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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十七話
200/224

【梵我】⑦

   ◆




 痛み無し、気道の損傷有り、呼吸の阻害有り。

 滝ヶ谷香集は体液の誤嚥を防ぐ為、無呼吸運動に移行した。


 木崎三千風の実力に関して致命的な見誤りがあったことは認めざるを得ない。

 撃剣大会を乗り越えてさらなる成長を続けている。

 特別を持った身体でなければ【妙剣】で勝負は決していただろう。


 鞘で喉を突かれながら、滝ヶ谷は木崎の右袖を掴んでいる。

 その剣道着の胸元から覗く黒い肌着が滝ヶ谷の行動を制限していた。

 件の防刃繊維。

 本興行で禁止されている強力な鎧の存在は、切断を目的とする剣技を封印する。

 そして外部からの持ち込みを手伝う協力者が存在することも示唆している。

 導き出せる結論は、『木崎は八雲會と敵対する目的で動いている』ということだ。

 しかしもう遅い。今更止まれない。

 相手を薙ぎ倒す以外の方法など忘れてしまった。


 鞘を手放し、得意とする絞め技に移行する木崎が見える。

 日本の古流柔術は基本的に刀剣術の補助、或いは対刀剣術なので、上下への捌きや躱しは少ない。

 だが近代格闘技を取り込んでいる木崎は剣術と柔術を瞬時に切り替えてくるので、古流知識による予想が成立しない。

 滝ヶ谷は突き飛ばされた足先に地面の感触が戻ると同時に、全身の筋肉を捻った。

 足首、膝、腰、胸、肩、手首。

 駆け巡る電気信号に迫る速度で旋回、収縮する筋肉は、木崎の袖を掴む左手に最大のエネルギーを伝える。

 純粋な力の差は、技術による駆け引きを拒絶する。

 剣術と柔術の継ぎ目、それこそが木崎の弱点でもある。

 滝ヶ谷は豪腕にて引き寄せた袖下に潜り込むように身を屈め、右肘を木崎の脇腹へと向けていた。

 組みに来る瞬間の着衣コントロールはフィジカルの領域であり、着衣コントロールから相対速度でぶつける当身は必殺たり得る。

 月山流にも柔術は存在する。

 月山流柔術【三角矩下(さんかくくか)】。

 肋骨を砕き臓腑を潰す必殺の肘先は――手応えなく空を切っていた。

 強引に引き抜いた道着の袖も、拮抗する力が失せて宙に舞っている。


 滝ヶ谷の視界は闇に包まれていた。


 脱ぎ捨てた道着を被せるまでが木崎の絵図の上。

 着衣を武器とする目的で脱ぎやすい道着を選んでいる。

 周到な準備と的確な先読みで、力と速度を超えられた事実が滝ヶ谷を居着かせた。

 止めていた呼吸が戻り、気道防御反射で咳き込む。

 次に来る木崎の一撃は、文字通り勝敗を決める必殺の一撃であり、目視すら敵わない。


 ――私はどこで何をしているのか。


 滝ヶ谷は闇の中、己が足跡を振り返っていた。

 滝ヶ谷香集の人生とは、滝ヶ谷志津麻の人生の延長である。

 滝ヶ谷志津麻ならどうするか。何を望むか。

 その想像だけが滝ヶ谷香集の行動原理である。

 流動する時代の価値観に囚われない軸を持ち、無法に対抗する無法にて勧善を成す。

 激流の水底を穿ち立つ鉄柱のような存在。

 守るものの為に矢面に立ち、あらゆる汚泥を跳ね除ける剛勇。

 万象を包み込む慈愛という理想に対し、選択的懲悪という現実は矛盾しない。

 いや、違う。

 誰かが血を流し、拳を振り上げてでも両立させなくてはならないのだ。

 それがこの世界を至福たらしめる原理なのだから。

 滅私ではなく、【原理(ブラフマン)】と【個人(アートマン)】の合一こそが滝ヶ谷志津麻の在り方である。

 ならば滝ヶ谷香集もそうでなくてはならない。


