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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十八話
205/224

【紛争】④

   ■■■




 ジンジャーピーチティーの優雅な香りに混じって、既視感のある匂いがした。

 モーテルの狭い室内に僅かなアンモニア臭が漂っている。

 それが自分のものではないことを確認する意味で、南場裕大は後頭部を掻くふりをして上着の匂いを確かめた。

 大丈夫。風呂は毎日入っている。

 この頃は尿のキレが悪く下着に二、三滴漏らしがちだが今は問題ない。

 ならば他に匂いの発生源があるということだ。


 恐らく目の前のソファーでカップを持ち上げている女、篠咲鍵理の匂いでもない。


「由々桐は何時まで待たせる気だ?」


 篠咲は余裕すら感じる笑みで口を開いた。

 前髪で隠れている顔の左半分は火傷痕のように変形している。

 引き攣る口元から察するに神経までやられているのだろう。

 彼女が撃剣大会二日目で消息を絶ったのはこの怪我が原因であり、何者かの襲撃を受けてリタイヤしたという噂も真実なのかもしれない。


「さぁ、腹でも壊したんじゃないの? もうちょっと気長に頼むよ篠咲さん」

「おかわりをもらおうか」


 空になったカップを受け取った南場は「仰せのままに、お嬢様」と注文を承りキッチンへと移動する。

 最中、二人の男とすれ違いざまに会釈し合った。

 共に髭を剃らずくたびれたモッズパーカーを着込んでいるが、目付きは鋭く、手にはサプレッサー付きのハンドガンを握っている。

 レジストの諜報員。

 南場は篠咲と八雲會関係者の顔を知っているという理由だけで帯同させられていたが、彼らは組織編成の経緯から考えれば元警官か自衛官だと考えるのが自然。

 明らかに一般人とは違う雰囲気を纏っている。

 経歴は分からないが暴力の扱いに関しては実力者だろう。

 しかしメンタル面はプロのそれではない。


 匂いの発生源は彼らであった。


 夜の客商売を長く続けてきた南場ならではの勘が働いている。

 これは何かをやらかそうとする人間が発する匂いだ。

 極度の緊張、ストレスによって体内アンモニア濃度が上がり、それは呼気にも現れる。

 南場は舌打ちした。


 ――何を起こす気か?


