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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十六話
189/224

【蒼氓】④

   ◆




 冬川亜麗が男の反撃に気付いた瞬間には、既に蹴りが胸の前まで迫っていた。

 歩み足をそのまま真っすぐに振り上げる雑な蹴りだが、足よりも先に届いた土砂が亜麗の行動を制限している。

 地面の土を抉り、掻き上げながらの前蹴り。

 相対的に極めて小さな体躯の者がさらなる低姿勢で有利を見出すという選択肢を考慮しているのだろう。

 武器術の闘争ならば攻撃力という点で老若男女の差が埋まることを知っているが故に、女子供が相手でも居着かない相手。


 亜麗はスリングショットを手放して、逆手で握るダガーナイフを両手で保持して構えた。

 直線軌道の蹴りを半身で躱して、差し出される足を迎え撃つように刺し込む姿勢で待機。

 瞬時、その選択が選ばされたものだと気付く。

 振り上げられるはずの蹴り足が来ない。

 予想よりも遠い場所で着地した音に続き、眼前で翻る巨躯が見えた。

 フェイントの前蹴りを軸足に反転し、タクティカルブーツの靴底で押し込む後ろ回し蹴りへと変化している。

 ナイフを構える相手に躊躇なく向ける靴底は、踏み抜き対策の鉄板が敷かれているのだろう。

 通常であれば防御は有り得ない。質量が違いすぎる。


 ――けど、今の私なら出来る。


 亜麗は確信と共に蹴り足に向かって両腕を伸ばした。

 手の平にブーツの先端が触れると同時にバックステップで後退。

 容赦なく押し込まれる蹴りに対し肘を畳み、肩を回し、胸を逸しながら受け止めつつ徐々に力を込めて押し止める。

 最後に宙空で腰を捻って力を逃し切った時、男の渾身の後ろ回し蹴りは亜麗を持ち上げたまま手応え無く伸び切っているだけだった。


 フリーランと呼ばれる時間感覚が存在する。


 時間とは三次元の変化の度合いを表し、それは量として定義されている。

 人間は地球の自転という自然法則から一日というサイクルを定め、近代文明の中で人々は二十四時間のサーカディアン・リズムに従って日々の生活を送っている。

 しかしながら時間というものは本来、個人の意識の成長によって任意の単位を持っているのだ。

 亜麗のサーカディアン・リズムは人の常よりも大幅に短く、同じ客観時間の一秒でも他人の認識より長い主観時間を有している。

 小動物の如き体内時計、それが彼女の反射神経の正体であった。

 入山して以来、時計に依存しない生活、暗所での探索行動を続けた亜麗は既存の時間同期から外れ、本来の時間感覚(フリーラン)の中にいる。

 それはエンドルフィンで引き起こされるランナーズハイのように、脳神経細胞への情報入力を増やし、周囲をスローモーションのように写していた。


 剣技でいう【続飯付】の応用。

 亜麗は刹那の力加減を要する防御で技を殺し、宙に浮かぶ真綿を蹴ったかのように相手を居着つかせ、その伸び切った足のふくらはぎにナイフを刺し込んでいた。

 更に腱を断ち斬るべく刃先を捻る最中、敵の衣服に触れて材質を確認する。

 最も懸念していた件の防刃繊維は使われていない。

 興行の性質から持ち込み許可が出ないのだろう。

 しかしフィジカル差を考えると、一撃で殺せる手段が亜麗に存在しないことは認めざるを得ない。

 速度という点では後れを取っていないことを確認した亜麗は、更に相手の機動力を削ることを優先していた。


 亜麗の誤算は、敵がこの状況まで想定していたことにある。


 刺し込まれたナイフごと蹴り足が引き戻され、亜麗の身体は抵抗できない宙空で急速な前進を開始する。

 巨躯の男のゴールは『掴む』ことにある。

 一度掴めば技も速さも関係ない。小鳥の羽を毟るような蹂躙を押し付けることができる。

 ナイフに力を込めて手放せない瞬間を狙った引き寄せ。

 詰んでいた。

 指取りや手首を狙う斬撃が間に合ってもフィジカル差で押し込まれマウントから死ぬほど殴られて終わり。

 ましてや男は毒に侵された肩を抉り取れるだけの刃物も既に持っている。

