【梵我】⑥
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無痛症であることは疑いようもない。
アスリート体質の筋密度、撃剣大会でも戸草に並ぶレベルのフィジカルを女体に宿している。
無汗症やオーバーワークで身体を壊さない範囲を理解して、失われた薙刀術を極めた怪物。
生まれる時代が時代なら歴史に名を残す豪傑であっただろうが、現代に於いては殺人鬼にしか成り得ない哀れな女。
幸か不幸か、彼女は行き着いてしまった。
もう誰にも救えない。
助けてやろうという僅かな侠気を放棄して、木崎は滝ヶ谷を殺す手順を考えている。
筋力も体重も相手の方が上であることは認めないといけない。
自信のある絞め技は技術の世界だが、絞め技に移行するまでに通る組み付きや投げ技はフィジカル差で簡単に覆る。
確実に勝利するためには武器を使うことが必須である。
無汗症による体温上昇を狙う長期戦は競技の戦いなら可能だが、何でもありの死闘で身を委ねるには心許ない策だ。
おそらく脚力も負けているので逃亡するには視覚を殺す手段を構築しないと成功しない。
木崎は時間稼ぎに滝ヶ谷の食いつきそうな話題を考えて口を開いた。
「姐さんは月山流の存続を放棄する気か? 充分稼いだのにこんなところで何やってんだよ」
「……」
返答はない。
しかし滝ヶ谷の頬骨が動いたことを木崎は見逃さなかった。
「滝ヶ谷志津麻は武術のみならず一人の人間としても完成された人格者だったと聞くぞ。アンタは親と師匠の高名を足蹴にする程狂っちまったのかい?」
「黙りなさい」
語気に怒りを宿しながらも攻めてくる気配はない。
確かな逡巡があった。
木崎はおもむろに構えを解き、腕組みをして対話の意志を伝える。
視界の隅、右斜め前に二メートルの地点に落とした刀が見えた。
蹴飛ばした薙刀は視界の遥か外側。
木崎は刀の落ち方を確認するために一瞬視線を落としてから、また滝ヶ谷を見据えて会話を続けた。
「狂っていないのなら何だ? 俺を値踏みする前に、自分の行動をちゃんと説明できるのか? 支離滅裂だぞ姐さん」
「薙刀術は対剣術。現代で剣術の居場所を求める獣が存在するならば、屠るは私の役目でしょう? 何も矛盾はありません」
「なにそれ。意識高っか」
木崎は撃剣大会に際して、名の知れた選手に関してはかなり深くまで情報収集している。
滝ヶ谷の生い立ちが不幸と救済の繰り返しであることも知っている。
彼女が積み重なった偶然を天啓だと捉えるようになっても然程不思議な事ではない。
反吐が出る。
どこかのヒーロー気取りと同じ理論だ。
木崎はヒーローになりたいと思ったことはない。
彼らは矛盾を抱え過ぎていて、まず正義の定義で悩むことになる。
『正義の敵は別の正義』という矛盾、欺瞞、偽善、対価のない自己犠牲で懊悩し、自分は何がしたいのかという単純なことを理解するのに無駄な時間を消費し続ける。
そんなのはまっぴら御免だ。
結果的に誰かの救いになるとしても、行動とは単純で利己的な欲求の為に存在しなければならない。
こんな興行ではしゃいでる奴ら全員気に入らないからぶち殺してやりたい。それで充分なのだ。
それこそが自分を騙す必要のない人間らしさであり、己の軸として葛藤しない振れ幅も持つ信念足り得る。
滝ヶ谷香集の中身は子供のままだ。
大人の偏屈さで理論を固めてしまった子供。
説得は不可能だが、煽ることはいくらでも出来る。
木崎は嘲笑を浮かべた。
「環境保護団体が人類滅ぼそうとしてんのと同じレベルだぞ。幼稚過ぎて眠いわ。反則の言い訳必死に考えてたら引くに引けないとこまで連れて来られちゃった間抜けだとおとなしく認めるんだな」
言い終えた木崎は背筋が凍るのを感じた。
殺気とは理解と想像の産物だ。
発したり飛ばしたりするものではなく、相手が本当に殺しに来るという理解と想像が受け手の中に殺気を形作る。
滝ヶ谷の表情と呼吸の僅かな変化、ただそれだけの事が強烈な殺気として木崎を恐怖させていた。
恐怖を飲み下すことに慣れている木崎だが、続く言葉で滝ヶ谷志津麻を貶すことは躊躇せざるを得ない。
怒りのままに原始的な暴力を振るわれるくらいなら、いくらか予想できる古武術を相手にするほうがマシだ。
時刻は正午を回ろうとしている。
照り付ける光の波が非戦闘地帯の血溜まり揺らし、死の匂いを立ち籠もらせている。
そこに一陣の風。
山裾から吹き上げてくる新鮮な空気が木崎の後ろ髪を揺らした。
先に動いたのは追い風を背負う木崎。
続いて動く滝ヶ谷。
両者共に落ちている刀へ向かって前進する。
弾丸のように飛び出した滝ヶ谷だが、彼女の脚力を持ってしても刀に近い木崎の方が有利。
間に合わないことを悟った滝ヶ谷は、単に刀を蹴飛ばすつもりで伸ばしていた足先を浮かべる。
着物の裾から伸びる真白の足先には不釣り合いなタクティカルブーツ。
足底を寝かし踵から押し込む前蹴りへと切り替えていた。
木崎が刀を拾って即座に斬撃を放つとしても、全体重を乗せた前蹴りの方が先に到着する。
武術家が武器を取ろうとするのは当然の選択であり、木崎は大会で散々柔術技を披露してしまっている。
ここまでの攻防は滝ヶ谷の読み勝ち――に見えた。
滝ヶ谷の決定的な見落としは、視線を落として刀を意識させた木崎の真の意図まで辿り着けなかったことにある。
木崎は刀を拾わない。
その差分時間で腰帯の鞘を抜刀の要領で抜き放ち、上段からの振り下ろしで滝ヶ谷の前蹴りを逸していた。
質量のある前蹴りに鞘打ちで粘り勝つ術理。
大会で敗北した小枩原泥蓮の続飯付を学んだのだと滝ヶ谷は瞬時に解釈した。
しかし振り下ろした鞘が振り抜かれることはなく、中段で留まり続けていることを確認した時、さらなる過ちに気付く。
これは【切落し】だ――と思った瞬間、咽頭に深く鞘先が埋まっていた。
神道流、柳生新陰流、一刀流という超派の刀法を組み込んでいる心形刀流が無視するはずもない術理。
全ての技は【切落し】の派生。
かつて柳生新陰流と並び、将軍家の御家流とされた小野派一刀流。
その高上極意たる一つ、【妙剣】。
突き出される鞘へ向かって全力の相対速度で衝突した滝ヶ谷は、首を起点に宙空を押し戻されながら喀血の飛沫を撒き散らした。




