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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十七話
195/224

【梵我】②

   ■■■




 見上げる空が水泡で掻き消されていく。

 雪解けの急流を甘く見過ぎていた。

 霜付く岩肌の滑らかさを楽観視していた。

 激流の水温が容赦なく体温を奪い、筋肉は震えて強張り、刺すような痛みを伴って死へと導いている。

 揺蕩う木の葉のように翻弄される最中、進路上で飛沫を上げる岩に右手が引っ掛かる。

 そのまま絡めてしがみつこうと思ったのと、手首が折れるのは同時であった。

 もう水を掻くことすらままならない。

 危機に際して身体は未だかつてないパフォーマンスを発揮しているが、使い方が分からない。

 使い方を考えている時間で状況はどんどん悪くなっていく。

 死。

 こんなにもあっけなく、予兆無く、人は死ぬ。


 ――私は、ここで終わる。


 少女は死を受け入れた諦めの底で、自らの存在意義を考える。

 大業を成し遂げた偉人と並ぶ程ではなくとも、人間は成長して幸せを掴み、子孫を残すという使命があるものだと思っていた。

 自分は何の天命もなく産み落とされたバグのようなものだったのか。

 或いは、これから訪れる自分の死が誰かの天命にとって必要なものだったのか。

 考える時間すら尽きようとしてた。


 目頭の熱さえ流されていく濁流の中、不意に微かな温もりが纏わり付いた。


 脱力する身体を力強く支える腕。

 それは水底へ引きずり込む死神などではなく、敬愛する兄の腕だとすぐに分かった。

 岩のように固く、大樹のように泰然で、陽だまりのように暖かな筋肉が、自分の代わりに死と戦ってくれている。

 もう大丈夫。

 自然だろうと死神だとうと、兄が勝てない者など存在しない。

 少女が絞り出した余力で腕にしがみつくと、それに応えるように抱擁はより力強く彼女を包み込んだ。


 ―――

 ――

 ―



 杉の木の樹洞で目を覚ました小枩原泥蓮は、静かに穴から這い出て、目下に広がる山麗の景色を眺めた。


 夜露が光り、山の輪郭が輝いて浮き上がっている。

 平地よりやや遅れる盆地の日の出。

 午前七時頃の暁空は裾の村落から上がる狼煙で曇っていた。

 いくつかの建物は今も炎を上げている。

 消防車の出動など期待できず、夜間の戦闘の跡が静かに燻り続ける。

 もしかしたら地元民の幾らかはこの山で起きている異変に気付き始めたかもしれない。

 しかし彼らが騒いだところで警察も消防も動かないだろう。


 泥蓮は確保していた飲料水のペットボトルを開栓しながら、思い出したかのように一枚の紙をポケットから取り出した。

 普段なら気にも止めない紙切れだが、廃村の家屋に真新しい紙が置いてあれば嫌でも目にも付く。

 八雲會が何らかの意図で設置したのだろうと夜間の散策で持ち出していた物だ。


 ――が、朝日の下で改めて内容を確認した泥蓮は、僅かな驚きの後、失笑していた。


『守山の遺産、この地に眠る。鉄華』


 久方ぶりに思い出した名前が、投げ捨ててしまった日常を想起させた。

 ほんの数が月の別離が遠い昔のように思える。

 夢の続きを引き摺るように、『ああ、あの日常こそが陽だまりであった』と郷愁の念が込み上げてくる。

 しかし、この明らかに泥蓮に向けられたメッセージが意味するところを考えた瞬間、春旗鉄華への想いが失望へと変わった。

 あの馬鹿はここまで追って来やがった、と。

 長い人生で一瞬擦れ違った程度の縁でしかないのに義務や責務を感じ過ぎだ。

 たとえ、小枩原不玉の願いであったとしてもここまでする必要などない。

 鉄華が望む望まぬに拘らず、誰かと出遭えば殺し合いになる舞台である。

 ミイラ取りがミイラになる故事の典型。

 女子高生一人が鼻息荒くしたところで八雲會という流れは止められず飲み込まれていくだけだ。

 彼女は死闘の中で自分がどう変化するかを考慮していない。

 泥蓮は助けてやるのも馬鹿馬鹿しくなる程の無謀を読み取り、腹立たしさで紙片を握り潰す。


 直後、全ての思いは遮断され、冷えた鉄塊が心底に落とされた。


 視界の外、十メートル離れた位置に人影が立っている。

 総髪の頭に道着と袴。時代劇から飛び出して来たような出で立ちの男。

 その手には三メートル程の鎌槍が握られている。

 風が木立を揺らす音に紛れて接近してきた男の実力を測りながらも、不意打ちをしてこないことへの違和感を探る。

 女子供が相手だから躊躇していると判断した泥蓮は、戦闘態勢に入るよりも先に声を上げた。


「あ、あの、私、地元の高校生で、何か迷ってしまったんですけど、山道はどっちだか分かりますか?」

「ふむ。山道なら向こうの川沿いにあったと思うよ。一叢流のお嬢さん」


 男の言葉を聞き終えた泥蓮は小さく笑いながら、後ろ腰のサバイバルナイフを抜き放った。


「……なんだよ。有名人か、私は」

「然り。堕ちた身なれど古流に携わる者としてかの大会を無視は出来んよ」


 男も応えるように鎌槍の尖端を下げて構えた。


「なぁ、私の目的はお前じゃないんだ、コスプレ侍。お互い見なかったことにして立ち去るってのはどうだ?」

「拙者は卜傳流、平坂高継。望むは沸き立つ死闘ぞ。尋常なる殺し合いを」


 不意打ちを狙わないのは紳士さではなく、狂人の美学故に。

 誰もが常識から解放され、なりたい自分になれる場所。

 八雲會という狂気を体現するかのように、男の顔貌はプレゼントを期待する子供のように煌々と輝いていた。

 周囲の気配を探り終えた泥蓮は、言葉通り一対一の果し合いを望む狂人へ呆れ顔を向ける。


「まぁ丁度いいか。その槍、私が使ってやるよ」




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