【胎動】⑥
◆
五十センチ四方のマルチコプター。
備わる四つの回転翼が蜂の羽音にも似た高音をけたたましく鳴り響かせる。
廃墟の堆積した埃が撒き散らされ、壁際のホセが激しく咳き込んだ。
機体下部にぶら下がるカメラとヘッドマウントディスプレイが同期出来ていることを確認したロゴスは、両手を前に伸ばし、指揮者のように人差し指で図形を描く。
そのハンドジェスチャを合図に、二機のドローンはそれぞれ別個の軌道で室内から飛び出した。
一機は階段を降りていく順路で、もう一機は窓から外に出て廃屋の入口に向かう。
最高時速百キロで飛び回る飛翔体の先端には銃口が備わっている。
現代で最も容易く入手できる誘導兵器。
それを左右の手と目で二台同時に操作する才能がロゴスにはあった。
サーマルビジョンの視覚と自動照準を持つ魔物は、廃墟の障害物を縫うように疾走する。
窓枠を抜け、廊下を駆け、倒壊した柱と壁の隙間をすり抜ける。
自然界に存在するどんな動物でも持ちえない機動力がロゴスに万能感と集中力を与える。
風向きや天候を考慮しなくていい屋内ならば手足の延長と同じ感覚で操作可能であり、操作し始めてから五秒後には標的の居場所を特定できていた。
現在、白人の男は廃墟の一階、メインエントランスを抜けて階段があるエリアに差し掛かった地点にいる。
しかし、相手も馬鹿ではない。
ロゴスはサーマルビジョンに映る真っ赤な映像を見ていた。
焚き木を撒き散らしたか、発煙筒でも点けているのか。
階段を利用し立体的に熱源を設置した空間は、人間が発する熱を覆い隠すカモフラージュが施されている。
一見すれば暗闇で自分の居場所を知らせる愚かな行為だが、カメラの映像を頼りにする射撃では急所への狙いを困難にし、AIによる自動照準すら無効化する手段になり得る。
つまり、この男はロゴスの戦い方を知っているのだ。
自動露出の時間と通信の遅延が肉眼に劣ることを知って即席の対策を設置している。
ロゴスは神に感謝していた。
今日この場でなければもっと入念な準備で襲撃されていただろう。
兄が居ない現状、電子機器や無線通信を封じられた戦いになるのは最も回避しなければならない状況だ。
千載一遇。
自身の気まぐれと、相手の焦りが交差する唯一の道がこの瞬間である事に感謝せずにはいられない。
全幅の感謝と哀悼を乗せて、ロゴスの両手は中空で舞い踊りながら架空のトリガーを引いていた。
飛ばした命令はホバリングではなく飛翔しながらの面射撃。
フルオートの銃弾を等間隔で降らせる精密射撃を、縦方向横方向同時に。
熱源を密集させるべきして選んだ閉所に、人間では実現不可能な対人地雷の如き攻撃を張り巡らせる。
当然の結果として、ロゴスの視覚には人体への着弾を知らせるマーカーが点灯した。
男の居場所は予想していた階段の裏側ではなく、通路の角にある鉢植えの影。
燃え上がらせた観葉植物を盾に隠れる機転に、ロゴスは思わず口笛を吹いて賞賛を送った。
しかし、もう終わりだ。
居場所を捉えた時点で勝敗は決している。
まるでオーケストラの最高潮。
勢いよく振り上げられた指揮が断頭の刃として振り下ろされる、刹那。
ロゴスの視界の右側が暗転した。
「な、」
驚きで漏れかけた言葉を飲み込んだ。
ロゴスは湧き上がる疑問の答えを知っている。
『いいか、ロゴス。これはまだ万能ではない』
兄の声が脳内に響く。
それは思い上がりを打ち砕かれた過去の再生である。
『自動飛行は単調、手動操作でも癖がある。ピアノの両手弾きだって伴奏とメロディーという別個の役割があるだろ? よく見て研究されれば簡単に捕捉されるぞ』
初見でほぼランダムな軌道を看破し、対物センサーも反応できない速度の投石にて二機のドローンを撃ち落とした化物が嗤っている。
『俺たちの役割も同じだな。単調だといつか飽きが来る。そこに隙が生まれる。死にたくなけりゃ常に新しい刺激で脳をファックしてやるんだ』
時間差で左目の視界も閉ざされたロゴスは、ヘッドマウントディスプレイを剥ぎ取って窓から放り投げた。
――そんなに刺激が欲しいならシャブでも食ってろよ、クソッタレ!
