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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十八話
206/224

【紛争】⑤

   ■■■




 通りの入り口に立つと馴染みのある匂いが漂っていた。

 八角、クローブ、カシア、花椒、フェンネル。

 立ち並ぶ店先から排出される蒸し物の香気が人生の大半を過ごした国を想起させ、由々桐は久方ぶりの旅愁を感じていた。


 世界人口の二割を占める中国人。

 赤と緑を基調とした大門、牌坊(パイファン)こそ存在しないが、中華移民のコミュニティは世界中いたる所に存在し、ここバングラディシュも例外ではない。

 そして半ば難民のように国外に居場所を求めた彼らは、世界のどこにいても同胞を支援する華僑ネットワークを有している。


 古くは青幇(チンパン)と呼ばれていた組織だ。

 清国時代の海運ギルドが起源であり、京杭大運河を縦断してアヘンを運ぶことで財を成し一時期は中国全土の黒社会を掌握するまでに至るが、第二次大戦期に蒋介石との関係性が明らかになって消失していったとされる。

 しかし青幇が持つ互助会としての側面は、言葉も文化も変わる華僑にとって必要不可欠なものであり、現在でも青幇の名残りを有する組織は複数存在している。

 その内の一つ、【紫海(ズーハイ)】との付き合いは長い。


 目印である紫の倒福シールを発見した由々桐は、その建物の入り口から数歩下がって全体像を眺めた。

 黒地にくすんだ金字で『山海茶林』と書かれた看板。

 木造二階建ての壁面も経年劣化なのか焼杉処理なのか全体的に黒い。

 入り口側には窓がなく、側壁に周ってみても汚れた小窓が四つあるだけで、内部の様子を窺い知ることは出来ない。

 店名から辛うじて喫茶店であることが分かるが、佇まいは老舗の雰囲気を通り越して来客を拒んでいるようにさえ思えた。

 上着のポケットに入れた手を動かして武器を確認した由々桐は意を決して重い扉を開く。

 ベル音の代わりに蝶番の軋んだ音が屋内に響いた。

 観察眼を途切れさせないように努めていたが、店内の薄暗さを感じると同時に聴覚が鋭敏になる。

 異様な静謐が広がっている。

 扉を閉めると流出する空気の流れがピタリと押し止められ、観光客で溢れる店外の喧騒は完全に遮断された。

 見た目以上の防音を備えている。

 続いて嗅覚が情報を感じる。

 一番強く届くのは煙草の匂いだ。甘みのある匂いではなく苦く香ばしい黒煙草系。

 その合間に僅かな茶の匂い。それも薫香の独特な香り。

 ラプサン・スーチョン(正山小種)と呼ばれる紅茶の一種だ。

 紫海の発祥はイギリス植民地時代の香港だと聞いたことを思い出した。


 暗順応した左目で店内を見渡すと、薄暗さの原因がすぐに分かった。

 照明は天井にある二つの裸電球と汚れた窓を通した陽光のみ。

 電球ですら茶色く汚れている。原因は店内に漂う煙草の煙である。

 たった一人の先客が店の奥で煙管の紫煙を燻らせている。

 色の濃いサングラスをかけ、ワイシャツの裾をベルトの外に出し、黒のスラックスは裾を脛まで折り上げてサンダル履き。

 年の頃は六十代半ば。白髪のオールバックは生え際が頭頂付近まで後退している。

 奥のカウンターには中国茶の瓶が並んでいて、その合間に関羽を模した小さな像が置かれている。

 カウンター横にある出入り口の奥には更に濃い闇が見えるが、誰が居るのかまでは分からない。

 ただ流れてくる熱気を感じる。湯を沸かしているのだろう。


 狭い店内に並ぶ簡素な丸机の中から中央の一席を選んだ由々桐は、角材を組んだだけのような椅子を静かに引いて着席した。

 一つ一つの挙動が静かな店内に音を響かせる。

 もし本当に喫茶店としての利益を考えて出店しているのであれば破滅的に商才がない。

 商売の神として祀られる関帝の御利益は微塵も感じられない。

 これで店として成立しているのは、他の商売があるからだ。

 壁に貼られた中国語のメニューを眺めながらタバコに火をつけた時、奥のカウンターから店員と思わしき老婆が現れた。

 会釈程の角度で腰の曲がった老婆。麻製の上下は白で統一されていて、白髪は後頭部で団子状に纏められている。

