【適者】②
◆
「ぐわぁああああああぁぁ」
高所の枝から鳴り響いた叫び声は自由落下と共に地面へと近付き、やがて木立の根本で茂みを揺らして途切れる。
一巴は動かない。
叫び声の裏で激しく木の幹を擦る音が隠れていた。
手裏剣が着弾した上での落下ではなく、あくまで安全に滑り降りているだけだ。
そして聞こえた声は紛れもなく義父のものであると断定した。
沸々と音が聞こえる程に血が沸き立つ。
これまでの人生で得られた知見を総動員して殺しの手順を構築していく。
最中、視線が交差した。
相手は一巴よりも先に視線を通していた。
先手を取って尚、様子見に徹する敵。
故に動けない。
目元以外全てを覆い隠す黒装束は忍者の伝統装束であるが、男は目元ですら黒く闇に紛れている。
嫌悪感すら覚える漆黒の眼球。
その正体は眼球における黒目部分、虹彩の大きさが余人の倍ほどあることに起因する。
虹彩の拡大は眼圧の上昇によって眼球が引き伸ばされる疾患である。
眼球内房水の排出不全は緑内障を引き起こし、やがては失明に至る。
しかしその常識は眼前の男には通用しない。
単に房水の生成量が人並み外れているだけなのだ。
角膜と水晶体が人並み外れた栄養を必要としているからこそ起きた生物進化。
忍術の家系として続く楠木家が近親相姦を冒してでも血の濃さを求める原因がそこにある。
【牛眼】と呼ばれる先天性の眼を継承した新楠流忍術の遣い手は、恐るべきことに1000μm前後の赤外線を見ることが可能だという。
その異能は七百年の時を経た現当主、楠木頼典にも受け継がれていた。
「ふむ。どこの忍びかと思えば、出来損ないの娘か」
「お久し振りです。お義父様」
煙幕で霞む闇夜の森林にて、邂逅した同流派の忍びは共に素手であるにも拘わらず、一足一刀より遠い間合いを保ち自然体で立っていた。
これから始まるのが素手の戦いではないことを知っているのだ。
【無刀密刀】という備え。
忍びの素手はそう思わせる為の演技でしかない。
「何をしに来た? 不可侵は既に保証しておろう。お前ごときに過分な値を付けた一叢流に感謝して引き篭もっておれば良いものを」
「それだとお義父様をぶち殺せませんから」
未だ一族に未練を残し、義父を慕う味方だと思わせることもできた。
しかし一巴は最後の覚悟を示す意味で演技することを拒絶した。
殺す。鏖殺する。
これはほんの手始めでしかない。
「やれやれ、まだ恨んでおるのか。誰の種かも分からぬお前だが、何も無理矢理犯して拵えた子ではない。一族の為に喜んで股を開いた淫乱がお前の母親だっただけのことよ」
挑発は届かない。
怒りというものに量があるなら、その許容量はとうの昔に越えている。
心を焼き尽くす業火に油を注がれても今更炎の勢いは変わらない。
だから怒りの中でも冷静に捉えることができた。
会話の途中、頼典の手が動く。
自然体で下ろした手からスナップだけで礫が投擲される。
視界の下方から直線軌道で迫る黒い礫。
一巴は瞬時に【八方】であると見抜く。
鶏卵に酸で穴を開けて中身を取り出し、代わりに毒物を詰め込む投擲武器。
中身の散布を目的とする投擲なので防御は無意味。回避しても背後で何らかの毒がばら撒かれ行動が制限される。
一巴の選択は『受け止める』であった。
僅かに後退し、卵殻が潰れないよう柔らかに受け止めた一巴は、そのまま投げ返すべく肩に力を込める。
行動を制限する忍術には、予想を覆す選択肢で居着かせるべき。
それなのに、次の瞬間には受け止めた八方を手放していた。
受け止めに注力していた視界の端で、頼典が踏み込んでくるのが見えたからだ。
先手は虚。
どこに隠し持っていたのか、頼典は抜刀した日本刀を八相構えで掲げて突進していた。
同流派であるからこその居着かせ方がある。
もし頼典の次手が距離を保ちながら投擲の継続であったならば余裕を持って回避できていた。
身を隠す茂みも見当が付いていた。
互いに見敵した状態で接近戦に持ち込むのは、流儀としても最終手段に他ならない。
故の遅れ。
八方の投げ返しで自ずと退路を塞いでいた一巴は思考を切り替える間隙を突かれていた。
