【紛争】⑥
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昼と夜の境目。
夕闇の赤色が西に沈み、東から星空を乗せた藍色が広がる頃合い。
八雲會興行の地にて、身を潜めていた者たちが行動を開始する時刻になろうとしていた。
山裾に立ち並ぶ樹木の間、折り重なる倒木が静かに動いた。
掘り返した地面に蓋をする簡易テントの底から、薄汚れた男が這い出てくる。
ツーブロックで頭頂部に残した髪も泥で固められ、彼の信条を示すタトゥーも土色の下に隠れていた。
男の名はスノーマイン。
社会的には存在しないはずの死人、元死刑囚である。
スノーマインが八雲會を訪ねた経緯は誰にも分からない。
しかし幾つかの事実だけが存在する。
欧州の移民受け入れ法案に反対する形で勃発した抗議デモの傍らで、百人以上を殺したシリアルキラーであること。
逃亡先の米国にて裁判官を殺害し、連邦法による死刑が決定していたこと。
収監した刑務所において、彼の死刑執行は滞りなく完了していること。
一般世間では、欧州中を恐怖に陥れたネオナチとして死んだ過去の人間である。
ねぐらを後にし、村を一望できる山道へ下りたスノーマインは鼻で大きく深呼吸した。
血の匂いが濃い。
嗅覚による情報収集に自信があるスノーマインだが、一日目が終了しようとしている村落はそこかしこから死の匂いが届く。
比喩などではない戦場。
一体何人分の死体があるのか、どんな凄惨な殺され方をしたのか。殺人者としての人生を歩む男にとっても未知の規模で広がる血臭。
混沌とした情報量に辟易したスノーマインだが、ふと異質な匂いを捉えて目を輝かせた。
風に乗せられて届く僅かな石油の香り。パラフィンだ。近くでロウソクが灯されている。
死地の中、明らかな生活の匂いに興奮を抑えられなくなったスノーマインは、罠である可能性すら受け入れて歩を進めていく。
殺し合いとは恐怖と恐怖のぶつけ合いであり、身を鈍らせる思い込みを克服した方が最後に立つ。
大抵の場合、恐怖に対する鈍感さこそが相手を萎縮させることをスノーマインは経験的に知っている。
ただ、大胆に。不利を知りながら飛び込む狂人を演じてみせることが相手にとっての恐怖となる。
軽やかな歩調が止まった。
ロウソクは確かに存在する。しかし人の気配はない。
代わりに岩を積み上げて拵えた門と鍵の開いた鉄柵だけがあった。
入り口を覗き込むと地下へ向かう階段が見える。
普通なら気付かずに通り過ぎる山道の脇道。
奥に続く洞窟へと誘うように誰かがわざわざロウソクを立てているのだ。
明確な罠。
スノーマインは蕩けるように破顔した。
見え見えの罠に加えて、香水の匂いがする。間違いなく女だ。
レギュレーションの存在しない八雲會でも女の闘技者は珍しい。
奇跡的に強いとされた篠咲鍵理という例外は過去存在したが、その他の女闘技者はただ慰み者にされたというゲスな話題しか聞いたことがない。
楽しいアトラクションの入り口を発見したスノーマインは、邪魔が入らないようロウソクを踏み潰して階段を下りていった。
◆
漆黒の奥底へ染み入るように靴音が反響していく。
階段を下りた先には洞窟と呼ぶには広すぎる空間が横たわっていた。
飛行場の格納庫くらいはある。
コンクリートの床と壁面。天井を支える柱も複数あり、壁には電源ケーブルと思わしき配線も確認できた。
天然の洞窟ではなく人工の地下施設。
恐らくは防災用の避難場所だろう。
或いは悪の秘密結社が作った要塞か。
待ち伏せされているのは確実な状況だが、スノーマインはどこか拍子抜けしていた。
もう闇に目が慣れてしまっている。
つまり先制側の有利が一つ消えた。
それにこれほど静かな空間では不意打ちが成立し難い。
聴力に特化した者でなくとも、針が落ちる音すら捉えられるだろう。
――では、何が目的でこんな意味のない待ち伏せをしているのか。
