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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十三話
169/224

【胎動】⑦

   ■■■




 力強く閉められた襖が柱に当たって跳ね返り、敷居の上を逆走して結局開かれたままになっている。

 その縁を押して閉め直したのは薬丸自顕流長波道場の師範代、荒川彦一であった。

 怒りを顕にして退席した男の足音が玄関へと続き、玄関の引き戸も同じ要領で開閉されたのか大きな音を立てて屋内が弾んだ。


 客間に座る亜麗は出された湯呑を持ち上げて乾いた口内を湿らせた。

 説明(・・)する前に出された茶である。毒物の疑いはない。

 ミスはなかった、と亜麗は再確認する。

 戸草仁礼の怒りは避けて通れない道であり、説明の中で八雲會の存在を匂わせることで向けられる矛先を狂わせた。

 もし予想に反して戸草が衝動的に暴力を振るう粗暴な人物であったとしても、獲物を見誤るほどの狂人ではないことは知っている。

 しかし万が一争いに発展した場合、正面から訪問した亜麗では絶対に勝てない強者である。

 内心嘆息する思いがあった。


 長波遠地という剣豪の最後は、互いに了承した上での死闘の結果であり、戦いと引き換えに彼の歪んだ欲望を叶えていた地下の賭け仕合が存在する。


 どんなに尊敬される一面を持っていようと同じ人間だ。全ての行動を追っていればどこかで必ずボロは出る。

 有名人の揚げ足を取るゴシップ誌の手法と何ら変わりはない。

 戸草も分かっていたのか敢えて掘り下げなかった師の過去を、態々知らせに現れるという低俗な行為に亜麗は苛立っていた。

 良心の呵責ではない。

 こんな綱渡りの道に縋ることしかできない自分自身に対して、どうしようもなく苛立っていた。

 ここで詰んだら相当強引な手段しか残っていない。


 ――焦っている。


 今この瞬間にも鉄華はどこかで死闘を強制させられているかもしれない。

 もしかしたらもう既に――。

 漠然とした不安。

 砂時計の下半分しか見えない状況が焦燥を煽る。

 己の無力を知らせる意味で津村鈴海を追い詰めたが、その実、彼女と自分とで何が違うというのだろうか。

 手の届かないところにいる相手を殴ることなど出来ないというのに。


「冬川さんだっけ? 悪いが私としても長波先師に関しては話せることは無い。あぁ、これは私はほぼ面識が無いという意味だよ。そんなわけで、帰ってくれないかな」


 和室に残る師範代の荒川が冷静な態度で声を上げた。

 彼の戸草に対する尊敬は本物だが、その上の師に対しての敬意はやや薄く思える。

 生前の長波は隠居してから堕落していく一方であったと聞く。

 古流の強さで大金を得る方法を知ってしまったことが原因ではあるが、気質や態度の変化を全て八雲會のせいにするには無理がある。

 長波に恩がある戸草に合わせているだけで、荒川自身はいくらか思うところがあるのかもしれない。


「申し訳ないですが私も切羽詰まっているんです。篠咲も長波もどうでもいいことなんですが、彼らが関わっていた地下闘技に友人が巻き込まれている以上手ぶらで帰ることは出来ません」

「あのさぁ、私も子供の妄想だと言いたくはないんだけどね、話が大きすぎてちょっとついていけないよ。警察も頼れない程の悪の組織だとか、証拠も無しに真に受ける大人がいると思うのかい?」

「貴方が信じる必要などありません。私はただ長波遠地の私室にある遺品を確認したいだけです。それで何も出てこないのなら子供の妄想だと嗤ってくれれば結構ですよ」


 我ながらなんて真正面から愚直な頼み事をしているのだろうと、亜麗は自分に呆れ始めていた。

 篠咲からの情報で、この道場の敷地に長波の私室が存在するのは知っている。

 長波の死因を調べる過程で警察に知らせていなかった離れの別荘。

 戸草の性格では故人の家探しなどしないことも分かっている。

 しかし荒川ならどうだろうか?

