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どろとてつ  作者: ニノフミ
第六話
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【一叢】⑤




 雨が瞼を濡らす。

 気絶のような睡眠から目を覚ました鉄華は、顔を滴り落ちる水滴を這う虫だと勘違いしてまずは顔を拭い、それから正気を取り戻して辺りを見渡した。

 どうやら川岸の岩場で眠ってしまっていたらしい。


 ――眠気が取れない。

 この頃は浅く短い眠りを断続的に繰り返すだけで、起きても頭がはっきりとせず朦朧としている間にまた次の眠りがやってくる。

 寝るにも体力を使うということを嫌でも思い知らされていた。


 入山して二週間。

 切り詰めれば一ヶ月は大丈夫だと思っていた食料は十日程で尽きてしまい、切羽詰まった状態で釣りに挑戦したものの、糸と針は根掛かりで水底へと消えてしまっている。

 それでようやく事態の深刻さに気付き、現地調達の手段を講じず楽観的に過ごしていたことを猛省していた。


『修行といえば山篭りじゃな』


 勢いを増す川の流れを眺めながら、最後に交わした会話が走馬灯のように鉄華の脳内を巡り始めた。




   ◇




「鉄華とやらよ、お前は身体の方は才能に恵まれておるが心が未熟過ぎる」


 倉庫から引っ張り出してきたサバイバル用品を縁側に並べながら不玉は説明を続ける。


「多くの人間は、自分の人生の意味について何も知らないままに生きて死んでいく。しかし、お前の立っている位置はあまりにも危うい」


 折りたたみ式の簡易なテントを広げ、白い汚れのようなカビをはたき落とすとまた小さく畳み直した。


「強靭な身体と巧緻な技術を求め、いずれ到達するやもしれぬ。だが、何故それを求めるのか? その理由は分かっておらん。そんな奴に武術を教えるのはなんとかに刃物じゃろうて」


 並べられた道具を一つ一つを確かめるように検分し、それを登山用のリュックサックに収めていく。

 片手鍋、ライター、釣り糸と釣り針、投網、浄水剤、消毒液、生理用品、そして信号筒。

 ある程度の食料は確認できるが、道具の殆どは自給自足を前提としているものばかりだ。


「一叢流は柔術と槍術の流派じゃが、本来は別物なのじゃ。一叢流柔術の小枩原草弦(ソウゲン)と、高端流槍術の高端不玉が結婚した際に纏め上げて今の体系になっておる。そう、あれはまさに運命の出会いというものじゃった……」

「おかんの恋物語とかキモくて聞いてられねえよ」


 屋内に上がり込みパソコンでゲームを物色していた泥蓮が毒づいた。


「ふふふ、そう言っているうちはまだまだ子供じゃの。青い青い――……話が逸れたが、高端流槍術を辿って行くと沢庵という坊さんがいてな、そいつは剣と禅の在り方について説いておる。剣でも禅でも、何かを追求するということは心の修行が必要だという剣禅一如(けんぜんいちにょ)という考え方よ。山篭りを以てして心を鍛えるのは禅道の基本なのじゃ」

「別にお坊さんを目指しているわけじゃないんですけど……」

「まぁ聞け。坊主になって悟りを開けというわけではない。互いに通ずる物があるだけで、剣者が禅をすればそれは士道じゃ」


 不玉は刃渡り十センチほどの折り畳みナイフを広げると左の義手で器用に握り込み、座ったまま鉄華に向けて正眼に構えた。


「士道の禅とは地蔵のように固まり頭を空っぽにするということではない。世俗から離れ立場やしがらみを消し、そこに残る己の根源と向かい合う戦いじゃ」


 向けられる剣尖は十分な長さを持った真剣のように鉄華の眉間に違和感を与える。

 武芸百般の達人はこの小さなナイフでも戦闘用の操法を修めているのであろう。

 紡がれる言葉は理解できない鉄華であったが、不玉の持つ強さがそのまま説得力になっているかのように感じていた。


「お前は何者で何を欲するのか? それは醜く、歪んだものやも知れん。だがそれでいい。倫理観も取り払え。どんなものでもお前の一部として受け入れるのじゃ。その上でどう向き合い、どう自制し受け流していくのかを考えれば、お前の鍛錬にも意味が生まれるというものよ」


 そう言って左手を軽く降ると手の内で回転したナイフが折り畳まれ、そのままリュックの外側のポケットに収められた。

 これで全ての物資が詰め込まれたことになる。


「多少飢える程度に食料も入れておいたから安心せい。否が応でも自身と向き合うことになる。この修行法を一叢流では螺魔断(ラマダン)という――!」

「知っているのか、おふくろ!」


 部屋にあった食べかけのスナック菓子を頬張りながら泥蓮が身を乗り出してきた。


「うむ。開祖の鬼一法眼は食欲、性欲、所有欲、俗世のあらゆる欲望を螺旋の如く連なる魔物だとし、それを断つことで本質を捉える禅修行を流派への入り口と定めたのじゃ。それが遣唐使で中国へと逆輸入され、シルクロードを経て中東圏へも伝わったと聞く……」

「クソ怪しいなこの流派。ほとんど親父の創作じゃねえのか?」


 成り立ちの真偽はともかく、一叢流とは泥蓮の父親の流派であることを理解できた鉄華だが、また新たな疑問が生まれる。

 何故母親が継いでいるのか? 何故流派の代表たる父親がこの場にいないのか?