 バングラデシュで篠咲を確保し、由々桐と会わせるまでの待ち時間。

 篠咲は八雲會のトップと面識が有り、会合の為に入国したと語る。

 由々桐と会うことにも抵抗することなく快諾している。

 つまり彼女が協力する態度を示した今、レジストの面子も八雲會に襲われる理由はなくなったといえる。

 それなのに二人が発する緊張感は何なのか。

 決まっている。

 由々桐の命令を裏切り、この場で篠咲を殺す気だ。

 彼らの目的が分からないのは、誰かの命令で動いているからだ。

 機を窺いながら抗えない命令と返り討ちされる恐怖でせめぎ合っている。


 問題は篠咲が殺されることではない。

 目撃者として南場も消される可能性が高いことである。

 殺害する難易度から考えて最初に狙われるのは篠咲の方。

 逃げるなら今しかない。


 南場はキッチンに入ると電気ケトルのスイッチを入れながら、奥にある突き出し窓を確認した。

 排煙用かピクチャーウィンドウか、いずれにせよ大人一人が通れるかも怪しい小窓である。向きも建物の正面側で逃亡に適さない。

 同じ理由で玄関からの突破も難しい。

 モーテルの間取りは1DK。

 玄関を開ければキッチンがあり、その奥に篠咲を監視する洋室がある。

 玄関を抜けるのは容易いが、駐車場の見張りに勘付かれず逃亡する自信はない。

 次に流し台周りを確認し、フライパンや包丁どころかフォークの一本ですら存在しないことに歯噛みした。

 武器にできるのは精々ティースプーンくらいか。

 南場はあくまでレジストに協力する一般人である。

 コンサルタントと名乗っているが銃の携帯は許可されず、今だ護身用武器の調達すら叶っていない。

 直接的な戦闘になれば最弱の存在である。


 南場は湯が沸くまでの二分間で熟考した末、一番現実的な策を実行することにした。


 ケトルの電源を抜き、蓋を開け、上着のMA-1ジャケットを巻きつけた左手で掴む。

 右手には冷蔵庫の上に置かれていたスプレータイプの簡易消火器。

 そのまま足音を殺して洋室へ戻る。

 二人の諜報員の背後を取った南場は、今まさに篠咲へ向けられる途中の銃口を見て声を上げた。


「へいお待ち!」


 左手の熱湯を右の男に引っ掛け、左の男の顔を狙ってスプレーを噴射。

 ジェル状の水が視界を塞いだ隙に、熱湯に喘ぐ男に上着を被せて銃を奪取する――はずだった。

 スプレーの噴射ボタンを押下しても中身が出ない。

 何という不運。

 以前の利用者が興味本位で噴射したのか、噴射口で固まったジェルが栓になっている。

 南場は舌打ちしながら即座に目標を切り替えた。

 熱湯をかけた方を放置して、無傷の男へスプレー缶ごと投げつける。

 銃を持つ手に上着を被せた瞬間、サプレッサーの乾いた発砲音が聞こえた。

 身体を突き抜ける衝撃は感じない。

 狙いが外れたのか、アドレナリンで昂ぶる身体が痛みを麻痺させているのか。

 南場は負傷への恐怖を捨て、上着越しに掴んだ銃身を捻り上げて男の手首を圧し折り組み伏せる。

 一対一なら何とかなるという達成感に浸る間もなく、組み伏せた男を起こして盾にする。


 だが間に合わない。

 あと、一手。

 僅か一手のミスが致命的なものであることを示すかのように、熱湯をかけた男の銃口が南場に向けられていた。

 音も時間も鼓動ですらも止まったかのような一瞬。

 銃口のライフリングすら見える鮮明な視界。

 最後の光景。

 南場は自身の策の甘さと失敗を受け入れていた。


 しかし博打には勝利した。


 銃を向ける男の手首と首筋から血飛沫が奔る。

 停止した時間を駆け抜ける凄まじい速度の剣閃。

 かつて最強と呼ばれた剣鬼の技。

 南場は素直に美しいと思った。

 組み伏せている男の頚部に鈍色が刺し込まれた時、ようやく彼女が振っていた山刀の長さが認識できた。


「何が起こっているのか分からないが、これで貸し借りはなし。……そういう認識で構わないか?」


 眼前で篠咲鍵理が微笑んでいる。

 引き攣った不気味な顔貌で。

 南場は助力を期待して篠咲の部屋に戻ったつもりであったが、言葉を発した瞬間殺されそうな圧で首を縦に振ることしかできない。


「はぁ、内輪揉めなら他所でやって欲しいものだな」

「お、俺にも何がなんだか」

「逃げるぞ。早く立て」


 唯一安全に退出できる裏手の窓を開けながら、篠咲は南場を急かした。


「ちょっと待ってくれ」

「なんだ」

「リアルで漏らした。いい歳こいた大人としての罪悪感半端ないから着替えたい」


 南場の股間を一瞥した篠咲は嫌悪の視線を向け、「アホか。置いてくぞ」と吐き捨てて窓から飛び出す。

 勝手が違う異国の地、南場にとって篠咲は唯一の生命線である。

 南場はそろそろ癖になりそうな舌打ちを我慢して立ち上がり、仲間だったはずの肉塊から銃を奪い取った。

 考えなければならないことが多すぎる。

 誰が敵なのか。

 何故篠咲が狙われるのか。

 レジストの指示で動いている木崎三千風はどうなっているのか。

 由々桐が味方なのかすら定かではない現状、南場は念の為に支給された携帯電話をソファーに投げ捨てる。

 そうして思考の混沌をも振り払い、意図せず纏ったアンモニア臭を引き連れて、篠咲の後を追って窓から飛び出したのであった。




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