【一叢】②
◆
「冬川さんは毎回決勝の相手だった人ですよ」
ローカル線の路面電車はたった二人の客を乗せてカタコトと緩やかに走り続けている。
向かい合わせの座席にそれぞれ座った泥蓮と鉄華は目線を合わせるでもなく、時折揺れる車体に合わせて椅子を弾ませたり、キシキシと擦り合わさる車体の金属音に耳を傾けたり、着ているジャージの毛玉を取ったりしていた。
冬川に関して質問した泥蓮だが、ただの暇の穴埋めといった様子でとりわけ興味がある様子でもなかった。
「私は中学から剣道始めたんですけど、冬川さんはずっと昔からやってて小学生の頃は全国一位の人だったらしいです。それ以上のことは何も知らないですね。彼女に興味あるんですか?」
「無いな。ただ、ああいう八つ当たりメンヘラは面倒だ。私のストーカーになる可能性もあるから多少は知っておかないとな」
急遽記憶を手繰ってみた鉄華は、余りにも冬川について知らない事だらけであることを再認識した。
対して冬川の方は鉄華の心境の変化ですら正確に把握しており、一見自暴自棄な暴走に見えて相手を調べるという基本的な兵法は踏襲している。
鉄華もある程度は物事の繋がりを理解できていた。
泥蓮の返答も本心を隠していることは分かっている。
あの時、額を割られ朦朧とした意識の中でもちゃんと冬川の声は聞こえていた。
鍵理さんから聞いたと言った。
兄の仇討ちだと言った。
篠咲鍵理だ。
冬川に古流を教えたのも、鉄華の現状を伝えたのも篠咲だ。
有名人だと自称したように、剣道界を揺るがし覆す流れの中心にいることは鉄華でも簡単に調べる事ができた。
古流の復興と新たな団体の立ち上げ。
それ自体は特に珍しいことでもないが、世界一位の千葉碩胤を打ち倒した上での表明ともなれば説得力が違う。
そして泥蓮は一位と二位が不在だからと三位の一ノ瀬に戦いを挑んでいる。
まるで篠咲の行動を辿るように己を試していた。
泥蓮が冬川の背後にいる篠咲の事を探っているのは明らかであり、恐らくは身内の仇討ちが目的だ。
そこにある因縁や遺恨を想像するのは然程難しくはない。
鉄華は深呼吸をする。
あの雨の中で失禁するほど怯え、枯れ果てるほどに泣いて、それでも覚悟を決めたことを思い出す。
「――デレ姉は篠咲さんの事を知りたいんですね」
「……」
泥蓮の気怠げな目が少し見開かれたように見えた。
きっとそれは泥蓮が命を賭けるだけの理由であり、踏み込むのは決して笑い事では済まされない。
「あの人のこともあまり知らないですけど、前に一度家に来たことがありますよ。入学式が終わって何日かした辺りだったと思います。面識も無いのに突然家に現れて、私の所持している日本刀を買い取って行きました」
「……お前、刀なんて持ってたのか?」
「はい。祖父から譲り受けたものです。なんでも守山蘭道の打った刀だとかで価値のある物らしいです」
「何故手放したんだ?」
「提示された額が額でしたから。母と私の母子家庭ですので身を守るために選択の余地はなかったです」
「いくらだ?」
「十億です」
不意に身を乗り出してきた泥蓮は鉄華の肩を掴み、多少の狼狽を滲ませた。
「――マジかよ……お前、人生アガリじゃねえか。剣術なんて辞めちまえよマジで。あと一億くれ」
「嫌です。剣は捨てませんし、お金は高校出るまでは母がしっかり管理してます」
興醒めしたように舌打ちをして離れていく泥蓮を見ながら、金額を言うのは軽率であったと鉄華は少し反省した。
充分に信頼できる相手であっても、金銭の嫉妬で関係性を歪めてしまうことがある。
泥蓮に限ってそんなことはないと思いたい鉄華ではあるが、自己防衛の観点でも語るべきではないと戒めた。
「デレ姉は守山蘭道という人物を知っていますか?」
「名前くらいはな。現代の剣道がどうたらとかで関わってたとかそんな感じだろ」
「篠咲さんが刀を買い取った理由は分かりませんか?」
「知らん。こっちが聞きたいくらいだ」
「私の祖父のことは何か知らないですか? 春旗鉄斎と言うんですけど」
「全く知らんな」
鉄華は話題変更のついでに未解決の疑問をぶつけてみたが、全て空振りしたことにどうしようもない行き詰まりを感じてしまった。
内容的にも泥蓮が敢えて隠すようなメリットが有るとは思えない。
現状で分かることといえば祖父はある時期に剣を捨て、足跡すら完全に消してしまっているということくらいだ。
なにせ、鉄華が生まれるよりもずっと前の時代の話である。
その流派や道程を知る者はもうこの世には居ないのかもしれない。
流派と言えば一叢流の謎も解けていないことを思い出した鉄華は、祖父の話題からは逸れるが、今の流れで聞いておくべきだと考えた。
「デレ姉は槍術家ですよね。でも剣術も詳しいじゃないですか? 一叢流は何が主体の武術なんですか?」
更に言えば、冬川との対峙で泥蓮は素手の技を使っている。
槍術に比べると間合いが違いすぎて、もはや同じ武術体系のものとは思えない。
