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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十四話
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【瑕疵】①




 馬渡(マワタリ)恋慈(レンジ)はその日、また(・・)全てを失った。


 貯蓄を失い、妻と離婚し、何者かを証明する仕事は自らの手で切り捨てることになる。

 白洲(しらす)物産マーケティング本部長である山室英樹は、机上に投げ出された退職届を眺めて暫し言葉を失った。


「……馬渡君、君はおかしくなったのか?」


 山室の投げかける言葉は哀れみを伴っていた。

 部下の経歴はある程度把握しているが、馬渡は特別で同情の余地があると考えていたからだ。

 馬渡恋慈は一家心中を運良く生き延びた孤児である。

 多少金銭への執着が強いものの、並々ならぬ努力一つで這い上がってきた猛者であることは疑いようもない。

 社内改革を一任される山室にとって学閥の破壊は急務であり、馬渡のように地力のみで評価される人材こそがこの先の白洲物産を支えるのだと確信している。

 仮想通貨なる詐欺じみた投機に手を伸ばし、自己破産に追い込まれる失態を晒していた馬渡を庇ったのは他でもない山室であった。


 その逸材、いずれ管理職の後継者として育てていくつもりの部下が、転職も決めないまま退職しようとしている。

 山室は期待を裏切られた怒りよりも先に、精神疾患の可能性を考えていた。

 或いは彼の限界を超えた期待を向けてしまったのではないかと、自分の失態すら感じている。


「部長、私のような野良犬に幾度も温情をかけてくださり感謝の言葉もございません」

「まぁ待ち給え。君の選択だ、余程深い理由があると分かる。しかし私の権限で解決できることもある。相談してからでも遅くはないだろう」


 薄くなった頭頂部を向ける馬渡に、山室は慎重に選んだ言葉を返す。

 馬渡は今年で四十歳になる。もう若くはない。

 この頃は体躯も横に膨れ、年相応の衰えを自覚しているはずだ。

 そんな男が短絡的な失業を望む理由が未だ分からない。

 もし他社からのヘッドハンティングを隠しているのならば更に競り落とす用意はあるが、そこまでの金汚さを晒す男ではないことは理解している。

 何が原因なのか?

 山室は自分のミスを確認しなければならない。


「部長、恥ずかしながら私はこんな歳になって今頃気付いたのです。何が人生を豊かにするのか? それは金でも地位でもないのです」

「趣味の話か? 豊かなプライベートを支えるのは仕事だぞ」

「いえ、趣味と仕事の融合こそが本当の意味で人生を支えるのです」


 会話の流れに諦めを覚え始めた山室は小さく溜め息をついた。

 趣味と仕事の両立という夢を叶えた者のみが吐ける凡人に向ける暴言。

 不断の努力が日常であった馬渡ならば、今から人生の舵切りを変えても間に合うのかもしれない。

 要は、馬渡は見付けてしまったのだ。

 積み上げたものを崩してでも挑戦する価値があるものを。

 相手が短慮な若者であるなら、リスクを説明して引き止めることが出来るだろう。

 しかし人生経験豊富な男の一世一代の決断を覆すことは難しい。

 馬渡の喪失を避けられないと悟った山室は、眼鏡を外して眉間を抑え、今後彼が敵に回らないよう円満に退社させる覚悟を決めた。


「……分かった。私も生活の為の仕事とは別に抱く夢がある。それに思いを馳せる時、少年の日のように憧れもする。君が踏み出す一歩を陰ながら応援するよ」

「長らくお世話になりました」


 もはや上下関係は無い。

 一個人の男同士の決別。

 僅かに未練を感じた山室は、踵を返して退室していく馬渡の背中に質問をぶつける。


「最後に聞かせてくれないか? 君をそうまで夢中にさせるものは何なんだ?」


 馬渡の歩みが止まる。

 肩越しに見慣れた四角形の眼鏡が向けられた時、山室は己の勘違いに気付いた。

 中年太りではない。

 馬渡の膨らんだ横幅ははち切れんばかりにスーツの両肩を引っ張っているが、肥満体型のそれとは別物である。

 よくよく観察すれば肥大した背筋が陰影を落としていることが分かる。


「部長、私は気付いたのです。筋肉は非課税だということに」

「……はぁ?」


 言葉を失う。

 山室は今向けられた言葉が何を意味しているのか理解出来なかった。


「失うばかりの人生。それは私に筋肉が不足していたからこそ起きた当然の結果でしょう。民主主義社会とは筋力主義なのですから」


 元上司の狼狽を無視して馬渡は言葉を続ける。

 その視線は宙を泳ぎ、遠い異国の情景を眺めているようであった。


「個人の強さは全てを手に入れるオールマイティーカードです。金、女、権力、全ては強さに平伏し付き従う。そして強さとは、筋肉のこと。素晴らしいことに、筋肉はどれだけ蓄えてもペナルティなど無いんです。もっと早くに気付くべきでした。知識も資格も筋肉の前では紙くずです。必要な時は自分が賢いと思っている間抜けを筋肉で従わせればいい」


 馬渡が拳を固く握り締めると、身体の何処かから繊維の千切れる音が鳴った。

 昔日の面影を残してはいるが、明らかに身体の作りが違う。


 ――お前は誰だ?


 山室の疑問が声になることはなかった。

 馬渡恋慈に似ている別人が、暴力で全てを解決する反社会性を宣う狂気。

 説得を試みようとしていた思いが恐怖に踏み潰されていく。


「私はもう何も失いません。ただ手に入れるだけの人生を歩んでいこうと思います。今日という日は惰弱な私の最後の決別式です」


 馬渡に似た何かが破顔する。

 一般的な社会生活では決して出会うことのない、滲み出た狂気が作る笑顔。

 本来商社の内部に居てはならない異分子の存在に、山室は足が震え始めていた。


 そんな山室の状況を満足気に観察していた馬渡は、踊るように振り返り個室の出入り口へと歩を進める。

 そしてドアノブに手を掛け、ゆっくりと力を込めて押していく。

 分厚いウォルナット材のドアが軋みを上げた。

 オフィスの役員室は防犯を考え内開きのドアで構成されている。

 押し引きを間違えた馬渡は行動を修正しない。

 自身の選択こそが正しいのだと言わんばかりに、総動員した筋力をドアに通していく。

 ミチミチと軋む音がやがてパキパキと弾ける音へと変化する。

 山室は未だ声を出せない。

 眼前で展開される狂気と奇行が有無を言わせない説得力となっている。

 最後に金属が圧し折れる音が二度連続して響いた。

 それはドアノブを支えるラッチボルトと、逆向きに折り曲げられた蝶番の軸材が圧力に負けた瞬間であった。

 馬渡は立て掛けたドアを、恐怖に縛られ動けない元上司を、異音に駆け付けた秘書たちを顧みることなく、ただ正面だけを見据えて真っ直ぐに歩いて行くのであった。




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