【瑕疵】⑧
◆
ヒューイは咄嗟にポケットに手を入れて、裏返すように中身の小銭や鍵束を中空へばら撒いた。
同時に、チケットは前方に差し出す左手を下方向へ振り払う。
その動作が単に礫を払い落とす目的でないことをヒューイは知識として知っていた。
振り払う左手が身体の下を回り込み、上体を旋回させ、追随するように身体の後方で引き絞っていた右腕が解放される。
まるで野球のピッチングのように、上回りの白刃が降り注いできた。
【劈手】と呼ばれる遠心力の打撃。
防除と攻撃が同居しているのだ。
東洋武術の型や套路と呼ばれる基本動作は、限定されたシチュエーションへの対応に終止した決まり事に過ぎない。
だが、基本を修めて実戦の中で柔軟な解釈を披露する一握りの本物が存在することも知っている。
ヒューイはチケットの振り下ろしの隙を狙うでもなく、後退することで距離を開ける。
マズい、と思ったがそれ以外選択肢が無い。
後方に何があるのか分からない上、そろそろ壁際へと追い詰められる。
しかし、劈手が始まりに過ぎないことを知っている故に、クラヴマガの防除に頼る博打は打てなかった。
――そう、始まりに過ぎない。
振り下ろされた右腕がチケットの腹部で小さく畳まれ、素早くバックブローへと変わる。
そして引き戻されたバックブローの代わりに左手の突きが伸びてくる。
この間、チケットの移動距離は後ろ足を前に伸ばした一歩分であった。
一歩三拳。
万象が高速で翻る。
翻子拳が八閃翻との別名を持つ所以は、雨のように降る拳撃で反撃の余地を与えないこの技術体系にある。
本来なら恐れる程のものではない。
高速の連携と聞こえは良いが、殆どの打撃は手打ちになり決定打に欠けるからだ。
近代スポーツの進化の中で、拳撃の極地がボクシングにあることは疑いようがない結論であり、武術は歴史文化的な側面を持つ故に変化し得ないジレンマも抱えている。
だが、本当の意味での武術性、殺し合いの実戦を問うならば、近代ではなく古代が最新である。
武器術としての翻子拳と相対したヒューイは更にもう一段階覚悟を決める必要があった。
手に刃を帯びれば僅かな力でも致死性の攻撃力を宿し、防除動作すら攻撃に成り得る。
もはや一歩三拳どころではない一歩六剣。
しかも、型動作というものが思った以上に厄介だ。防除と攻撃を織り交ぜた連携は相手の回避動作を限定させる作用がある。
こちらも素手の防除や体重差で押し潰す反撃を敢行するにしても『必ず斬られる』覚悟をしなければならない。
当たり所が悪く動脈を斬られたら終わり。刃に致死毒が塗られていても終わり。
殺せても、同時に殺される可能性が高い。
素手側の不利を犠牲無しに覆すことは叶わないが、一方的に殺されるくらいならば相打ちを狙う。
その覚悟。
相手に同じ覚悟がなければそこに勝機がある。
チケットの二歩目が始まる。
右の短刀を斜に掲げて持ち上げる防除から、左の突き。
短刀を手放した右手が虎爪で眼球を狙い、間髪容れず鳩尾に左の突き。
バックステップを刻んで紙一重の回避をしていたヒューイは、背中に訪れた衝撃で壁際まで追い詰められたことを悟る。
そして目の前には分かりやすい誘い、手放した短刀が浮かんでいる。
二刀流の手数が半減する瞬間。
チケットが短刀を掴み直すまでの猶予は反撃に適した絶好の機会であった。
ヒューイは動かない。
チケットの行動にミスは無いと判断していた。
差し出されたチャンスではなく、自ら掴み取った瞬間しか信用していない。
案の定、チケットは誘いである短刀を掴み直すことなく、右足を残したまま半歩引いて低く構え直していた。
無手のはずの左手にはスカートの裾から取り出した新たな一本が握られている。
当然の如く反撃が来るものだとして連撃を中断したチケットの眼が驚きと喜びで見開かれている。
とは言えヒューイに手立てがないのも事実。
再開する連撃を壁際で回避し続けることは不可能であり、向けられる視線は変え難い未来の決着を写していた。
それでもヒューイは待っている。
蒔いた種が発芽するまでの不確定な猶予時間、いくらか斬りつけられる覚悟を溜め息交じりに済ませた。
――瞬間。
両者の時間が止まった。
突如として室内に雨が降り注いだからだ。
舞い散るスプリンクラーの水飛沫は室内に隈無く着地し、大理石の床面は滑り抵抗を下げていく。
先に動いたのはヒューイの方であった。
蒔いた種の発芽。
階下の火災検知器近くでティッシュ箱の在庫に火を付けて備えていたヒューイは、予想の差分で先手を取る。
眼下に伸びるチケットの右足に向けて関節蹴りを放つ。
当たれば必ず折れる踏みつけに近い角度。
