【紛争】①
「我々は妄執的思想家の実験動物ではない」
アドリアーノ・ディアス大統領候補は壇上に立つと開口一番、現政権への怒りを露わにした。
「原油価格の低下、無計画な国有企業、反米主義による経済制裁。この国が世界最大の産油国でありながら崩壊してしまったのは、世界が歩んできた百年の歴史から何も学べなかった恥知らずが、未だに机上の空論である社会主義実験を行っているからだ」
会場を埋め尽くすオーディエンスから拍手が巻き起こる。
南アメリカ北部に位置するベネデンシア共和国。
ハイパーインフレーション下の同国は、罷免を求められながらも続投を続けたクリストバル大統領の任期終了に伴い、国全体が沸き立つ激しい選挙戦へと突入していた。
事実上のデフォルトに追い込まれた国内では全ての金融資産が崩壊し、国民は物資を買うこともままならず、厳しい情報統制と断続的な停電により世界から隔離されつつあった。
「私はヤク中の両親から生まれた。本来ならそれだけで人生は決定したようなものだ。クラックの売人として路傍で息絶えるような人生だったかもしれない。
しかし私は、この場に集まる皆さんと同じく抵抗を続けた。
生まれの不自由に。教育の不自由に。人生の不自由に。抗って抗って、偶々ここに立っている。私は皆さんと何も変わらない抑圧に耐えてきた一市民だ。
もういい。もう充分だ。もうこれ以上は必要ない。私たちは次世代を担う子供たちにも理不尽に耐え忍ぶことを教えなければならないのか?
貧困に喘ぎ、為政者の独裁に恐怖し、麻薬で現実逃避するだけの人生を与えなければならないのか?」
ディアスは聴衆に問いかけ、一呼吸置いた。
僅かなざわめき。そして徐々にやってくる否定の叫び。
聴衆はディアスを支持する『集団』ではあるが、『個人』にはなりたくないのだ。
おそらく会場に紛れているであろう秘密警察への恐怖が人々を縛っている。
ディアスは彼らを責めない。
声高に奮い立たせようとは思わない。
ただただ、国に蔓延する疫病から目を逸らさせないだけだ。
「その通り。我々は平和で公正な世界を望んでいるだけだ。何故こんな当たり前の事を望むだけの我々が怒りの拳を振るわなければならないのだ? 何故生命の危険を感じなければならない?
こんな悲しみの連鎖は我々の代で終わりにしようではないか。
私は命を懸けられる愛国者だ。この選挙期間中に死んでも構わない。
私の死が国境を超えて世界中の正義に火を付ける。この国の異常を白日の下に晒し出す。
ならば本望。私は喜んでこの国の礎石となろう。私は死して尚、盤石なる執念の盾となろう。
かの者たちは銃弾でアウヤンテプイに挑む愚かさを知ることになるだろう。
我らがベネデンシアの未来と平和を掴む為、どうか皆さんの勇気をほんの少し私に貸してほしい」
終始穏やかな語気で続いたスピーチの終わりは、会場を震わせるほどの拍手の海に包まれていた。
◆
「素晴らしい演説だったよ」
私邸に戻り、愛飲しているダークラムの栓を開けたディアスは、いきなりカーテンの陰から現れた男にも動じず会話に応じた。
「自画自賛か? 俺は狙撃されないか冷や汗モノだったぞ」
ただ演じただけのこと。
裏に控えている作家が優秀であればあるほど役者の負担は少ない。
隠れていた男はゆっくりとバーカウンターに歩み寄り、投光器の下で笑みを浮かべてディアスと相対する。
金髪オールバックの白人。顔貌は経年の染みも皺も何一つ見当たらないゴム製品のよう。年齢は読み取れない。
視線ですら異様に堀の深い眼窩が作る影に隠れている。
ディアスは見知った脚本家にグラスを差し出し、新たにダークラムを注いだ。
「クリストバル政権の世論調査では君の圧勝だそうだ。まぁ公にはされないだろうがな」
「身内で固めた政府に内通者がいるとは思えんな。お得意の盗聴か?」
「さてね」