 姓も変わったままなのは離婚ではなく、恐らくは死去しているのであろうか。

 泥蓮の兄に関してもその行方は謎である。


 そんな鉄華の逡巡を察した不玉は含みのある笑みで応える。


「なぁに、焦らずとも戻ってきた暁には色々答えてやろうぞ。何でもとはいかんが、知っていることだけじゃ」


 リュックの肩帯を掴んで立ち上がった不玉は、それを鉄華へ向けて放り投げた。

 受け取った鉄華の胸部にずしりと重みがのしかかる。重みの主な内訳はペットボトル三本の飲料水であろう。


 不玉は縁石の上にあった下駄を履き、カランコロンと涼しげな音を立てて裏庭の一角へ向けて数歩歩いた。

 そして塀の途切れた区画にある小さな獣道を指差して鉄華へ向き直る。


「この先を進んでいくと小川にぶつかる。その周辺を拠点として四週間、夏休みが始まるまで過ごしてくるのじゃ。どうしてもギブアップしたい時は信号筒を焚いて狼煙を上げるがよい。まぁその時は全ての修行は終わりじゃ。教えてやることは何もない」


 サバイバル知識を学ぶ間も、覚悟を決める間もなく、災害の如く唐突にして山篭り修行は幕を開けた。

 鉄華は泣きたくなった。

 そもそも古流の精神性というものは現代の価値観からかけ離れていて、それでいて曖昧なものが多い。

 誰かが得た境地に、別の時代に、同じ手段を使って到達できるとは限らないのだ。

 冬川戦の敗北で藁にもすがりたい想いの鉄華であったが、この手の古風なやり方には懐疑的になってしまう。


 鉄華に追随するように立っていた泥蓮が口を開いた。


「鉄華、これは私からの餞別だ」


 そういって手渡してきたのは携帯ゲーム機であった。


「暇を持て余したらハンターランク上げといてくれ」

「は、はぁ、ありがとうございます……ってデレ姉は来ないんですか!?」

「行くわけないだろ。山篭りなんてガキの頃散々やらされてるしな。私が行くとヌルゲーになっちまう」


 もはや誰の助けもない。

 鉄華は抗議する気力もなくし、考えることを止めた。

 およそ自由にならないことは世の中多く存在するが、この親子はある種自然災害のそれに近い。

 遭遇したが最後、人にできるのは祈ることだけだ。




   ◇




 朦朧とした意識の中で少し覚醒した鉄華は、また眠っていたことに気付いた。

 目の前が霞んでいてはっきりしないが、いつの間にか夜になっているようだ。

 テントに戻らないといけないのに、もう立ち上がる余力もない。


 ――これ以上は生命に関わる。

 せめてリュックから信号筒を取り出す力だけでも振り絞らないと死んでしまう。


『お前は何者で何を欲するのか?』


 不玉の言葉が幻聴となって聞こえてくる。


 ――もうどうでもいい。

 ()の暴力に対抗すること。逃げないこと。家族を守ること。

 それだけが全てだと思っていた。

 このまま人知れず死んでいくのが怖い。

 死ぬのだけは嫌だ。


『鉄華ちゃん、あ~ん、っす』


 別の幻聴が聞こえる。

 自作の兵糧丸を食べさせようとする一巴の声も、今では遠い昔の事に思える。


『ほら口開けて、あ~ん』


 あぁあの時食べておけばよかったな、と届かない記憶の分岐点を改竄するかのように口を広げた。


 ――甘くて温かい。

 それは兵糧丸ではなく流動食のように口腔に広がり、喉元を湿らせながら降りていく。

 食べるだけの行為が、こんなに幸せに感じられるとは思ってもみなかった。


「まだまだあるっすよ。ほら、もう一回あ~ん」


 生きようとする本能が報酬を求め、子供のように口を開けさせる。

 すると、もう一度甘くて温かいものが口内に広がる。 


 ――違う。

 その確かな感触に、鉄華は現実へと引き戻された。

 本当に何かを食べている。食べさせられている。

 鉄華は頭の下にある柔らかい感触で誰かに膝枕されていることに気付く。

 霞む目を凝らしてその誰かを確認する。

 

 木南一巴だ。

 幻覚でも幻聴でもなく、本物が目の前にいる。


「お、やっと気がついたっすね。いやぁ、マジ死ぬんじゃないかと焦ったっすよ。あっはっは」


 鉄華は声を上げたいのに喉が震えて上手く喋れない。

 ただただ目に涙を浮かべて口元に運ばれる食事を食べ続けるのであった。




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