【蒼氓】①
神が存在しないのならば、この世界に意味など無い。
人間はただ食って寝ていつか死んで、宇宙が滅びるまでの束の間、辺境の星で小さな明かりを灯すだけの存在でしかない。
どんな才能も、財も、地位も、全ては有限の時の中で朽ちて、やがて消えていく。
ただ消える。死の向こう側には何もない。
論理的に考えて魂などなく、天国も地獄もない。
小さな羽虫と人間とで命の価値を比べても行き着く先に然程違いはないのだ。
そう思いながらも佐久間現果は手の平を合わせ、神に祈らずにはいられなかった。
辿り着いたと言うには程遠い。
だが連綿と続く佐久間象山の意思を、自分の代で大きな流れに乗せることが出来た。
平坦な道程ではなかったが、意思を持って歩き、事を成した。
後は自分が居なくなっても物語を紡いでいく者たちが現れるであろう。
惜しむらくは、その物語の終着点を知るには人間の寿命が短すぎることである。
それでいい、と現果は思う。
永遠に残るものは功績だけだ。
世界の仕組みを解明する公式。
本能に訴えかけて感情を揺さぶる芸術作品。
それは消えることなく語り継がれていく。
たった一人の人間でも届き得る歴史の爪痕も然り。
蒼氓の人生を横殴りにする歴史の裏側。
畏怖、嫌悪、恐怖、憤怒、そして羨望。
文字として映像として後世の者がこの思いに触れる時、そこには確かに自分が生きているのだ。
もう思い残すことはない。
近い将来に命を落とすことも理解しているが、八雲會という流れは死なない。
だからこそ、それでいい。
現果は感謝の祈りを終え、時計に視線を移す。
短針長針秒針が頂点で重なる十秒前。
普段は部屋に時計など置かない現果だが、この瞬間の為に取り寄せていた一品。
高度差による重力の変化、相対性理論による時間のずれを計算して正確な時刻を届ける衛星電波時計は、今歴史に刻む始まりの一日を開始した。
現果は昂ぶる感情を押し殺し、マイクに向かって乾いた唇を動かした。
「時間です。始めなさい」
■■■
冬川亜麗は目蓋に感じた異変で眠りから覚醒した。
隠れ家の闇は夜半ともなればいくら瞳孔が広がろうとも暗順応できない濃度である。
それが今は戸口から差し込む光で日中の様相を呈している。
朧気な思考の中で時間間隔を失う程深く寝入っていた可能性を否定し、それからもう一つの違和感に気付いた。
隣で寝ていた木南一巴が居ない。
まだ残る寝具の温もりを確かめた亜麗は食料を詰めた鞄を掴み、念の為片目を瞑ったまま隠れ家の出入り口へと向かった。
外に出ると空には二対の太陽が光り輝いている。
煙の尾を引きゆっくりと落下していく光源は、廃村のみならず山の裾まで隈なく照らしていた。
照明弾。
あれから一週間山に潜んでいたが、初めて起きた異変。
八雲會が侵入者に気付いて捜索に乗り出した可能性は充分にある。
潜伏場所の移動の為に音を殺して踏み出した亜麗は、戸口の横に座っていた一巴を発見して足を止めた。
そして置かれた状況を考える。
一巴が逃走しない時点でこの場の安全は保証されている。
「何なの」
思考の時間が惜しく思えた亜麗は率直に質問した。
「うーん、多分これが開始の合図なんじゃないっすかね」
「……そう」
開始。
興行の正確な開始時間までは知らなかった亜麗と一巴だが、突如として訪れる瞬間を受け入れる準備はできていた。
参加闘技者は総面積十キロ平方メートルのバトルフィールドのどこかに予め配置される。
亜麗たちの隠れ家はフィールドのギリギリ外側。しかも就寝前には周囲の安全を確保し、近づく者がいれば事前に気付けるトラップもある。
それでも僅かに緊張感を覚えていた。
今この瞬間から、侵入すれば闘技者として扱われ、即座に殺し合いが始まる境界線がある。
死ぬかもしれない、どころではなく死ぬ可能性は大いにある。
誰もが自分の人生を主役として生きているが、死はそんな想いを考慮してくれない。
突然で、あっけなく、足跡も意味も全て奪い去っていく。
亜麗は弱気な自分を鼓舞する為、迷彩服のポケットから一枚のネクタイを取り出した。
刃心女子高の校章の刻まれた、鉄華の私物である。
それを顔に近づけ、臭いを鼻腔で感じ取る。
大分薄まってはいるがまだ鉄華の残り香が確かにあり、瞳を閉じれば彼女を身近に感じることができる。
――死? 死など誰にでも訪れる。
誰にでも死と向き合い、受け入れる瞬間はあるのだ。
早いか遅いかなど些細な問題だ。
鉄華を喪失することに比べればどうということはない。
「どうということはないわ」
言葉にすると更に意志が補強されていく。
誰かの為に生きるということがこれ程にも力を持っている。
昔日の亜麗には全く理解できなかった感情だが、今は違う。
「あまり言いたくないんすけど、それ、控えめに言ってドン引きのルーティンっすよ」
「うるさいわね」
冷ややかな視線で感傷を台無しにされた亜麗はネクタイをしまう傍ら、就寝時も身につけていたナイフを取り出して逆手に握った。
「私はいつでもいいわよ」
「んーじゃ、予定通りツーマンセルで武器集めしますか」
フィールド内には原始的な近接武器から銃器に至るまで複数の武器が隠されている。
サバイバルと銘打たれているが、実際のところ近代兵器の所持が勝敗を分けるのは明白。
一巴の調査である程度の隠し場所は把握できているが、ご丁寧にもセンサーで監視されているので事前に取得することはできなかった。
まずは武器の回収。それから鉄華の捜索。
参加者ではないからこそ可能な有利が心に余裕を作る。
山肌を覆う照明弾の光が闇の中へ溶け込んだのを確認した後、亜麗は閉じていた片目を開いた。
かつては海賊が眼帯を使って行っていた暗順応。
草葉の枚数まで数えられる視覚を確保した亜麗は、一巴に続いて生死を分かつフェンスの向こう側へと歩を進めて行った。