 世界の音が聞こえる。

 覆い被さる道着の音。

 木立が風に揺らめく葉音。

 小鳥の囀り。

 風を切る羽音。

 巌を打つせせらぎ。

 雑草の根が踏み込みに耐える音。

 空気を割って迫る斬撃の音。


 誤嚥の気道反射は既に治まっている。

 滝ヶ谷は視界を覆う道着もそのままに、両膝を持ち上げるように跳躍する。

 するとその足元の空間を斬撃が真横に通り過ぎていく。

 滝ヶ谷は木崎の脛斬りを予想して避けたわけではない。

 音と波が視覚以上に映像を形作る故に、対応する動きが間に合うだけだ。

 振り切った脛斬りが斬り上げに変わる。

 これは虚だ。

 切落し同様、斬り上げは中段で留まって突き技へと変化する。

 見る以上に視えるのならば躱すまでもない。

 刺突の峰を手刀で払い落とす。

 空気の停滞で木崎の逡巡が伝わる。

 流石というべきか、木崎の居着きは半秒にも満たず次の行動へと移行する。

 折角拾った刀を投げ捨てて距離を離していた。

 木崎が向かう先は、刀でも薙刀でもなくタープテント内にある銃器だと分かる。

 滝ヶ谷は追いかけるでもなく、ゆっくりと道着を剥ぎ取って視界を確保した。


「チェックメイトだ、姐さん。頼むから、引き金を、引かせるなよ」


 会話に挟まる呼吸の頻度と、銃口の震えが木崎の焦りを伝えている。

 彼我の距離は六メートル。

 薙刀を持っていたとしても届かない間合い。

 滝ヶ谷は笑みを抑えられず破顔していた。


「確かにチェックメイトですね。私は生涯、貴方のことを忘れないと誓いましょう」


 見える。視える。観える。

 視覚が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、世界の全てを伝えてくる。

 無秩序に思えていた世界の、その実、細部まで行き届いている法則が観える。

 世界は美しい。全てに意味がある。なんて素晴らしい。

 踏み込む足取りですら、世界の秩序を支える法則の中にあるかのように思える。

 木崎は迷わず引き金を引いた。

 銃弾が観える。

 音速よりも僅かに速い初速。

 滝ヶ谷は左足から踏み出した身体を右斜め前に移動させて躱していた。

 移動先に照準を合わせ二発目、三発目が放たれる。

 銃弾が滝ヶ谷に到達する直前、銃声にも似た音の破裂が起きた。

 音源は、斜めの入身を追いかけるように振り上げられた滝ヶ谷の左手。

 手に握られた木崎の道着が鞭のように空を切り、迫る銃弾をはたき落としていた。

 歩みを止めない滝ヶ谷に、理解が追いつかないながらも木崎は更に二発発砲するが、銃弾は何も無い空へ虚しく吸い込まれていく。

 目視が追いつかない急加速があったからだ。

 もはや人間の動きではない。

 滝ヶ谷は思いつきで犀川秀極の動きを真似ていた。

 体内を焼き焦がす程の緩急ある動き。

 彼が銃器を容認する八雲會で生き残ってきたのはこの異能を有していたからだ。

 自らの限界を書き換えながら、滝ヶ谷は落ちている薙刀を拾い上げた。

 続く銃撃は来ない。

 木崎の持つハンドガンはスライドが引かれたまま固定されている。

 あれが弾切れの状態なのだろう。

 遮二無二投げ捨てられるハンドガンを半身で躱しながら、滝ヶ谷は薙刀を小脇に構えた。


「では、さようなら。木崎三千風」


 薙刀の軌道上に木崎の頚椎がある。

 木崎は咄嗟に拾い上げたコーヒーメーカーで首を守っているが、滝ヶ谷には意味を為さない防壁だ。

 強固な握力と手首の返しにて軌道を歪め、露わな頭頂部へと穂先を振り下ろしていく。


 その最中、滝ヶ谷の鼓膜は新たな銃声を捉えていた。




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