その答えを示すように、スノーマインの背後から鉄扉が閉じる音が響いた。
出入り口の封鎖。
そして、扉と反対側の眼前に人影が浮かび上がる。
少なくとも二人いる。
人影は不意を突いて襲いかかることもなく、スノーマインと五メートルの距離を維持して立っていた。
体格は百九十センチを超える大柄だがシルエットは女。
髪はカールがかったショートヘアで、香水は付けず、少女特有の甘い匂いが漂う。
服装はポリエステルのジャージか。
サバイバル環境なので仕方ないが、少し汗と尿の匂いが混じっている。
背後で扉を締めた者の声が響いた。
「さぁてお客サン。一対一、ワン・オン・ワンね。どっちか死ぬまでワタシーは手出さないアルヨ」
「どちらかと言うとアンタの方が好みだな」
「そう? でもそっちモ結構いい女ネ。まだ青臭い十代の処女ヨ」
スノーマインは正面から視線を切らず、背後の女を分析する。
いつから扉の側に居たのか分からない程、動作の音がしなかった。
声の高さからして目の前の女よりも小柄。癖のある日本語の抑揚は中華系だろう。
そして何より、バラとジャスミンを基調とするフローラルな香りを纏っている。
入り口から香水の残り香をばら撒いているのは背後の女だ。
殺し合いの舞台でわざわざ身なりを整える美学。余裕。
どちらが実力者であるか明白に思えた。
「おい、そこのでかい女。両手足潰してから無茶苦茶に犯してやるから、簡単に死ぬなよ」
「お好きにどうぞ」
好戦的な者が集えば、時に始まりの合図が存在する戦いになる。
シリアルキラーとして名を馳せたスノーマインだが、単なる不意打ちで相手の人生を舐ることには飽き飽きしていた。
精一杯の抵抗があってこそ命の純度は上がる。
自分が殺されるかもしれないという死地を乗り越えてもぎ取る報酬だからこそカタルシスがある。
スノーマインはゆっくりと呼吸の間隔を狭めながら、腰の鞘から刃渡り四十センチの直刀を抜いた。
◆
月明かりも届かない地下だというのに、抜かれた白刃は光り輝いて見える。
照明は付いていないが電気は通っている。
よく見れば小さな計器類の待機LEDが灯っていて、それが僅かな光源になっていることが分かった。
スノーマインは直刀を右順手で構えた。
片手で扱うナイフのような構造だが、刀身は片刃で鉈に近い扱い方が求められる。
スクラマサクスという中世ゲルマン人の武器だ。
引き斬りにも対応できる程度に研がれているが、刃の向きに気を付けなければならない。
対して、目の前の女は刃渡り二十センチ程のダガーナイフを握っている。
長さではスクラマサクスに劣るが、格闘術と合わせて用いられた場合、両刃の強みが効果を発揮する。
超接近戦に持ち込まれれば不利。
――だが、所詮は女。
服の上から小さなナイフで斬られたから何だというのか。
組み合う距離になった時点で勝負は見えているのだ。
たとえ他に武器を持っていたとしても問題はない。
筋力差で捻じ伏せる戦い方というものがあり、スノーマインはそれを心得ている。
スノーマインが八雲會特別闘技者としての地位を手に入れた背景には、彼の持つ卓越した近接技術という下地があった。
グラップリングと武器術の融合。
日本古流では組討、小具足と呼ばれる対甲冑術。
それはプレートアーマーを相手にする中世のドイツに於いても存在した。
競技化するレスリングの影で残された【カンプ・リンゲン】という戦場武術である。
短い両刃を握りしめて距離を詰めたがる女は、相手も同じ考えであるとは露ほども思っていないだろう。
両者が互いに飛び出す瞬間、スノーマインはプランを整え終えていた。
短いダガーナイフで唯一警戒する技は突きのみ。
突きを狙う相手の手元を下方から腕ごと浴びせるような右バックブローで押し込み、足元を逆方向に刈り取る投げ。
耐えられたら髪を掴んで膝打ち。
新たに武器を取り出しても左手で制する。
一度押し倒してしまえば哀れなくらい一方的な展開になるだろう。