 老婆のゆっくりとした歩調を待てず、由々桐は声を上げる。


「ラプサン・スーチョンを頼むよ」


 老婆は返事するでもなく踵を返して店の奥へと下がって行った。

 奥の客席で男が煙を吹く。サングラス越しの視線を感じる。

 答えるように由々桐も紫煙を漂わせる。

 交互の息遣いが店内に響く値踏みの時間。

 注文した茶が届いたのは、丁度紙巻きを灰皿に押し付けるタイミングであった。

 盆の上には小型のヤカンと茶盤、紫砂の陶器でできた茶壺、茶海、茶杯、聞香杯、茶筒が並んでいる。

 ラプサン・スーチョンはイギリス輸出用と言って差し支えがないくらい紅茶の分類だが、今は中国茶の作法を試されている。

 まずは急須に湯を淹れて温めて茶盤に捨てる。

 次に茶筒から取り出した茶葉を茶壺に入れて均一に均した後、湯を注いで洗茶。

 ピッチャーであるところの茶海に全て移す。

 そこから茶杯、聞香杯に注いで温めて茶盤に捨てる。

 葉の開いた茶壺にもう一度湯を注いで蓋をして、その上から湯を回しかけて内外から温めて蒸らす。

 出来た茶を茶海に移し、聞香杯に移し、茶杯に移してようやく飲める状態になった。

 問題は、茶杯と聞香杯が二人分あるということだ。

 由々桐はテーブルの対面に差し出された対杯を眺めながら、淹れたての薫香を愉しんでいた。

 燻製という文化は興味深い。

 かつては保存食を作る技術であったが、今は着香を愉しむ嗜好品へと変化している。

 一方であくまで旧来の作法にこだわる文化も存在する。手間や不便を理解しながらも変わらないもの。

 時代の流れに置き去りにされないよう変化しつつも、曲げてはならない信念を貫く。

 新旧の価値観を同居させることこそが紫海の理念であった。


 作法を確認したのか、奥に座っていた男が動いた。

 テーブルの上の新聞を掴み、由々桐の対面へ移動して着席する。

 茶杯の横に折り畳んだ新聞を置く。その隙間からは銃口が覗いていた。

 男が口を開く。


「老子函谷関を過ぎれば」

「紫気東より来たる」


 即座に返された返答で満足した男は、新聞の上から手を離して茶杯を持ち上げた。


「由々桐という。張月栄と連絡を取りたい」

「その必要はない。張さんから伝言を預かっている。何でも(・・・)用意するとね」

「そうか」


 男から差し出された紙切れを開くと、『エカテリーナ』という船の名前と停泊位置が書かれていた。

 場所はチッタゴン沖。名前はロシア船籍だが偽装されている可能性が高い。

 船舶解体は建造と同じく国際条約を満たしているか厳密にチェックされる。

 国際条約を満たさない旧式船舶、サブスタンダード船が湾港から離れた沖に捨てられるという事例がある。

 割れ窓理論よろしく、既に海洋汚染が進行している発展途上国の解体場近くには、違法投棄の船舶墓場がセットになっている事が多い。

 佐久間の居場所は掴めた。

 だが、何故先回りで情報を抑えられていたのかが気になる。


「次はアンタの番だ、由々桐さん。情誼(チンイー)に応えてもらおう」

「……あぁ、何をして欲しい?」

「今開催されている八雲會興行に関して知っていることを教えてくれ」

「問題ない。何から話そうか――」


 言葉を慎重に選びながらも、由々桐は紫海の状況を推測する。

 張月栄が恩のある由々桐に対価を求めることは少ない。

 八雲會興行の事を知りたいのは紫海メンバーに参加者がいるからだ。

 恐らく張月栄は闘技者の勝敗を気にしている。

 単発興行の賭博金など高が知れているので小銭目当てではない。

 もっと大きな何かが見え隠れしている。

 今回の八雲會興行は莫大な利権絡みの賭博なのだろうか。

 それこそ国と国のゲーム、代理戦争に近い何か。

 説明の最中、由々桐は新たに取り出した紙巻きに火を付けて溜め息をついた。

 佐久間に辿り着いたとしても最後の最後で紫海に裏切られる可能性がある。

 義を為すは、(そしり)を避け(ほまれ)に就くに非ず。

 信念を貫くことは時に友情や人脈を断つのみならず、金に変えることすらある。

 幾度となく踏み越えてきた瞬間を思い起こす時、少し哀しい気持ちになる由々桐であった。




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