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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十六話
192/224

【蒼氓】⑦

   ◆




 厄介な事この上ない、そう愚痴らずにはいられない。

 一対一の対峙かに思えるが、漁夫の利を狙う卑怯者がどこかに隠れている可能性がある。

 技を見られることですら大きなリスクになり得る。

 かといって出し惜しんで殺されては元も子もない。

 戦うことと同じくらい逃げることにも備えていなければ生き残れない状況。


 花岡は周囲の気配を探りつつ、左手で掴む布をポケットから引っ張り出して得物を顕にした。

 黒い布の正体はただの靴下、しかし中に石や砂を詰め込んで棒状にした上で口を縛ってある。

 ブラックジャックと呼ばれる原始的な殴打武器。

 柔軟性による慣性モーメントが発生し体内に衝撃が伝わりやすい一方、外傷を与えることが難しい得物なので用心棒が好んで使う武器である。


「水虫伝染っても恨まねぇでおくれよ」


 武器を手に入れる前の段階。

 身の回りの物を武器として急場をしのぐ課題は互いにクリアできている。

 先手を取られている花岡は自分の有利を考える。

 体格では勝っている。

 ガラスのナイフならば刺突技以外は衣服の繊維が勝り警戒に値しない。

 懐に入り込めば体格差でどうにでもなる。

 結論が出るのと同時に花岡は動いていた。


 流儀に於いて『闇を斬る』という初歩の教えがある。


 真剣同士の戦いというものは恐れとの戦いであり、臆病者同士深く踏み込まずに小手先を斬り合うというのが実戦で散見される実情である。

 然るに何よりも踏み込みを重視する。

 恐怖を克服して彼我の間合いを一尺、八寸、五寸、三寸へと縮め、やがて相手と溶け合う【微塵】の距離へと至る。

 それは盲目の蛮勇ではなく、流派の術理に支えられた前進であった。

 注目すべきは浮き足を払われない為の摺り足の運足ではない。

 のたうつ蛇の如く左右に振られる腰の回転にある。

 緩慢に見えて高速の左右構え転換。

 藪の木立を擦り抜けるようにスルリと至近距離に入り込んだ花岡は、左右転換の最中に左手を振り上げてバックハンドで敵の顎を下方から狙う。

 (しな)る鈍重な靴下は、僅かに引いて躱すモヒカン男の鼻先を掠めて通り抜けた。

 角速度を利用する武器の弱点は操手よりも遅れて到達することにある。躱されることは織り込み済み。

 モヒカン男は空振る打撃を見ている。

 その水面下で高速にうねる胴体を見ていない。

 花岡の構えが左半身から右半身へと切り替わるのを認識する間もなく、脳を揺さぶる右ストレートがモヒカン男の顎下に到達していた。


 肩肉の中で切創を広げるガラス片の痛みを無視し、手の甲で感じる確かな手応えを引き戻しながら花岡は振り上げていたブラックジャックを袈裟で振り下ろす。

 構えは既に左半身へと切り替わっている。

 東軍流、【無明切】。

 捻る体幹操作という入身は相手の距離感を惑わす錯覚となり、瞬時に必殺の間合いへ滑り込む。

 充分な加速で振り下ろされたブラックジャックの衝撃は容易に体内へと浸透し、それが頸部や頭部ならば絶命へと至る。

 花岡の脳内では初戦を乗り切った高揚と同時に、対峙する敵への違和感が浮かんでいた。


 ――知っている。


 顔や腕に刻まれた数々のタトゥー、トレードマークとしてのモヒカンヘアー。

 初対面時から男の事を思い出せない苛立ちが思考の隅にあった。

 それが至近距離で目視することで鮮明になっていく。


 花岡は男の正体に気付くよりも先に、左手で握っていたブラックジャックが予期しない方向へ落ちていくのを見た。

 続いて、宙を舞う自分の小指が写る。

 視線を落とすと、モヒカン男は粗暴な風貌に似合わない構えで立っていた。

 差し出すように伸びた左手の陰でガラスナイフを順手で保持する右手。

 前に出している左足だけがつま先で地面を捕らえている。

 競技空手では見られなくなった『猫足立ち』。

 顔面を狙えずコンビネーションと蹴り技が主体の競技で淘汰された構え。

 それを近代で普通に使用する武器術が存在する。


 クローズ・クォーター・コンバット。

 第二次世界大戦を端に需要が高まった、ウィリアム・フェアバーンのフェアバーンシステムを始祖とするナイフ格闘術である。


 切断力の弱いガラスで如何にして小指を切断せしめたのか。

 その答えは【スネークバイト】と呼ばれる特殊な技にある。

 ナイフを保持したまま手首だけを脱力させ、直線軌道の打撃の最中に遠心力を乗せた予測不能の斬撃を混ぜる。

 素手の格闘技ならば牽制にしかならないが、武器術はそれで充分なのだ。


 スネークバイトに続いて飛んできた右手の虎爪を不格好な後転で回避した花岡はようやく相手の名前を思い出していた。

 ギャングのカリスマ兄弟として有名なロゴス・カーネイションだ。

 堂々とテレビ取材を受けるネジの外れたアウトローだから顔に覚えがある。

 一方的に知っている、それだけの関係だ。

 しかし暴力で有名なのは兄のミュトスであり、弟のロゴスは知能犯としての印象しかない。


 ――強い。


 認めざるを得ない。

 露出する肌を狙ったカウンターを敢行できる精密さはナイフ術がどうこうの話ではない。

 得物の殺傷力に差があるとはいえ、同条件で正面から挑んでも勝てるか怪しい程の遣い手。

 知識としてナイフ術を知ってはいるが、実際の遣い手との対峙は花岡にとっても初の経験である。

 相手に軽度の脳震盪が確認できる今、追撃するべきか逃走するべきか即断しなければならないのに、好奇心が抑えられない。


「井の中の蛙と(いえど)も大海を知らざるべけんや」


 かつて多くの流派を修得し、その返し技で構成される雖井蛙(せいあ)流という流派を興した剣客がいる。

 その中には自身が修めた東軍流も含まれている。

 今の時代の雖井蛙流ならナイフ術も対応できるのだろうか。

 気付けば、花岡は笑っていた。

 楽しい。

 一方的な蹂躙ではなく、真の命のぶつけ合い。

 身体も思考も全てを消費して相手の存在を否定する行為。

 目的を見失う程の愉悦がここには在る。

 身体はどうしようもなく戦いを望み、スーツのジャケットを脱いで構えていた。

 衣服を用いて得物を封じる対ナイフ術の基本に倣い、花岡は再度【微塵】の間合いへと踏み込んでいく。

 ロゴス・カーネイションも引くことなく、敢えて踏み込んで距離感を惑わせる。


 次の瞬間、両者は同時に踏み止まり、弾けるようにバックステップを刻んでいた。


 互いに視線は切らないが、視界の端に捉えているものがある。

 それは人影であった。

 半倒壊の家屋の庭先、入り口の塀に体を預けて佇む誰かがいる。

 第三者の介入。

 今ここで花岡とロゴスのどちらかが勝ったとしても勝者になり得ることはなく、互いの利益を優先した上での停戦であった。


 観戦していた男は驚いた様子で鼻息を吹き、数歩歩いて闇から身を浮かび上がらせた。


「なんや。水挿してしもうたか? ほんま堪忍な」


 スキンヘッドに丸眼鏡。着流し姿の男。

 怪しい関西訛りで場違いな雰囲気を醸し出すその腰には、既に日本刀が差してあった。




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