即死級のミスを認識するよりも先に、一巴は腕に巻きつけていた鎖を袖口から引き抜く。
防御しか間に合わない瞬間であることを脊髄が感じ取っていた。
鎖骨へ向けた袈裟斬りを両腕の間に張った鎖で受け止め、張りを強めて押し返し拮抗する。
頚部の数ミリ手前で留まった白刃を眺めながら思考を追いつかせた。
分かったことがある。
身内との戦闘を想定していたのは一巴だけではないこと。
頼典もまだ銃器は手に入れていないこと。
忍術の師ではあるが剣術の領域では恐るに足りないこと。
防御した鎖から伝わる粘りで分かる。
相手が撃剣大会で観てきた剣客ならばこの袈裟斬り一刀で押し殺されていただろう。
刃には毒が塗られているが、頼典の剣境は槍術家である泥蓮にも劣る。
一巴は鎖を袖から完全に引き出して両端の鉄塊を顕にした。
一方は手の内に収まる大きさの四角錐。
もう一方は葉巻型の棒鉄。
長さ八十センチの鉄鎖に左右形の違う分銅。
分銅鎖、新楠流忍術に於いては袖鎖と呼ばれる携行武器である。
一巴は棒状の鉄塊を左手で握り込むと、刀を押し留める鎖の張りを維持しながら体勢を屈めた。
剣戟を止められた頼典は踏み込んだ前足を蹴り上げに切り替えていたが、差し出された寸鉄による【砕き受け】を警戒して蹴りを留める。
角度の付いた鎖受けの上を滑らせて一巴の指を斬り落とそうと動くが、もう遅かった。
一巴が右手の操作で刀身に鎖を巻き付けた後だ。
鎖鎌の投擲とは違い、両手で縛る鎖の巻き付けは刀勢を殺すに充分な力を有する。
分銅鎖を使う奪刀術が成功していた。
そして、頼典が柄から手を放すのと、一巴がその柄を掴みに行くのはほぼ同時であった。
奪った刀の向きを変えながらそのまま振り下ろすと攻守が逆転する。
だが、両者の有利不利はそのまま逆とはならない。
刀に絡み付く鎖は鍔元まで流れ、頼典が鎖を掴み直して攻防を真逆にすることは敵わない。
もし鉄甲に類する装備があったとしても、自分で毒を塗った刀だと分かっているだけに受けに回る博打は打てない。
不利を悟った頼典は後退を開始していたが、蹴り上げの勢いを止めながらのバックステップでは打突圏を抜ける前に斬られる。
自身の仕込みで敗北する頼典へ向ける憐れみを、一巴は微塵も感じなかった。
何度も描いてきた殺人の瞬間。復讐者としての帰結。
今更躊躇する良心などどこにも存在しない。
忍術を離れ、剣術流派との邂逅を許した己を呪えとばかりに粘りを込めて袈裟に斬り付ける。
刃が肉を潰し、鎖骨に埋まる感触を手元で感じる――
――と、同時に一巴の視界が明滅した。
刀を振り下ろしていたはずの身体がくの字に折れて宙に浮かんでいる。
退いていたはずの頼典が息のかかる程の間合いにいる。
「くはは、これだから騙し合いは面白いのう!」
勝利宣言とも取れる歓喜の叫びが脳内に反響する。
衝撃の正体は腹部に刺さるボディーブロー。
頼典が握り込んでいた寸鉄は着込んでいたボディーアーマーで留めていたが、相対速度で衝突した打撃の威力までは殺せない。
ならば振り下ろした刀はどうなったのかと一巴は視線を泳がせる。
何のことはない。防がれていたのだ。
ボディーアーマーのように輪郭を変えるものではなく、全身くまなく覆うことのできる防刃性能。
撃剣大会で使用された防刃服だ。
八雲會興行で反則とされている物を外部から持ち込んでいる。ただそれだけのことだ。
気付けなかった。想定していなかった。
反則行為を写すはずのカメラも煙幕で無効化してしまっている。
頼典にとっては何一つ失うものがない勝利だ。
一巴はたかが打撃の一撃で散らばっていく思考に歯噛みするしかなかった。
所詮、女。
体重と筋力の差を押し付けられるとこうも容易く勝敗が付く。
地面に投げ出された四肢を持ち上げる猶予もなく、頭上に影が立ちはだかる。
義父は勝利の愉悦に浸り陵辱を選ぶような間抜けではない。
一度敵として現れた者がいるならば確実に殺し、あらゆる未来の可能性を断ち切る。
そういう男だ。
毒か刃か。
死が迫る最後の光景。
一巴が眺めていたそれは、夜空でも木立でも煙幕でもなく、不自然に浮かんでいる雲であった。




