【蒼氓】⑧
◆
「俺は長楽十四朗ちゅう者や。よろしくな」
よろしく。
馬鹿げた挨拶が闘争の場に投げかけられる。
乱入で漁夫の利を攫うのではなく、過ぎた出歯亀で間抜けな自己紹介を始める異常者。
しかし間に合せの武器ではなく刀という明確な殺傷武具を帯びる以上、花岡もロゴスも迂闊に動くことは出来ない。
頓に訪れた休息の合間、花岡は刺された右肩から広がる痺れを感じ取っていた。
入山してから目にした植物を思い返し、アセビの毒だと推測した。
小さく白い花が連なるように垂れ、草食動物が避けるので春先によく目立つ。
殺虫剤として使われる程度の毒性であり、体内に残るガラス片程度の量なら死に至ることはない。
今は痛み止めとして丁度いいが、これ以上の戦闘続行は愚行であり、花岡の心置きは逃走へと向けられる。
「あー、なんや、戦いどころじゃなくなってもうたか。んなら、俺の提案聞いてもらおか」
長楽は一歩前に進みながら言葉を紡ぐ。
提案と言いながらも左手は柄の上に添えられている。
剣呑な空気の中、花岡が即座に逃げなかった理由は二つある。
一つ目は今から長楽が宣う台詞を分かっていたからだ。
「兄さんら、そこいらの雑魚とは格が違うな。俺を含めて三人で共闘せえへんか」
共闘。
これは当然の選択肢だ。
多敵を想定した武術は多くあり、古流は源流に近い程周囲に斬りかかる型が顕著に見られる。
戦国期に生まれた東軍流も基本は多敵である。
それでも数の有利というものは圧倒的であり、熟練の術者が組んだ時のシナジーは単純な足し算に留まらない。
最終的な賞金は生存者で分割することになるが、一位を決める殺し合いでないのは参加者にとっても八雲會にとっても大きなリスクヘッジだ。
個人で集団と戦うリスクは絶対回避しなければならない。
長楽を信頼するのは論外だが、少なくともこの瞬間の利害は一致する。
「悪くない提案だな。ただ、そこのモヒカン兄ちゃんが日本語を理解できているとは思えないね」
「は? ホンマか。俺英語苦手やねん」
ロゴスに反応はない。
花岡は英語会話も難なくこなせるが、今ここでコミュニケーションを取ってやる理由はない。
この興行にカーネーション兄弟の兄も参加している可能性が高く、両者が合流すれば部外者の共闘は成立しなくなる。
史上最悪と冠してもいい犯罪者。倫理観を一切共有できない狂人。
その片割れを始末できる絶好の機会を逃すわけにはいかない。
それが二つ目の理由であった。
「そいつはアメリカで有名なシリアルキラーだよ。共闘なんて諦めろ」
「ほーん、で、兄さんはどうすんねん?」
「乗るよ。俺は花岡だ」
日本語で会話する二人が同時にロゴスへと向き直った時、場の均衡は崩れた。
言葉の壁が障害となり会話に参加できなかった不運。
兄弟で開始地点が揃わなかった不運。
初撃で仕留められなかった不運。
不運の飽和。
今だに逃走しないイカレは死ぬしかない。
花岡は靴下のブラックジャックを旋回させ、おもむろに投擲する。
ロゴスがそれを回避する隙を狙い、長楽が地が踏みしめる。
即席のコンビネーションでも息が揃うのは、長楽自身も近しい実力を有しているからだ。
追撃に備えて足元のガラス片を拾う花岡は――、
自分の顔を見ていた。
想定外の事態を感じたコンマ数秒の間に、頬は痩せこけ、眼窩は深く窪み、骨格が浮かんだ蒼白の顔面を晒していた。
低く響く振動のようなノイズが鼓膜を揺らす。
死相を写した長楽のメガネが角度を変えて弓形に歪む目元を露わにする。
屈んでいる花岡と同じ目線で、スキンヘッドのクソ野郎が嗤っていた。
花岡は視線を下げない。
ガラス片を拾うはずの右手が斬り落とされたことは見なくても分かる。
凄まじく速い居合。
柄の長い刀という点も居合の速度を助けているのだろう。
次撃。
振り抜いた刀が翻り、頸部を狙って戻り奔る。
速度を優先しているのか、居合のまま片手操作での水平斬り。
――そりゃあ駄目だ。
耐えられる。
花岡は肘を突き出した左腕で頭部を守りながら突進する。
今は生き残れる可能性など考えずに、眼前の苛立ちを排除することに全神経を注ぐ。
長楽の刀が左腕に到達する。
無駄だ。
押し当てているのは打突部から離れた柄元。
精々スーツの袖を斬って表皮を撫でる程度で止まる。
至近距離で剣技に拘る愚かさが明暗を分けた。
花岡は現実よりも先に長楽を押し倒し、斬り落とされた右手首から覗く前腕橈骨と尺骨で顔面を刺し貫く映像を描いていた。
ノイズが尚も鼓膜を揺らす。
視界の端には棒立ちのロゴスがいる。
嗤っていた。
刹那。
様々な疑問が間欠泉のように吹き出した。
何故、長良は裏切ったのか?
何故、観戦に留めず姿を表したのか?
何故、ロゴスは逃げないのか?
何故、知能犯に位置する男がここまで戦えるのか?
何故、居合の術者が都合よく柄の長い刀を持っていたのか?
何故、片手操作の斬撃ごときで衣服を斬り、腕の筋肉を斬り、骨を斬り、頭部の半ばまで斬り込めるのか?
ずっと鳴り響くノイズは一体何なのか?
分からないことだらけで腹が立つ。
だが、もう考えなくていい。
――俺は死ぬのか。
決定的な感触が頭部の底で音を立てた。
視界はまだ生きている。
鼻から下の胴体を残して、鳥が羽ばたくように視界だけが宙へ飛び立つ。
最後に夜空が見えた。
小さな肉片になった全身に倦怠感が纏わり付く。
普段なら振り払うが、今は受け入れてやってもいい。
もう疲れたんだ。
安らかに眠りたい。
花岡富嶽という富裕層が恐れた都市伝説。
それは過去に陥れてきた者たちに見守られながら、満天の星空の下に佇む山間の廃村にて、静かに幕を閉じたのであった。