【瑕疵】⑦
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「あら? 仕事熱心ね。見逃してあげようと思ってたのに」
魔女が嗤う。
顔貌は陰に覆われて定かでないが、口元に浮かぶ半月が女の異様を讃えていた。
純白だった彼女のワンピースは赤色に染まりきっている。両手にそれぞれ握る短刀も粘着く赤色を絡めている。
室内にある円形のプールも赤色に染まり、哀れな被害者の尻が滑稽に浮かんでいた。
もはや血臭、血煙などというレベルではない。
血溜まりに落とされたかのような匂いの濃度は、舌の上でも感じ取れる『味』と化している。
ヒューイは眼前で展開される地獄の光景に適応できていた。
六階のVIPルームに来るまでに慣れるだけの猶予があったからだ。
死体。
寸分違わず喉を突かれ首を斬られた死体の山。
男女の別け隔てなく、貧富の差もなく、平等に訪れた死の暴力。
その締め括りとして、雇い主であるロドニー・フラナガンの生首がガラス製のサイドボード上から血を滴らせている。
「誰に雇われた?」
口を衝いて出たのは無意味な質問だった。
ロドニーはアイルランド系マフィアの幹部、ロイ・フラナガンの息子だ。
父親の政界進出には内外から批判の声も多く、誰にでも命を狙われる可能性はあるのだ。
ヒューイは恐怖を感じていた。
単独の殺し屋。
そんなものはフィクションの中にしか存在しないピカレスクロマンかアンチヒーローの領分である。
しかし否応なく突き付けられる地獄の光景を観察し続けた結果、導き出された解は一つしかない。
本来なら出会い頭に発砲するべきだったが、機先を制して放たれた女の言葉に応える以外の行動が出来なかった。
――まだ、適応が足りない。
後れを取っていることを理解し、恐怖心を好奇心へ変換しながらヒューイは万全の体勢を整えていく。
「はいはい雇い主ねぇ。悪いけど多過ぎて覚えきれてないの。確実に言えるのは、このボンボンの父親がその一人にいるということね」
なるほど、とヒューイは思いも寄らず納得させられることになった。
政界進出の障害を悲劇のストーリーに変えることで追い風とする。このクズの父親はそこまでやるのだ。
殺し屋の女はこれ幸いとばかりに、恨みを募らせているであろう政敵や敵対組織に営業を掛けて報酬を増やした。
それだけのことだ。
巻き込まれて殺されたかに見える無関係の一般人の中にもターゲットは居たのかもしれない。
類は友を呼ぶ。
あらゆる欲望を詰め込んだパーティーの帰結としては相応しい惨状と言える。
「無関係の給仕や売春婦まで追い回して殺したのは何か意味があるのか?」
この義憤は言葉にするべきではなかった。
しかしそうせずにはいられない。
相手の良心に期待する意味ではなく、眼前の女を殺す最後のトリガーが声になっただけだ。
「そうね。敢えて言うなら実験かしら」
「実験だと」
「騒ぎになる前に殺し切れるかどうか試したくなったの。ちょっと疲れちゃったけどやればでき」
チケットと名乗る殺し屋の言葉を銃声が遮った。
弾丸は標的を大きく逸れて着弾し、発砲したヒューイは僅かに身を反らして後退。その背後の壁には、血塗れの短刀が垂直に突き刺さっている。
投げられた短刀の回避を優先し、射線がずれて体勢を崩した。それが戦いの初撃であった。
外見で油断を誘い不意打ちによって制圧する、チケットはそんな程度の工夫で敵地に乗り込んでくるような素人ではない。
自信を裏付ける実力があって、その上で何でもやる。それが殺し合いのレギュレーションだ。
更に後退しながらも立て続けに引き金を引いてマズルジャンプによる弾幕を張るヒューイは、唯一絶対の信頼を置く予想を超える事態を目の当たりにしていた。
目の前にはまた短刀の刃先が迫っている。
チケットは残った方の武器ですら投げ捨てる選択をしていることになる。
つまり別の武器があるということだ。
銃器が向けられる可能性を考えたヒューイは、後転で出入り口から離脱する行動を中断し、真横に飛び込む回避行動へと変える。
しかし対岸から銃声が鳴ることはなかった。
相手の出方を探る僅かな瞬間、視界が捕えたのは中空から垂れ下がる女の髪の毛。
チケットはヒューイと点対称に、天井に着地するほどの高さで逆さまに直立している。
その両手には、新たに抜き放たれた白刃が握られていた。
投擲された短刀に注視した瞬間に予備動作を隠す前方宙返り。
あくまで白兵戦に拘る気だ。
ハンドガンを向ける動作は間に合わないと判断したヒューイは銃を手放し、両手を顔の前に上げて構える。
ボクシングの構えに近いが、掲げた両手は緩く開かれている。
両手には黒い革手袋。防刃を謳う物ではないが扱う術理の補助としては充分である。
ヒューイが構え始めた頃、逆さ吊りのチケットは身を捻るようにして、短刀の横薙ぎを繰り出していた。
狙いは眼。或いは目蓋か額。
視覚を奪うことを優先する一撃。不意打ちで喉を狙う戦い方以外の選択肢を持っている。
彼女が使う技、武術はまだ見えないがヒューイは差し出された手を扱う方法は心得ていた。
下から持ち上げた右手で横薙ぎの軌道を制し、左掌底を相手の手首に叩きつけることで関節技とする。
向けられていた短刀を弾き飛ばしたヒューイは、そのまま両手を盾にした体当たりで中空の敵を床に叩き落とそうとする――が、またも後退するハメになった。
前に差し出していた両手の間には短刀が挟まっていた。
これが本命。
チケットは頭の後ろに回した手からスナップだけで投擲を敢行していた。
ヒューイの扱う技が偶々両手の突き出しであったから白刃取り出来たに過ぎない。
「クラヴマガね。素敵」
前宙から優雅に着地したチケットは賞賛の言葉を吐いた。
足元は相変わらずのハイヒールだが、膝のバネを巧みに使い着地の乱れは一切無かった。
バレエか雑技団か。体幹を崩すコンビネーションはバランス感覚だけで回避される可能性を考慮しなければならない。
しかし状況は互いに無手。
技量の差があっても男女の体重差を覆すことは容易いことではない。
間髪容れず間合いを詰めようとしたヒューイは、三度目の躊躇で運足を中断した。
最初の投擲から四本の短刀を失っているはずの女の手に、新たな二対が握られていたからだ。
手品のように突飛な引き出しで予想を潰され続ける苛立ち。
ヒューイは無意識に舌打ちしていた。
「クソッ、何本持ってるんだ」
「ふふふ、女の子は隠し場所が多いの」
不敵な笑みを浮かべる女の口元が、ゆっくりと地に沈んでいく。構えを形作る。
後ろ足を伸ばす低い姿勢。胸元に置く右手の剣尖は相手の眉間に向け、前に突き出す左手はアッパーカットの途中のように手の甲を向けている。
ヒューイは戦慄していた。
その構えを知っているのだ。
自身の経歴の過程で実戦性が皆無と断じていた中国拳法の中でも、ボクシングの真似事未満としか思っていなかった武術。
それが両手に刃を帯びるだけで、最悪の状況を予想させている。
チケットの取る構えは紛れもなく翻子拳の【旗鼓勢】であった。