咄嗟に足を引き戻して回避したチケットは、ようやくヒューイの目的に気付いた。
彼女は本来、濡れた大理石程度なら難無くバランスを維持できる体幹を持っている。
だが今は違う。
上体を起こす動作の途中でハイヒールの接地が揺らぎ、転倒して膝を付いていた。
チケットは自分たちの足元だけ明らかに抵抗値が低いことに気付き、その正体がローションであることを発見する。
ヒューイが放った小銭の礫。
あの時、同時に粉末タイプのローションがばら撒かれていたのだ。
ハイヒールと耐滑性の高い軍用ブーツの差。
ヒューイは描いた予想の結末で、懐中から取り出したもう一つのハンドガンの照準を合わせる。
外しようがない距離。
勝負の幕引きであるトリガーに力を込めてから――即座に手放した。
有り得ない現実が訪れた時、受け入れて思考を修正するまで僅かな心の隙が生まれる。
ヒューイは標準を向けたと同時に銃口に突き刺さる何かを確認していた。
投げナイフ。或いは中国武術でいう鏢のようなもの。
調べる時間は無かったが、寸分違わず銃口を狙える精度の投擲が行われていた。
銃自体はロドニーのボディーガードから拝借したもので、バレルの強度は定かでない上に、使われている弾丸、火薬の量が市販の物であるか分からない。
考察する猶予は無いが、一射目の威力が殺されるのは確実だ。膨らんだバレルが破裂して自分が負傷するかもしれない。
ヒューイはこの部屋での決着を諦めて、出入り口への逃走へと心置きを変えていた。
そこにチケットの二投目が迫る。
続けざまに眼前に迫る二つの影は彼女の履いていたハイヒール。
鏢のような速度も殺傷力もない投擲は、あくまで自らの接地を安定させるための選択だろう。
投擲を意に介さず踵を返して走り出したヒューイは、一歩目の着地を待たず宙に浮かんでいた。
足元にはヒューイの影の中に潜むようにして身を屈めているチケットがいる。
沈身からの肩口を用いた体当たり。
それが太極拳の【七寸靠】という技であることをヒューイは知らないが、身を屈めたまま足音もなく距離を詰めてきた原理は理解できていた。
撒かれた潤滑剤を逆手に取り、文字通り滑って間合いを詰めたのだ。
巧みにバランスを維持して立ち上がるチケットの両手には、また例の短刀が握られている。
ヒューイにとって耐え難い事実がそこにはあった。
徐々に明らかになる圧倒的技量の差。
何度も予想を覆されるのは、チケットは殺し合いに際して、多くを出し惜しみ秘匿していることに起因する。
要は手加減しているのだ。
それが愉しいから。
屋内に居た五十人近い人間を殺して回ったのも、それが愉しくて愉しくて仕方がないからだ。
彼女にとってのゲーム、娯楽が殺人行為なのだ。
――こいつを生かしてはおけない。
足元を掬われ無様に錐揉みしながら床に叩きつけられたヒューイは、喉元に迫る白刃を――敢えて受け入れた。
中空からの突き。
銃を拾う暇があるはずなのに、白兵戦に拘るゲーム。
ヒューイは喉元に冷たい異物が刺し込まれる恐怖に耐えながら、遊びで最後の一手を間違えたチケットを嘲笑う。
短刀の突きを繰り出すチケットの左手首と肘をロックし、床に引き込む。
同時に跳ね上がる両足が彼女の頸部を捉えて、殺意を込めた三角絞めへと移行していた。
――お前も一緒に死ね。
声の代わりに血の泡が口から溢れた。
先に絶命しても死後硬直で絞め続ける。その強固な意志が身体を動かし、人生最大の余力を引き出している。
チケットの頸部に絡む大腿部が最後の僅かな空間を狭める、その瞬間――
ヒューイは見た。
ひどくゆっくりと流れる時間の中、予想も考察も吹き飛んだ真白な思考でその現象を見ているしかなかった。
固定された左腕の影。
背中周りに伸ばされたチケットの右手が、関節の可動域を無視してヒューイの喉元まで届いていた。
その右手から伸びる白刃は、顎下の軟肉を貫き、舌下から飛び出て上顎を突き刺し、鼻の裏側を通って脳の視床下部を侵している。
ルーズジョイント。
異常な関節可動域と柔軟性を持つ超人は存在する。
人体構造学と力学の応用である関節技は、あくまで普通の人間に対する攻撃手段に過ぎない。
矮小な経験則で予想を構築し、その実、人ならざる者と相対していたという事実に、ヒューイの脳裏に悔しさが込み上げる。
涙は流れない。
か細く華奢な体躯に絶望の殺人技術を詰め込んだ女。
その隘路たる彼女の人生を想起し畏敬の念すら感じ始めた時、ヒューイの思考は暗いノイズに覆われていく。
護衛者としての生き方を選ぶしかなかった一人の男は、この晩に起きた大量殺人の一被害者として生涯を閉じた。