米国外交官、アリソン・ジャックス。
ディアスに彼の実態を調査する術はないが、CIA工作員であることは疑いようもない。
反米政権の打倒という点で目的が一致していることは理解しているが、軍事力に物を言わせてきたクリストバル大統領がここまで静かなのは異常だ。
メディアを操作したプロパガンダこそ続けてはいるが、決定的な解決手段である対立候補の直接排除に乗り出してこない。
一時は本当に死を覚悟していたディアスだったが、遅ればせながらようやく事態を理解し始めていた。
排除しないのではなく、出来ないのだ。
暴力に訴えかける前に暴力で黙らせる。
CIAや特殊部隊総動員で本格的なアメリカの介入が始まっているのだろう。
民衆はもはや反米を続ける意味も見出だせない程に疲弊している。
クリストバルがいくらディアスを売国奴と非難しようとも、真に国民生活を保証するのがどちら側か誰もが身を持って理解している。
十数年間、ずっと機を狙っていたハクトウワシを止められる者などもう存在しない。
「この国の平和を保証してくれるのならば、私は傀儡で構わない。ただ、目的だけは共有しておきたいものだね」
「……目的?」
「アンクルサムは見返りに何を求めているんだ?」
当たり前だが彼らとて慈善事業ではない。
石油埋蔵量世界一を誇るベネデンシアに介入する対価。
エネルギー関連企業の外資受け入れは避けられないだろう。
そうなるとまた国が変わる。
外資が権力を握り、租税回避に精を出した結果、ロシアではオリガルヒという新興財閥による政権汚職が横行した。
実質的な経済植民地が加速化すればまた自国民が飢え、クーデターで国がひっくり返る。
民主主義と社会主義の間で玩具にされる輪廻から逃れなければ未来はないのだ。
アリソンはグラスを飲み干し、内ポケットから取り出した黒青色の石を机上に置いた。
「我々は過去に学ぶ。石油産業に関しては君たちと共存共栄できるプランを用意している。――ただ、一つだけアメリカとベネデンシアだけで進めたい事業がある」
「――青い金か」
「そうだ。コンフリクトミネラルの採掘権。それを独占したい」
原子番号73、タンタル。
スズ、タングステン、金と並ぶこのレアメタルは、今や電子産業にはなくてはならない存在であり、同時に紛争鉱物にも指定されている。
紛争鉱物を取り扱うサプライヤーには『血の流れた資源を使用しない』という協定が存在し、タンタルに関しては、世界最大の産出国であるコンゴが紛争による輸入規制を強いられて価格高騰が起きている。
そこで目を向けられているのがベネデンシアだ。
クリストバル大統領は選挙に向けて大規模なタンタライト鉱床を発見したと発表している。
アメリカの狙いはその採掘事業から中国、ロシアを排除することが目的なのだろう。
ディアスは深く溜め息をついた後、グラスを飲み干して二人分のダークラムを注ぎ直す。
「構わんよ。ただし問題がある。現時点で鉱床の位置を把握しているのはクリストバル一派だけだ。選挙で負けた後のことを考えて取引材料にしているだろう。それを引き受けてもらうことになるぞ」
長らく独裁政権を続けてきた彼らの顛末は考えるまでもないが、現時点から国を立て直すのに地下資源採掘が急務であるのも事実。
どれだけの条件を吹っかけられるか分かったものではなく、ディアスは端からタンタル鉱床という埋蔵金を当てしない再建計画を立てている。
「それは問題ない。鉱床の位置を知っているのはクリストバルではなく、ある日本人だからな。それを入手する算段は付いている」
「は? 日本人だって?」
「喋りすぎたな。良い酒だ」
顔の中で口角だけが釣り上がる人形のような笑み。
アリソンの真意は分からないが、クリストバルに依存せず鉱床を特定できるのならベネデンシアにとって何の不利益もない。
演者たるディアスは深く知る必要はない事だと割り切って、再度グラスに手を伸ばした。
