【亡国】④
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『結論から言えば外交声明は発令できない』
受話器の向こう側で陸軍大将アイザック・カーペンターが力強く答えた。
野心家に相応しい自信と威圧と蔑みが同居した演説に、ライオネル・クーパーは辟易としていた。
『考えてみたまえ。日本は同盟国で、相手は表向き合法ビジネスを斡旋しているだけだ。口座凍結させる確たる証拠が我々には無い』
「結構。なら、俺の仕事はここまでですね」
ライオネルはアイザックの詭弁を受け流して依頼の達成を宣言する。
話が大きくなり過ぎているのだ。
テロリストを保護した組織と主要人物が明らかなのに手出しできない。
考えるまでもなく両国政府の要人が絡んでいる。
秘密裏に雇った民間人がギャングから得た情報、そんな不確かな事実で政府は動かない。
予想通りの返答であった。
あとは金銭報酬を拒否し犯歴を消すことを約束させて、この一件は終了。以後互いに関わる必要は無いだろう。
しかし、ライオネルの意図は続く言葉で打ち消されることになった。
『君も中途半端なまま終わるのは悔しいだろう? 心配ないぞ。至急、日本へ飛んでもらうよう手配したところだ』
「……」
そうきたか、とライオネルは憤りで口を噤んだ。
『コールサイン”JANET”。軍用のプライベートジェットで今から十時間後にはサムライの国だ。パスポートもビザも必要ない。我々は百年後も千年後も勝戦国のままだからな』
「……お言葉ですが、俺は日本の地理に疎く、日本語すら話せませんよ。明らかに人選を誤っています」
『必要なのは君の戦闘力だけだよ、レニー』
アイザックの言葉は、あろうことか、悪趣味な殺し合い興行の出場者としてライオネルを登録した事を意味する。
殺人が合法的に処理される舞台なのは都合がいい。
問題は、敵が一人ではなくなるということ。任務を放棄した際、逃亡の難易度が上がるということ。
リスクの追加で首輪を付ける気でいるのだろう。
だが、これほどまで事を急ぐアイザックの態度も釈然としない。
次期国防長官を狙う彼としても今スキャンダルに巻き込まれるわけにはいかないはずだ。
カーネーション兄弟の頭脳を排除したという手土産だけで充分なのに、まだ必死に深追いする理由がどこかに必ずある。
或いは、八雲會という存在に彼の弱みがあるのかもしれない。
「……分かりました。但し、報酬の追加と現地の協力者を要求します」
『もちろんだ。君のリスクは私のリスクでもある。このオフィスで出来ることなら何でも言ってくれ』
「お心遣いありがとうございます」
ライオネルは謝辞を述べながら心で誓う。
――必ずお前を失墜させてやる。
かつては同じ戦場を駆け抜けた上官だが、もはや明確に敵であると認識していた。
権力に取り憑かれた哀れな似非平和主義者。保身が全ての愚物。
神域に至る過程でも必要のない人格だ。
気が付けば、遠巻きに聞こえていたヘリのローター音が窓枠を震わせている。
広い庭が気に入って購入した物件だが、こんな無遠慮な使われ方をしたのは初めてだ。
『そろそろ迎えが着いた頃だろう。お出かけの準備は五分以内で頼むよ、お嬢様』
「二分で充分ですよ」
受話器を置いたライオネルは深く溜め息をつき、着慣れたフライトジャケットと逃亡の為に用意していたトランクを掴んで玄関へと向かった。
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無謀に無謀を重ねた特攻。
それでもここまでは上出来だと、冬川亜麗は自分に言い聞かせていた。
夜半の山中。
滴る夜露が顔で飛沫を上げる。
深く寝入らないように陣取った就寝場所だが、水滴が頭蓋を穿つ程の永遠を感じている。
冷え込みも尋常ではない。
寝袋の上に枯れ葉を積み上げても消えない寒気に身を震わせていた。
この場に居ることを悟られるわけにもいかず、焚き木もままならない。
蒸す暑さや虫と格闘するよりはマシだが、このまま戦闘になった場合普段のポテンシャルを出せるか一抹の不安を抱いていた。
長波遠地の遺した情報を辿り、末端の会員を脅迫して開催場所を特定したまではいい。
だが興行の参加資格を得るまでには至らず、事前に現地入りするという強硬策を敢行するしかなかった。
現地地形の把握、ルール無視の物資持ち込みという点で実際の参加者よりはアドバンテージがある。
しかし亜麗自身には森林サバイバルの経験が無い。
固形の携帯食はまだ余裕があるが、飲料水の枯渇が目前である。
浄水剤を使うにしても目立つ河川を水源として確保するのは、徘徊する八雲會関係者の眼に付く。
夜露を集める飛沫の音ですら注意しなければならない。
犬歯を舐めて唾液を分泌させながら亜麗は泣きそうになっていた。
――なんでこんなことをしているのだろう。
精神的な衰弱を認識しているが、飢えと夜の孤独が弱気な思考を加速させていく。
もし根底的な勘違いをしていて鉄華が八雲會に関わっていなければ、笑い話では済まない結果しか残らない。
彼女に逢うことすらできず、疲弊したまま巻き込まれた戦闘で敗北して死ぬか、誰にも見つからないまま餓死するか。
最悪の状況ばかりが脳裏をよぎる。
鼻腔に溜まる体液が不随意運動を刺激し、ついには小さなクシャミが飛び出した。
口を押さえ、充分に音を殺した呼気の爆発。
亜麗は血の気が引いていくのを感じていた。
音というのは思うより遠くまで届く。
常温で秒速三百四十メートル。
森林の静謐の中なら訓練されていない一般人でも僅かな音を捉えることは容易である。
木立の揺れる音に混じろうとも人の出す異音は目立つのだ。
八雲會関係者を避けて潜入できたのは音に頼ることを気付けたからである。
それがここにきて自らが発するミスになることを失念していた。
亜麗は寝袋から脱出し、周囲から人の気配を探る。
手には二対のナイフ。
発見されれば早々に始末しなければならない。
何の恨みもない相手に対する殺傷行為。
覚悟は決めていたはずなのに、手元は震えている。
寒さから来るものなのか、弱気な心がそうさせるのか分からない。
遠くから聞こえてくる枯れ葉を踏む音が、ただの幻聴なのかすら判断できない。
――駄目だ。戦いにすらならない。
ようやく自身の衰弱を受け入れた亜麗は荷物を詰め込んだリュックを静かに背負い、密集する草葉の中へと後退し始めた。
その瞬間、
「あれ? 誰かと思えば亜麗ちゃんじゃないっすか。こんなとこで何してんすか?」
聞き覚えのある声がした。
亜麗はまたも幻聴を疑ったが、音源を辿り見上げた木立の上には、確かに見知った少女が立っていたのだった。




