【亡国】⑦
■■■
『問題は資金の出処。それに尽きる』
元警視監、現在は内閣情報調査情報官を務める男、御島人志は電話口の声を聞きながら、グラスに乗せたスプーンの上で蒼く燃える角砂糖を見つめていた。
電話の向こう側の男は元国家公安委員、現在は国家安全保障局参事官である野茂田一郎。
共に僅かな期間と覚えのない功績で国防の中枢へと踏み込んでいたが、手放しには喜べない。
御島の脳裏に能登原絵梨子の言葉が蘇る。
――もし計画の最中に由々桐という男が現れたら即座に消しなさい。
昇進した御島も野茂田も、この度秘密裏に新設された諜報機関【中央情報研究所】には関わることすら許されていない。
省庁局のいずれでもなく国家にのみ属する第四の権力、Research and Analysis Institute。通称【レジスト】。
その所長の一人として挙げられるのが由々桐群造という男である。
経歴はおろか、能力や顔写真ですら不明の人物を抜擢した表向きの理由はこうだ。
日本版CIAである内調、日本版NSAである国家安全保障局は、所詮官僚で構成される警察庁と防衛省の枠組みでしかなく、海外の諜報機関のように互いに監視する役目を果たしていない。
【レジスト】は超法的解決を目的としたシンプルなシビリアンコントロール下に置かれ、他国家シギント共有協定である『ファイブアイズ』、その専用ネットワークである『エシュロン』へ日本が参加する為にも不可欠な独立諜報機関である。
しかし、これでは最も不明な点が説明できていない。
「恐らく、M資金は囮だったな」
御島は呻くように声を上げてから、焦げ始めた角砂糖にミネラルウォーターをかけ、グラスの中で薄緑の液体が白濁していくのを暫し観察してから一口で飲み干す。
口内の甘さと苦味で苛立たしさが中和されていくように思えた。
御島と野茂田は能登原の言う通りにM資金の流れを抑え、受け取った人物を脅す形で昇進しただけである。
だがその実情は精々数千億。新たな諜報機関を立ち上げるには程遠い額であった。
裏側で能登原の本命とも言える莫大な資金が動いていたことに気付けなかった事が立場の明暗を分けたのだ。
特別高等班の解散以後、行方の知れない山雀州平もレジスト側にいるのだろう。
由々桐とは何者なのか? 資金源は何なのか?
本来彼の椅子に座るはずだった男たちは、周回遅れを認識しながらも失脚を画策すること止められずにいた。
『レジストの台頭を妨害したい中国と韓国に情報を流したが、まぁあまり乗り気ではない。彼らは国内情勢の方が急務だろうしな』
「……なら、いっそのことアメリカを焚き付ければどうだ?」
『簡単に言うな』
呆れたように返答する野茂田であったが、御島の脳内ではアルコールがもたらす楽観視点が見事に噛み合い、天啓とも言える腹案を構築していた。
「今、レジストは国際賭博の案件を追っているという話だ。それこそまたも大きな資金源を抑えることになる。アメリカとしても日本に介入されるのは良い気がしないだろう」
『しかしどうやって対立させる?』
「レジストの資金源は不確かながらも莫大な額であるのは間違いない。必ず世界のどこかに痕跡はある。パーレビの遺産金という情報を流したらどうだ? アメリカどころかイランも黙っていないだろう」
モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー。通称パーレビ国王。
かつてのイラン皇帝であり、資本主義陣営の協力で近代化を進めていたが失敗し、アメリカに亡命した石油王。
後のイランアメリカ大使館人質事件へと繋がった裏には彼が海外に持ち出した莫大な資産にあり、後の亡命先であるパナマで消失したとも言われている。
「アメリカに必要なのは利益と大義名分だけだよ。でっち上げた証拠と分かってても乗ってくるかもしれない」
『利益をもたらした功績でファイブアイズ入りか。面白そうだ』
独立した秘密の機関を切り離して生け贄にすることは容易い。
いざという時に国を巻き込まずに解散させる安全措置を自ら用意しているようなものだ。
惜しむらくは由々桐という謎の男。
いつからか能登原を操り、乗っ取って国家の中枢にまで上り詰めた手腕と度胸は詐欺師の範疇を超えている
CIAとイラン情報省の争いに巻き込まれたら確実に落命するだろうが、或いは同じテーブルで語り合う機会があれば尊敬に値する人物と認識していたかもしれない。
そんな物語を夢想しては笑みを浮かべ、グラスに新たな一杯を注ぐ御島であった。
□□□
始まりは、夜間の寺社や道場の隅を借りて行われる小さな興行であった。
個人の参加費に加え、佐久間象山が攘夷派から掻き集めた僅かばかりの資金を賞金とした剣技の比べ合い。
防具と木刀での安全を考慮した立ち会いが、いつしか流派の威信を賭けた殺し合いに変わるまでに然程時間はかからなかった。
やがて興行は象山の目論見通り、流派を超えた集合知へと昇華する。
因習に囚われず最も強い武器、技へと議論が進み、戦いに際して銃器が解禁されるに至る。
それが八雲會と象山の命運を決めることになった。
外夷に抵抗する為に剣を取り立ち上がる。
外夷を排除するために一旦は開国して海外の力を取り入れる。
同じ攘夷論の中で分裂していく思想の行き違いがあり、開国を受け入れる象山は倒幕を掲げた尊皇攘夷派と対立していくことになった。
そしてペリー来航から十一年後の一八六四年、京にて佐久間象山は暗殺される。
メインの出資者を失った八雲會も『亡国の遊び』と称され消滅することになった。
当時八雲會に所属していた士族の何人かは、後の明治期に見世物としての撃剣興行へ参加することになるが、撃剣興行自体も乱立する団体によって質が低下し廃れていくことになる。
あまりにも潰しが利かない愚直な剣客だけが時代に取り残され、やがて自らが消えるのを待つのみになった。
――はずだった。
かつては名を馳せていた流派の師範代だった物乞い。
かつては新撰組に所属していたと豪語する傘売り。
かつては藩の指南役として自流を広めていたと懐かしむ農民。
ある日忽然として、彼らの行方が掴めなくなる。そんな事件が相次いだ。
同時期、撃剣興行に参加する剣客たちの間である噂が囁かれ始めた。
撃剣興行というものはあくまで見世物。対戦に際しては木剣を用いる安全な試合である。
しかし参加している者は流派を名乗り、流派の威信をかけて戦いに臨む。
そうするとしばしば勝敗判定で争いが起こることがあった。
「今の打ち込みは浅く、真剣ならば勝敗には繋がらない」
「片手を打たれたが、当流にはもう片手で致死の反撃を行う技がある」
負けた方が試合後に詰め寄り、そんな事を言う。
言われた方は「ならやってみろ」と返す。
不毛な言い合いの果てに両者が真剣を抜く。
そんなよくある光景にふらりと表れる老人の噂話だ。
老人は長く伸びた顎髭を撫でながら、決まってこう言うのだ。
「やぁ、その勝負この佐久間が預かろうじゃないか。廃刀令無視してた薩摩じゃ六千人死んだ。お天道様が出ている間はやめとけ。それでもと言うなら場所は俺が用意してやる。勝った方には賞金百円やるよ」