戦う前に終わっている勝負の軌跡を辿るように一歩目を持ち上げたスノーマインは――相手を見失っていた。
居ない。
目の前に居たはずの大女の影が消失している。
それなのに視界が僅かに落下する。
足元で仰向けになっている女を発見したのは、左足首を脇で抱え込むヒールホールドで膝靭帯を捩じ切られた後だった。
見失った原因は移動の速さではない。
予備動作のない歩法で思考の間隙を突かれたからだ。
それは読み合いの敗北を意味していた。
「クソッ!!」
スノーマインは崩されたバランスを右足で支え、予定していたスクラマサクスのバックブローを真下に向けて放つ。
しかし女は極めた左足首を抱えたままスノーマインの後方へと抜けて行く。
スクラマサクスの空振りを確認するのを待たずにスノーマインは敢えて後方へと体重を預けて転倒した。
背中で女の柔肌が潰されるのを感じると同時に額を持ち上げ、背後へと力強く叩きつける。
後頭部が果実を潰す感触を得た。
上手く顔面に決まったらしい。温かい血液が後頭部に張り付く。
ならばもう一度、と額を持ち上げた瞬間、スノーマインは死に直結する痛みを感じた。
女は背後から右脇腹を刺している。
ダガーナイフが肝臓を抉るべく捻りを加え始めた時、スノーマインはスクラマサクスを手放し両手で女の手元を押さえていた。
まだ傷は浅い。筋力で勝っている分、ダガーナイフを押さえることは難しいことではない。
まだ今なら立ち上がって仕切り直せる。
その僅かな希望は、女の左手が喉元に伸びた瞬間潰えることになった。
恐らく何かの金属片を研いだだけ即席ナイフ。
その歪な刃先が喉の表皮から気道にかけてブツブツと鈍い音を立てて侵入していく。
呼気が孔から抜けていく。
僅かな意識の転移を狙い、ダガーナイフが肝臓を抉っていく。
終わりを悟ったスノーマインは抵抗する気力を失い、少女の胸の中で生涯を閉じていった。
◆
「四十点ネ」
チケットは鉄華と白人の死体を見下ろしながら、警棒のような懐中電灯を肩に乗せて落胆していた。
ギリギリ赤点回避の結果だが、鉄華に反論はない。
モロに直撃した頭突きのせいで鼻血が両鼻腔から止めどなく流れている。
涙で目が潤み、視界も定かではない。
「最初のダッシュはヨカタヨ。面白い技ネ。デモその後が駄目駄目、ダルメシアンネ」
「ダルメシアン……」
黒ぶちの子犬を想像して少しほっこりした鉄華は、男の死体を跳ね除けて立ち上がり、顔を踏みつけて首から手製ナイフを抜き取った。
ギザギザの刃の間に粘着くような脂肪が残っている。
洗うにしても貴重な水を使うべきか迷っていた。
「攻撃を押シ込もうとする癖ヨクナイネ。短いナイフの場合、小刻みに何度モ刺すのが定石ヨ。それで低体温と敗血症を誘発さセル。囚人ノ喧嘩でよく使う手ネ」
何度か見たチケットの戦い方は武器を使った手数勝負であり、中国拳法でいう散打に近いものであることがわかる。
だが一叢流の技ならば、小枩原不玉ならば一刺しで決着していただろう。
体感の捻りと緩急で生み出す鞭身、突き抜ける衝撃を生み出す粘りが足りないのだ。
男女の筋力差を気にして立ち回っている内は師の領域の入り口にすら踏み込めない。
「とりあえず鼻血止めテ食事ネ。そしたらマタ開店の合図出すカラ反省点の復習しとくネ。ワカタカ?」
「ええ。分かりました」
まだ圧倒的に場数が足りない。
鉄華はかつて泥蓮に指摘された問題点を反芻していた。
なるほど、と鉄華は思う。
ゲームのような感覚だが殺し合いの経験値というものは実在する。
勢いで飛び込んだ八雲會興行。だが今では運命の巡り合わせを感じていた。
これ以上に古流鍛錬で適した場は現代には存在しないだろう。
そして目標である泥蓮もまた、同じ闘争の場にいるのだ。
――今、戦えばどちらが強いのだろうか?
為す術無く打ち倒されたあの日よりも着実に差は縮まっている。
いつか乗り越えるべき相手を想う時、意図せず頬が緩む鉄華であった。