そして慣れ親しんだ琥珀色に唇を近づけた時、――違和感に気付く。
青臭く甘い匂い。
ダークラムのものではない。
匂いの元はいつの間にか部屋に漂っている煙だ。
ディアスはホームバーの入り口を睨んでいるアリソンに気付き、同じように視線を向ける。
漆黒の巨体が影のように立っていた。
黒人の男。
頭部から垂れ下がる房状のドレッドヘアで表情は見えない。
鼻柱を通る銀環のピアスと、大麻の煙を吐く口の白い前歯だけが闇に浮かんでいる。
二人の視線を集めた後、男は紙巻き大麻を投げ捨てて、大袈裟に両腕を広げて挨拶を始めた。
「やあ。バビロンの白豚ども」
明確な敵意。
右手には刀剣らしきものが握られている。
形状はククリナイフに近いが長さは一メートル近い大振り。
柄部は後端がフック状に折り返ってナックルガードのように機能している。
その黒い刀身からは何らかの液体が滴っていた。
ディアスは未だ候補者とはいえCIAの後ろ盾がある。
邸宅に侵入し、このホームバーに来るまでに何人かの警備を配置している。
ディアスよりも早く分析を終えたアリソンは速やかにハンドガンを抜き放つ。
「サウンドクラッシュターイム!」
男の叫びとアリスンの発砲は同時だった。
「パウッ! パウッ!」
続けざまに弾ける銃声と男の嬌声。
ディアスは信じられない光景を見ていた。
右を向いていた黒人の巨躯が次の瞬間には左を向き、また次の瞬間には右を向いている。
躱しているのだ。
目視できない程の半身転換で踊りのように銃弾を躱している。
ディアスは知っている。
【エルカドゥラ】と呼ばれるその体捌きを。
アリソンの五回目の発砲は、ディアスの鼻先を掠めていく。
距離を詰めた男の左手に払われて照準を外したハンドガンが――宙に浮いている。
右手の刀剣がアシソンの脇下を擦り抜け、切断した右腕を跳ね上げていた。
そこでまた黒人の身体が翻る。
高速の左右転換にステップが加わり、そのまま背後に回り込む動作へ変わる。
腰を捻りながらバックハンドで横一文字に男の刀身が奔り抜けた。
「はーあ、つまらねえ。全然ボスらねえよ」
首から上が消失したアリソンだった肉塊。
その切断面から夥しい量の血のシャワーが吹き出している。
ディアスは呼吸すら止まる恐怖の中、ある確信を抱いていた。
特異な体捌き。
片手保持の刀剣はかつてスペインの植民地支配時に取り入れたフェンシングの動き。
空いた左手で行う捌きと着衣コントロール。
この国の伝統武術【ガローテ・トクヤーノ】の技術だ。
黒人の大男は刀身に付いた血液をアリソンのスーツでひとしきり拭ってから、改めてディアスと向き合った。
ディアスは覚悟が追いつかない。
ただ避けられない死への恐怖が全身の筋肉を萎縮させている。
時間稼ぎで浮かんだ凡庸な台詞が咽頭を震わせた。
「だ、誰の差し金だ? 私を殺せばベネデンシアは終わるぞ?」
言い終わると同時に、ディアスは情けない気持ちになった。
――終わる? 終わるわけがない。私の死が神格化され、意思を引き継いだ誰かが政権交代を成し遂げるに決まっている。
アメリカとて外交官の殺害を静観しているわけがない。
ベネデンシアはもうアドリアーノ・ディアスを必要とせず、この場の命乞いにも何の効力もない。
むしろ最後の一押しとして、ディアスの死を望む者すらいるのではないか。
涙が溢れた。
失禁を押さえられない。
あんなにも国を想い、死すら厭わず尽くしてきたのに、最後の最後で個人的な生への執着だけが醜く足掻いている。
怖い。
死にたくない。
ディアスの醜態を見かねた黒人は優しく彼を抱き締め、耳元で最後の言葉を囁いた。
「ベネデンシア? はっは、我々の祖国はザイオンだけだぜメーン」
無慈悲な宣告と、背筋に刺し込まれた冷たい感触。
それがディアスの最後の記憶となった。