また兄の言う通りだ。
自分でも気付かない程の僅かな癖を研究して挑んでくる奴が現れた。
怒りが衝動的に体を動かして、掴んだアタッシュケースを壁に投げつける。
ロゴスは素手の喧嘩でもその辺の素人に負けることはない。
研究して研究して努力して努力して、それでも届かない頂が直ぐ側にある絶望を何度も何度も味わい続けた故の逃避。
その結果として掴んだ『武器』が、開かれたアタッシュケースから床に散乱した。
それは、またしてもドローンである。
しかし今度はサイズと数が違う。
先の二機より小ぶりな手のひらサイズで、その数は五十機。
投げ出された床で目覚めたドローンは次々と宙に浮かび、待機する間もなく散開して室外に飛び出して行った。
――勝敗は決している。
全ての努力を無意味にする神話。
平和ではなく、剣をもたらすために現れた救世主。
それでも万能ではなく限界が存在する人間の体である。
理性の首輪たるロゴスは万が一の時に備え、神話の英雄を倒し得るヒュドラ毒を用意していた。
五十機のドローンが向かうのは標的に埋め込まれた発信機。
五十機ならば五十通りの、百機ならば百通りのルートで接近し、近接信管で炸裂する回避不能のグレネードである。
カメラの映像は無いが、もはや見るまでもない。
階下の爆音と振動が、名も知らぬ殺し屋の最後を告げていた。
勝利の余韻で怒りが収まっていくと、替わりに言い知れない虚しさが顔を覗かせてくる。
ロゴスは理解していた。
これは努力が報われないことへの怒りではなく、兄に対する嫉妬なのだと。
ほんの三年遅れた生まれた無能は、母からの寵愛を手にすることが出来なかった。
この先の人生、どんな分野でどんな手段を使って兄を超えたとしても、唯一欲しかったものはもう手に入らない。
永遠に埋まらない喪失感。
ロゴスは心の空洞を吹き抜ける冷たい風を感じながら、失意の上体を起こした。
起き上がらない。
地面が近づいていく。
受け身を取ろうとするが、手が動かない。
為す術なく廃墟の床に崩れ落ちるしかない。
脳から送るあらゆる命令が後頭部から火花のように飛び散っていく感触。
遅れてやってくる熱と、眼前に滴る血液に、ロゴスは自身の死を悟った。
――何が起きた?
ノイズに埋め尽くされていく思考の片隅で最後の疑問を解いていく。
奇襲を仕掛けた白人の男は死んだはずだ。
死体は確認していないが、どんな防御法を用いたとしても防ぎ切れるわけがない。
埋まった発信機を抉り取っていても結果は同じだ。
熱源と動体検知で標的が切り替わるようになっている。
つまり、後頭部を切断したのは別の人間だ。
誰だ?
一人しかいない。
最後の力で眼球を動かしたロゴスは、大型のククリナイフを持つ、ボディーガードのホセを見上げていた。
◆
爆発音で訪れた静寂の中、ボディーガードの男は記憶を整理するかのように小声で呟き始めた。
「……俺はホセ。ホセ・マヌエル・ナバスクエス。三十五歳。好きな酒は唐辛子のメスカル。喘息持ちでタバコやマリファナは吸わない。八歳の時にグアテマラからメキシコに移住。両親はカルテルの抗争に巻き込まれて死亡。離婚歴あり。前妻は行きつけのスーパーの売り子で、離婚理由は自分の酒癖の悪さ。野望や野心はない。権力欲を持たない者という立ち位置に需要があることを知っている。組織内の抗争で命を落とした親友のガルシアから学んだ。裏社会で生きてきた人間が褒めや煽てに弱いことも学んだ。ガルシアと出会ったのは十九歳。ダラスで薬を捌いていた頃……」
やがて外からの喧騒が戻ってきても、ホセの祈りにも似た独白は続き、最後に、
「アウトローの英雄ロゴス・カーネーションと対立、殺害し、自身も焼身自殺を図って死亡。動機は不明」
と告げて黙祷を捧げる。
そして胸元に手を入れ、皮膚を引っ張り上げて自分の顔の皮を剥がした。
接着剤の跡が残る皮膚は、それまでの黄褐色の肌ではなく白色人種のそれである。
精巧なメイクと人格憑依による変装。
出てきた白人はライオネル・クーパーであった。
ライオネルは演技の最後に、ホセと呼ばれた男のデスマスクを燃やした。
これで一区切り。
二度と使うことのない人格。何ら興味を唆られないクズの人生を心の外へ捨てて、本来の自分と与えられた任務を思い出す。
カーネーション兄弟の暗殺は、まだ半分しか達成していない。
兄の行方は杳として知れないがロゴスの独り言と、ミュトスの置き手紙から『ヤクモカイ』という手掛かりがある。
それが何語で何を意味するのかは分からないが、調べるのは自分の仕事ではない。
ただ、演じるだけのこと。
ライオネルは与えられた才能を特別視していない。
人間は才能や環境で人生を選ぶのではなく目的で選ぶ。そうでなくてはならないという確固たる信念を持っている。
「俺は……ロゴス。ロゴス・カーネーション。本名エイワス・オブライエン。カトリック信者の母親とIRA幹部の父親の間に生まれた次男。アルスター義勇軍との対立抗争に巻き込まれ、十二歳の時にアメリカへ密入国。以降は母と兄弟の母子家庭。母親の死因は――」
ライオネルは再び他者の人生へと没入を開始した。
硝煙と血液と焼けた皮膚の匂いが漂う廃墟の室内。
立ち込める煙幕と埃が立ち去る男の軌跡で掻き乱れ、揺らめき、包み込むようにしてまた炎の上昇気流へと戻る。
室内に残された二つの焼死体。
後の検証でロゴスとホセ本人であることは確認されたが、二人分の顔の皮膚が事前に剥がされていることに気付く者はいなかった。




