【瑕疵】②
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「先生」
「くどいぞ彦一」
巨大な木刀が振り下ろされ、軌道に流れ込む空気が風となる。
道場の隅に座る高弟の言葉は師の素振りに僅かな乱れすら落とすことが出来なかった。
「誰にでも隠しておきたいことはある。仏のように清廉潔白な者など存在しない。だからこそ俺は長波先師の邸宅は自然のまま朽ちていくのに委ねることにした。悪いが議論する気はない」
「……」
拒絶。
苦行とも言える振棒の素振りを続けながらも淀みなく続く言葉は、予め用意していたものであることを示している。
戸草は弟子の迷いを予測していた上、拒絶することも決めていた。
世間の評価などどうでもいい。横木打ちに終止し、古武術家として埋没していく人生でも構わない。
磨き上げた技を振るう舞台を求めれば法や倫理を踏破するしかない。
ならば自ら争いに踏み込まず、平和と平穏を選ぶことこそが本来の意味での武術性だ。
師範代、荒川彦一もまた師の選択を予測していた。
予測していたがそれでも消えない炎の残滓が赤熱の灰となり、心の奥底をゆっくりと焼いていく。
昨日現れた少女の言葉、その真偽が不明なまま蓋をしてしまうのは耐えられない。
またいつか篠咲のような者が流派を掻き乱し、邪な陰謀に巻き込まないと言い切れない状況。
目を逸らすのではなく、しっかりと現実を捉えて備えておく必要がある。
荒川はおおよそ容認できる感情ではないと理解しながら、僅かに感じた師への失望と向き合っていた。
手汗が滲む。
圧倒的な巨躯から繰り出される袈裟斬り。
回避も防御も出来ない必殺の一撃だという信仰はもはや崩れている。
赤羽がやってみせたように、術理を研究して居着かせることは可能であり、有名な流派の一芸であるほど対策される。
或いは、撃剣大会の参加者はそれぞれの薬丸自顕流対策を持っていたかもしれない。
かつての幕末の動乱期、『剣術初心者をいち早く武芸者へ育てる』という目的でシンプルな選択肢が重宝されたが、術理が知れ渡った現代、複雑な選択肢を修得している強者へ分かりきった特攻を仕掛けるのは愚直と言うにも程がある。
――進化しなければならない。
荒川は考える。
他流を取り込んで超派の技術を構築し、その上で【掛り】を活かす新しい自顕流。
撃剣大会という死闘がもたらした結果を真摯に受け止めて弱点を塞ぐ努力。
それは戸草仁礼という真っ直ぐな生き方では望めそうにない。
呆れる程の不義理を感じながらも、荒川は静かに揺らいでいた。
長く続く葛藤。
床板の軋む音が増えたことに荒川が気付いたのは、男が声を上げた後だった。
「どうも、こんにちは」
戸草は既に素振りを止めて男に注視している。
戸口から差し込む陽光の角度は正午近くを示していた。
春先に似つかわしくない、初夏のような粘つく熱気が漂い始めている。
男の風体は白いワイシャツに黒のスラックス、七三分けの額に汗を浮かべ目元には台形の眼鏡。
どこにでもいる中年サラリーマンという出で立ちだが、古流剣術の道場では逆に目立つ。
身長は百七十程度の小柄であるものの注視すれば肩幅が異常であることに気付く。
僧帽筋と三角筋の盛り上がりが猫背を形成しているようにすら見える。
一朝一夕の鍛錬ではないのは明らかだが、荒川は一目で無駄な努力だと思えた。
あれではまともに剣が振れない。
現代の筋トレで筋量を増やしただけでは剣術を扱うのに適さないのだ。
「ほら、例の大会観ましたよ。私とても感銘を受けまして、居ても立ってもいられなくって、こうして実際お会いしようと馳せ参じた次第です。はい。」
男は額をハンカチで拭いながら、人当たり良さそうな笑顔で捲し立てる。
営業慣れしたサラリーマンの風格を纏っているが、話す内容から目的は見えてこない。
焦れた戸草は視線を切り、素振りに戻りながらぶっきらぼうに言葉をかけた。
