら、忍者っすよ? 本物の。現代にそんなもんいるかーって突っ込むところっすよ!?」
「いやぁ、やっぱりというか、何を今更って感想しか……」
「……」
眉間に皺を寄せてこれまでの行動を思い出していた一巴は諦めたように溜息をついた。
「うちは古ぼけた忍術の家系で、……まぁ今では物珍しげな外人相手にインストラクターみたいなことやってるんすけど」
独白を始めた一巴は、照れや恥を隠すかのように髪をかきあげ視線を下げていた。
鉄華の目にはそれが意図的な演技なのか、普段の仮面を外した本来の顔なのか判別ができない。
「一方で全国津々浦々の古流に残された忍術の秘伝を回収するという一族の使命みたいなもんがあって、子供の時から色々と叩き込まれてるんすよ。私が今ここに居るのもその目的あってのことっす」
まるで自分自身には選択肢が無いかのように一族の決め事を語る。
鉄華に分かることは、親の期待の為だけに作られた人生はろくでもないということだけだ。
ましてや古流の価値観を幼少期から植え付けられたとなれば、社会生活との間で起こる齟齬を避けて通ることはできない。
「こんなことを言うのは失望させるかもしれないっすけど、鉄華ちゃんを助けるのは私の為でもあるんすよ」
「もしかして一叢流のことですか?」
「そう。私はデレ姉に近づく鉄華ちゃんを利用してるっす。正直鉄華ちゃんの為にデレ姉がここまで面倒見の良さを発揮するとは思ってなかったけどね。不玉さんまで近づけたのは僥倖ってやつっす」
無表情で臆面もなく自身の計略を語る一巴を見ても尚、鉄華の気持ちは揺るがなかった。
たとえ演技でも、裏の目的があったとしても、鉄華にとっては受けた親切だけが事実であるからだ。
「構いませんよ。二度も助けてもらったのですから感謝の言葉しかありません。私にできることなら協力します」
「んーんー、鉄華ちゃんはいい子っすね。でもその実直さを悪人に利用されないか少し心配っす」
一巴はいつもの気の抜けた調子で悪戯な笑みを浮かべて見せた。
鉄華は疑わないと決めていた。
冬川の襲撃も、この山奥で飢えていたのも、ただ偶発的に起こった事故であり一巴の絵図とは別のものである。
一巴が来てから三日間で一気に生活が向上し、課題のクリアはもはや見えたも同然だ。
学校で、学外でこれほど親身になってくれる人間がいるということが嬉しかった。
普段から垣間見えた一巴の知識が本当に役立ち、意味のあるものだという事実が嬉しかった。
尊敬できる先輩であることを今更疑う必要はないと鉄華は決めていた、が――
「私が知りたいのは一叢流の【衰枯】と呼ばれる毒の秘術っす」
毒という言葉に若干違和感を覚えてしまう。
忍術と毒は切っても切れない関係であるし、柔術が基本の一叢流が対武器を想定して毒を使うのも当たり前のように思える。
ただ、一巴の親がそれを蒐集する目的が分からない。
資格が必要な規制された薬品とは違い、原始的な手段で毒を生成する知識はいくらでも悪用できる。
「デレ姉は知らないって言うし、不玉さんには『嫌じゃ』って言われて取り合ってもらえないし、鉄華ちゃんが一縷の望みなんすよ」
「……何に使う気ですか? まさか歌月さんに――」
「いやいや、実際に作って使うわけじゃないっすよ。古流の毒術なんてのは大抵現代では既知の成分で、植物も生物も未知のものなんてほとんど無いっす。知りたいのはそれがどう作られどう使われたという文化の方っす」
そう言って、冗談とばかりに手をヒラヒラと振って見せる一巴ではあったが、実際に校内で毒草を育てていた件を知っている鉄華はどこまでが冗談なのか見当もつかなかった。
「まー、うちの親のことだから多分忍術を纏めた本でも作って小銭稼ぐ気じゃないっすかねえ。銭ゲバっすから」
ありえない話ではない。むしろその手のニッチな学術書で儲けるという方が自然な流れだと鉄華は思い直す。
集めた知識で闇に生きる暗殺者になるだなんて発想はもはや漫画の世界であり、ありもしない妄想で勝手に不安になるのは杞憂もいいところだ。
問題が有るとすれば、不玉が毒術を親族でもない者に伝えるのかということだけだ。
「でも、ただ生き残っただけでは恐らく不玉さんに認めてもらえないですよ」
「え? なんか他の課題でもあるっすか?」
「禅をしろって言われてます」
「……禅?」
一巴は顎に人差し指を付けて小首を傾げてみせる。
演技でもなく本当に意味が分からないといった顔付きであった。
「何故強さを求めるのか、その点で納得させないと本来の意味で入門なんてさせて貰えないですよ。ましてや秘術に当たる技術まで教えてくれるとは思えません」
「んー。鉄華ちゃんはそんな自分のことも分かってないんすか」
「……」
悪意のない何気ない一言が鉄華の心に刺さる。
理由も根源もなんとなくは理解できている鉄華だが、言葉にするのは苦手であった。或いは、言葉にする作業そのものが不玉の求める禅なのであろうか。
「こればっかりは手助けできないっすね。不立文字と言って言葉や文字で伝えられるものじゃないっすよ。鉄華ちゃんの人生には鉄華ちゃんにしか立てない場所があるっす」
「そうですよね……」
「それに禅のやり方も人それぞれっすから。座禅が没入のきっかけだという人もいれば、火の上を歩くような苦行が良いと言う人もいるし、マラソンみたいな運動の最中が適しているという人もいるっす」
一巴はカップに残っていた松の葉の茶を飲み干すと立ち上がった。
束ねた枝の先端に松脂を染み込ませた布を巻き、火に焚べて松明を灯す。
それは別れの合図であった。
ここから先は鉄華一人で生き残っていかなければならない。
「まぁ結局、最後は自分でなんとかしなきゃなんないもんすよ。どんな事だってね」
「何から何まで本当にありがとうございました」
鉄華は改めて頭を下げて一巴を見送った。
夜の闇の向こうへと消えていく松明の明かりを見つめながら、一時の別れをこれほど惜しむ自分に気付き、少し笑みが溢れた。
一巴が居なくなった静謐の中で鉄華は無意識に拳を作り、汗ばむほどに握り続ける。
試してみたい事があった。
――心と体を分離させる方法ならよく知っている。