 亜麗は自らの過ちを認める間もないまま、男の間合いへと吸い込まれていた。


 だから、理解が遅れた。

 目の前の出来事が情報の混沌を作り出している。


 亜麗を捕まえようと伸ばされた男の腕は、急に血飛沫を上げて破裂し、弾かれていた。


 やや遅れて響く銃声から、それが精巧に狙われた狙撃であることが分かる。

 横槍に助けられた亜麗はナイフを引き抜いて距離を開けるが、追撃か逃走かを選ぶ前に僅かな検証の時間を消費していた。


 結論として、一巴は銃を手に入れていない。

 手に入れているのであれば手裏剣に頼る必要がないからだ。

 つまり、自分たちよりも先んじて手に入れた誰かが存在する。

 少なくとも素手に頼る目の前の男ではない。

 さらなる第三者が、明らかに亜麗を助ける意図で発砲している。


 ――誰?


 春旗鉄華の援護であると思いたかったが、現実的に考えて彼女が狙撃したとは考え難い。

 答えが出ないまま、相対する両者の均衡が近づく足音で崩れた。

 一巴だ。

 飛び蹴りを耐えてまたこの場に戻ろうとしている。


 巨躯の男は即座に外套を頭部から纏い、茂みの中に飛び込んで逃走を開始していた。

 当然の判断である。

 男からすれば二人の少女を蹴散らす闘争は、女子供を囮にした罠でしかなくなっていた。


 遅れて到着した一巴が、銃声と逃げた男の検証に固まる。


「離れるわよ」


 亜麗が声を上げる。

 それでようやくスナイパーの存在を理解した一巴は、亜麗に続いて闇の中へと紛れて行った。




   ◆




「あのまま続けば負けていたわね。この得物では」


 ナイフに付いた血を小川の水で洗い流しながら亜麗は敗北を認めていた。

 あれから三十分は走っていただろうか。

 山の斜面を僅かに下りながらの逃走だが、今だ高所に位置する地点。

 この先は登るか、下りるかを選択しなければならない。

 陽の当たらない方角へ進み過ぎると、まだ残る積雪や泥濘で足跡が明確になる。


 攻防の顛末には不確定の情報があった。


「おそらく私たちとは別の、正式参加ではない侵入者がいると思うっす。AK持っていったのもソイツかもしれないっすね」


 響いた銃声がAK47のものではないことを一巴は知っていた。

 山岳戦において究極の有利を持つ狙撃銃。

 知る限り八雲會側ですら用意していなかった反則武器を事前に持ち込める立場の者が紛れている。


「味方かしら?」

「現時点では敵と思っといといたほうがいいっすね。モヒカン男の腕に当たったのはただの偶然かもしれないっすから」

「なら下るしかないわけね」

「そうなるっす」


 登れば最強武器を持つ謎の侵入者と遭遇することになる。

 白旗を掲げて登る程お人好しにはなれない。

 眼下には山の斜面が月明かりで朧気な輪郭を浮かべている。

 このどこかに鉄華と泥蓮、そして義父がいることは間違いない。

 一巴は逃走の最中も握り締めていた水筒サイズの金属円筒を思い出して、再びボディバッグの中に押し込んだ。

 黒い円筒の表面には『剤ろく』と白い字で書かれている。


「一巴さん、刀が欲しいわ」

「そんなほいほいと便利道具出せるネコ型ロボじゃないっすよ」

「さっさと在り処を思い出しなさい。次は負けないから」


 気炎を吐く亜麗を眺める一巴は一考する。

 亜麗の強さを侮りすぎていた。

 少なくともあの巨人を相手に接近戦で渡り合う手段は一巴に存在しないからだ。

 一太刀浴びせた上、無傷で生還した亜麗。

 或いは自分よりも上なのだと再認識せざるを得ない。

 庇護側であるというお節介な思い込みが恥ずかしくなる。


「んーじゃ、いっちょ戦場に踏み込みますか。亜麗ちゃん、背中は任せるっすよ」

「言うまでもないわ」


 当然と言うかわりに髪をかき上げ、自信に満ちた表情を向ける亜麗。

 そんな彼女を支えているのは一途な想いである。

 頼もしく思える反面、鉄華への僅かな嫉妬でチクリと胸が痛む一巴であった。




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