「入門希望か? 何かの営業なら帰ってくれ」
「いえいえ、何と言いますか、年甲斐もなくお恥ずかしい限りですが、道場破りに来ました」
男の言葉に戸草の手が止まる。
荒川は耳を疑っていた。
戸草の不敗神話が崩れた今、ここぞとばかりにこの手の輩が現れることは予想していたが、眼前にいるサラリーマン風体の男では体格に差がありすぎる。
身体の限界に近い筋量を備えてはいるが、四十センチ近い身長差を覆すことは出来ない。
ましてや剣技を競うのであれば尚更。
剣を振るために鍛え上げた筋肉と圧倒的なリーチ差を有する戸草が相手では既に勝敗が見えているようなものだ。
荒川の驚きを他所に男は会話を続けた。
「正直、誰でもよかったんですけど、皆さん入院や死亡や失踪と散々な状況になっているようで、まともに戦えそうなのが貴方くらいだったんです」
「そうか」
「あ、そういえば貴方も片タマ潰されたみたいですけど、大丈夫ですか? 調子悪いなら日を改めますが」
「問題ない。アンタのタイミングで始めていいよ」
「素晴らしい。私と貴方の筋肉、優劣をつけましょう」
戸草は会話しながらも素振り用の振棒からユスノキの木刀へ持ち替えていた。
男は襟元からネクタイを引き抜き、道場の中央へと歩み行く。
――始まるのか?
荒川は声を上げることが出来ない。
出会ってまだ一分も経っていないのだ。
武術家同士の了承が既に終わっている。
この場で進む闘争の気配に追い付けていないのは荒川唯一人。
先程まで失望を感じていた師は迎撃の準備を終えているというのに、思考を切り替えることすら出来ない自分だけが取り残されている。
疎外感。
何が新しい自顕流か。何が超派の選択肢か。
荒川彦一は未だ何者にも成れていない。
道場破りの男を安く値踏みしているが、彼の心置きは荒川よりも先にある。
ようやく追い付いた荒川が、師よりも先に相手しようと口を開きかけた瞬間、出かけた言葉を飲み込んだ。
飲み込むしかなかった。
視線の先にあるは陽光を反射する鈍色。
道場破り男が背から取り出した得物は、刃渡り五十センチほどの小太刀であった。
木刀を用いる試合形式の組手ではない。
男は殺し合いを望んでいる。
「得物を持ち替える時間くらいは待ちますよ」
いつの間にか蜻蛉に掲げられている戸草の木刀を見て、男は口端を歪める。
「いや、これでいい。ただ一つだけ質問に答えろ」
「はい。何でしょうか」
「お前は長波先師と関わっていた裏闘技か何かか?」
「ええ。その裏闘技か何かかです」
回答を得た戸草はそれ以上言葉を発しなかった。
代わりに木刀の柄が弾けるようにパキンと音を上げた。
――殺す気だ。
立ち竦む荒川は気配の変化に気付く。
幾度も道場破りを追い帰してきた戸草だが、その実、全力で相手を痛めつけたことなど一度もない。
彼我の戦力差を考慮し、負けた相手のその後の人生まで考えた上での手加減を実行していた。
だが今は違う。
篠咲を斬ると覚悟した時と同じく、静かに燃え上がる殺気を刀身から発している。
戸草仁礼の全力は横木打ちで木刀と横木の両方を粉砕し得る必殺である。
彼の怒りは、相手が真剣を抜いたことが原因ではない。
道場破りの男は向けられる殺気を意に介さず、剣尖を相手に向けたまま手元を顔の左に引き上げて構える。
右半身の霞構え。
多くの流派に散見する霞構えではあるが、男の構えはその常よりも体勢を低くするものであった。
一方では身長二メートルを超える男が木刀を高く掲げている。
一方では小柄な男が膝を折り敷く程低く構えている。
共に相手を絶命させる技をぶつけようとしていた。
「流派を名乗るほどの者ではありませんが、一応言っておくべきでしょうか」
道場破りの男は構えの右手を離し、眉間から眼鏡を持ち上げて位置を修正した。
もはや笑みはない。
暗く底の見えない視線だけが顔貌に張り付いている。
「當田流、馬渡恋慈。推して参ります」