「武芸百般とは言うが、実際のところ一叢流は柔術流派だよ」
「柔術……素手の格闘技ですか?」
「そうだな。だが武器に対応するためにはある程度武器術を知らなければならない。私の場合そっちに傾倒しているだけだ」
泥蓮は幾つかの武器術を学ぶ過程で己の身体に最も合った槍術を選んだ。
しかし大本の技術が柔術だということに鉄華は驚きを隠せなかった。
古武術部で学んだ知識によると、柔術が主体の流派は戦国の甲冑武術が消えてから隆盛したものが殆どである。
一叢流自体の歴史は浅いのかもしれないと予想した。
「……いつ頃からある流派なんですか?」
「前にも言ったが歴史とかはよく知らんのだよな。確か流派を興したのは鬼一法眼らしい」
「あぁ……」
「胡散臭いだろ? 私もそう思うよ」
仮託というのは日本の古流にありがちである。
権威付けのために検証すら不可能な歴史の人物を「流祖」だとして喧伝することは、数多くの流派に散見される手法であることを鉄華は知っていた。
菅原道真、藤原鎌足、最澄――、中には聖徳太子やヤマトタケルを流祖に掲げる流派もある。とりわけ多く挙げられるのが武家社会の源流にある源平合戦の時代である。
鬼一法眼とは牛若丸に武術を教えた鞍馬天狗として創作に登場する人物であり、もはや実在していたのかすら定かではないが、全ての剣術の祖とも呼ばれる彼を流祖として掲げる流派は少なくない。
つまり仮託で拵えられた歴史から得られる情報はそれほど多くはないのだ。
泥蓮が一叢流の歴史に興味がないのはそういった経緯があってのことだろう。
鉄華の様子をつぶさに観察していた泥蓮は小さく嘆息する。
質問攻めを許したのは篠咲の情報が見え隠れしていたからであって、もうこれ以上は鉄華からは引き出せないことを悟った。
やがて車窓を流れていく景色に目を移し、いつもの気怠げな調子で口を開く。
「まー悲観しなくていい。私やお前が抱える大抵の疑問に答えられる奴を知っている。そいつに今から会いに行く」
「……誰ですか?」
「うちの妖怪ババアだよ」
そう言うと泥蓮は電車の進行方向からやや斜にある山を指差した。
それは県境にそびえる連山の開始地点として地元民の間ではそれなりに有名な山であり、鉄華は記憶から「宗彭山」というその山の名前を思い出した。
「見えるだろ。あの山のてっぺんに実家がある」
「実家って……もしかして一叢流の」
「ああ」
山は初夏の深緑で覆われており、現代人が生活を成り立たせるには多くの困難があることが予想できる。
鉄華の脳裏におとぎ話の仙人のような白髪の老人像が浮かんだ。
「デレ姉、毎日あんなところから通っているんですか?」
「んーなわけない。今はアパートで一人暮らしだよ。ババアに会うのは六年ぶりだ」
「ババアってお母さんのことですか?」
「そうだ。アラフォー世代だが人生の大半を古武術に費やしてきたというマジキチだよ」
腕を組んで神妙な面持ちになった泥蓮は、小首を傾げて鉄華を見据えた。
「今の内に言っておくが気を抜くなよ。普通じゃないからな。最近では不法投棄で入山した業者が次々と行方不明になっているという噂すらある。自給自足の隔離された環境だ。人間の生肉を食って不足しがちなミネラルを補給している可能性が考えられる」
「えぇ……」
「まぁさすがに娘の顔くらい覚えているとは思うがな。もし野生に還り正気を失っている場合は、私たちの手で葬る」
俄に不穏な空気が漂う。
現代社会から隔離された山奥に棲む古武術の達人。
或いは泥蓮の言うように倫理観すら現代からかけ離れているのかもしれない。
遠景をゆっくり流れていく宗彭山が妖気を放っているかのように見えた。
「……私が付いて行く必要あるんでしょうか?」
「おいおい、私に追いつくんだか勝つ気でいるんだか知らんが、べそかきながら逃げないと宣言しただろ。明日明後日、怪我が治るまでとは言わせない。今すぐ本気を出せ」
泥蓮は愉しげに口端を歪めて言葉を紡ぐ。
「お前がクソ弱いのは覚悟と場数が足りないからだ。この程度で尻込みするのなら前言撤回して静かに生きていろ」
鉄華を追い詰めているのは鉄華自身に他ならない、嫌ならさっさと逃げろ、と泥蓮は煽る。
それに気付きながらも鉄華は試されていること自体を内心嬉しく思っていた。
泥蓮は逃げない。
強さの証明に関わることであるなら逃げないし、格上の相手であっても勝てる方法を見出して挑む。
それを支える理由と覚悟がある。
体格も性格も大きく異なる二人の関係性に、共通点が垣間見えた気がした。
「デレ姉」
「なんだ?」
「あの時はありがとうございました。私一人だったら冬川さんに殺されてたかもしれません」
「今のところ利害が一致しているだけだよ。むず痒くなるからやめてくれ。……金なら受け取るがな」
感謝を伝えていなかったことに遅まきながら気付いた鉄華は、改まって礼を言う。
苦笑いで応える泥蓮に、いつの日か金ではない何かを返すことができたらと心中で誓いを立てるのであった。