 亜麗は交渉にすらなっていない頼み事のターゲットとして始めから門弟を狙っていた。


「……君は私に戸草先生を裏切れと言っているのかい?」


 荒川の気配が変わる。

 やはりこの男は戸草への忠誠心が強い。余程の恩があるのだろう。

 弟子がどのくらいやれるのか試してみるのも悪くないと思えたが、亜麗は予定通りに荒川をギリギリまで焚き付けることにした。


「貴方は今のままでいいのかしら?」

「どういう意味かな?」

「海内無双とまで呼ばれていたのに、公衆の面前で老人相手に一太刀も入れられず敗退。本人は色々と言い訳を作って納得したのでしょうけど、貴方はどう思っているの?」

「本当に失礼だな、君は」

「言うまでもないけど撃剣大会に二度目など無いわよ。世間に嗤われながら、組手がない流派で延々と横木打ちを続ける余生が待っているだけ。恩師を堕落させ、賭け事の盤上で殺した奴らは今ものうのうと生きているのに、耳を塞ぎ目を逸らして自己鍛錬するだけの人生に埋没していく。本当にそれでいいのかしら?」

「……」

「私だったら許さないわ、絶対に。貴方は所詮は女子高校生と舐めているかもしれないけど、私は私の大切な人を奪った奴らを絶対に許さない。たかが棒振り護身術だと思って喧嘩売ってきた奴らの油断しきった背後に立ってやるわ」


 古武術家、戸草仁礼はもう終わっている。

 大会の結果は時の運でしかないが、動画として永遠に残る十字架である。

 実際、それなりに隆盛していたはずの道場には戸草と荒川以外の気配が無い。

 世間の評価は事実と証拠が全てであり、薬丸自顕流は今、残酷な現実と対峙しているのだ。

 この道場も遠からず手放すハメになるだろう。

 そこが戸草の終着点。

 有り余る才能を持て余し、何も成し遂げられず枯れていく現実が彼を壊す。

 堕落はしたが望むままに余生を謳歌した長波の方が幾分マシである。


 その結末が見えている荒川が何を望むのか。

 目を逸らすだけ臆病者に亜麗は容赦なく結末を提示する。


「考えなさい。流派の未来でもいい。恩師のためでもいい。貴方にとって何が最良なのか逃げずに向き合うことね」


 正座から立ち上がった亜麗は言葉を発しなくなった荒川に同情の笑みを向けた。


「本当に時間が惜しいのだけれど、貴方達の心情を察する余裕くらいはあるわ。明後日の同じ時間までこの街に滞在しているから、気が変わったら連絡して」


 連絡先のメモを差し出しながら荒川の表情を読み取る。

 もはや怒りはない。

 動揺、焦燥、そして僅かな覚悟が見える。

 ようやく火は着いたが、タイムリミットに間に合うかは分からない。

 即断即決を旨とする亜麗には焦れったいことこの上ないグズだが、更に焚き付けるのは逆効果だと判断して退室することにした。


 外に出ると辺りは暗く、空色は茜を残して藍を伸ばし始めている。

 山の中腹にある道場だが、展望台のように切り開かれた高台から見える景色は悪くない。

 どこからか木刀を打ち付ける音が断続的に聞こえてくる。

 音の発生源を想像した亜麗は笑みが溢れた。

 夜中に木こりの音が聞こえるという古杣(ふるそま)や天狗倒しと呼ばれる怪異現象は、案外愚直な武芸者の仕業だったのではないかと思える。

 怪異の正体などそんなものだ。

 八雲會の実体も似たようなものだろう。

 どんなに虚像を膨らませようとも人間の組織でしかなく、一対一、先手、不意打ちを心掛ければ誰が相手でも変わらない。

 正々堂々と戦ってやる必要性など微塵もない。


 亜麗は気持ちが逸る悪癖があることを理解している。

 いつか小枩原泥蓮に指摘された弱点。

 今はまだ完全ではないが少しずつ克服できている。

 先を考え、時に待つことも重要なのは戦いも交渉も同じだ。

 待つということは何もしないことではなく溜める(・・・)ということ。


 鉄華を信じる想い。無事を祈る想い。こんな苦境を強いている奴らを皆殺しにしたい想い。


 亜麗は溜める想いを数値としてカウントしながらバイクのエンジンを掛け、クラッチを切った惰性運転でゆっくりと山道を駆け下りていった。




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