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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十四話
175/224

【瑕疵】⑤

   ■■■




 一番古い記憶は両親の死に様。

 父は蜂の巣状になった顔の裏側で脳漿を撒き散らして倒れ、その横で母は犯されながら首を絞められていた。

 鬱血する母の顔貌が幼い娘を見ていた。

 逃げろ、と言っていたように思う。

 その時に叫んでいた母の声を、娘の名前を、女は未だに思い出せないでいる。

 起きたら忘れてしまう夢のよう。

 それが現実の事だったのかすら分からない。


 保護された施設で女は(ジン)という名を付けられたが、後にそれすら捨て去ることになった。




   ◆




 似つかわしくない、と近づいてくる女を観察していたドアボーイの男、ヒューイは思った。

 午後九時を回る社交場。

 それも下品なセックスパーティーに来る類の女ではない。

 元シークレットサービスで大統領警護を務めた経験もあるヒューイは自分の直感を信じて警戒態勢に入っていた。


 白のワンピースに赤のジャケット。切り揃えた前髪、団子状に纏められた後ろ髪、切れ長の目尻には朱色のメイクが乗っている。

 一目で分かる中華系の出で立ちではあるが娼婦の佇まいではない。

 違和感は二点。一つは歩き方だ。

 ハイヒールを履いた女の歩みは重心が前のめりになり、自重を支える為に内股になりがちであるが、この女のそれは普通の靴の歩みと変わらない。

 ヒールが地面を打つ音もほぼ聞こえず、まるで爪先だけで歩く術を身に着けているように思える。

 恐らくバレエ経験がある者だとヒューイは予想した。

 生まれの良さが垣間見える。娼婦に身を貶した人間にしては珍しい教養だ。

 それからもう一点。

 ギプスで固められた右腕が胸の前に吊り下げられている。

 骨折を押してまで来る程の仕事熱心なら感心だが、ヒューイは最も警戒すべき『武器の所持』を感じ取っていた。

 ギプスは銃身を隠すのに丁度良い。


「止まれ」


 ヒューイは躊躇なく銃口を向けて女の進路を塞いだ。

 ボディーアーマーを着用しているとはいえ、至近距離で散弾銃でも撃たれたら助からない。


「え、ちょ、ちょっと何なの!?」


 女は動揺で足が縺れたがなんとか持ち直し、徐々に恐怖を滲ませて後退っている。

 正しい素人の反応だ。

 これが演技なら大したものだが、やってのける人間が存在しないわけではない。


「おいヒューイ! お前どうしたんだ?」

「仕事をしているんだよアンドリュー」


 もう一人のドアボーイであるアンドリューがヒューイを咎める。


「おい、女。ギプスを確認するから動くな」

「はぁ? 私はロドニーに呼ばれて来ただけよ。あんたたちのこと言いつけてやるんだから」

「そのロドニーさんを守るのが仕事なんだ。騒ぐなよ。周りに迷惑だろ」


 銃口を向けたまま女に近づいたヒューイは今一度、女の様子を観察した。

 顔に滲み出る恐怖は段々と怒りに変わってきている。

 相手が所詮雇われ者だと理解し、権力者の寵愛を受けるという後ろ盾が自信へと変化する。

 もしかしたらこの場の非礼が失職に繋がるかもしれない。

 だがヒューイは臆することなく女の右腕に触れて感触を確かめた。


 ――副木。


 石膏やグラスファイバーのギプスとは別に患部を固定する副木が前腕に当てられている。

 骨折の初期段階で用いる治療法だ。

 折れてからまだ日が浅いのかもしれない。


「この腕はどうした?」

「何も知らないのね。これはロドニーの趣味よ」

「趣味?」

「そうよ。他の子達は嫌がるけど治療も全部受け持ってくれるし、なにより報酬が良いの」


 ああそうか、とヒューイは納得した。

 嗜虐性の性嗜好と言うべきか。女に暴力を振るう事で興奮する歪んだ人間は存在する。

 ヒューイは雇い主がそこそこ権力のあるクソ野郎の息子であることは知っていたが、クソは遺伝するのだと理解した。

 ここは上から下まで選りすぐりのゴミクズが集う掃き溜めだ。

 ロドニーも、金の為に殴られる女も、そんなどうしようもない奴らの用心棒をして日銭を稼ぐ自分も。


「ヒューイ、離してやれ。彼女はVIPだ。上に確認くらいするべきだったな」


 相棒のアンドリューが終わりの合図を鳴らした。

 無線で雇い主に確認したらしい。

 職務を通しただけとはいえ、本当に招待客だったのなら銃口を向けたのは責任問題になる。

 折角ありついた仕事なのにまた転職の心配をしなければならない。

 思えばいつもそうだった。臆病すぎるのだ。

 想像力の歯止めが効かず、存在しない敵に怯え先制攻撃を仕掛けてしまう。

 未だ治らない悪癖にヒューイは内心で溜め息をついた。


 勘違いで暴走した挙げ句、職を失う絶望で肩を落とす男に、ギプスの女はすれ違いざま声をかけた。


「残念だったわね。でも、貴方良い感じよ。だから告げ口はしないであげる」


 同情されている。


 ――同情だと?


 ヒューイは女の態度の変化に違和感を覚えた。

 先程まで怯えて怒りを滲ませていた女が、一転同情を向けている。

 一連のやり取りに商売女が憐れむ要素などあっただろうか。

 しかしヒューイにこれ以上女を追求することは出来ない。

 拭えない疑問はあるが、彼女が招待客であることは間違いないからだ。


「あんた名前は?」


 違和感を箱に詰めて片付ける前に、せめてラベルを張っておこうとヒューイは女の名前を確認することにした。


「チゥーピアォ」

「なんだって?」

「车票よ。そうね、英語だと『チケット』かしら」

「……チャイニーズのセンスは最悪だな。もういい、さっさと行け」


 チケットと名乗った女の背が扉の奥の闇に吸い込まれていく。

 僅かな風の出入りと、腹に響く音楽の低音だけを残して、また世界は隔離された。


「ったく、映画の観すぎなんだよお前は。俺は止めたからな。責任はお前一人で取れよ」


 アンドリューの悪態はヒューイに届かなかった。

 また別の疑問が浮かんだからだ。


 女の前腕に添えられた副木。

 骨折治療に使うにしてはやけに厚みがあったように思える。

 日本の剣道で使う木刀に近い。

 もしあれが、刀の柄であったのなら――。


 また考えすぎだと首を振って打ち消したヒューイの妄想は、数分後、思いもよらぬ規模で実現することになった。




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