【八雲】⑥
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燻る紫煙を目で追っていた南場雄大は、天井に設置されている安物の火災報知器を発見して、コインランドリーの外に出ることにした。
携帯灰皿の闇に転がり落ちていく灰を確認して、また視線を上げる。
連日の快晴。目に突き刺さりそうなほどの陽光。
バーの経営という職業柄、土竜のような生活が常だった南場だが、ここ最近は友人が追っている案件に巻き込まれる形で休業を余儀なくされていた。
同じ町でも朝と夜とで見せる顔は違う。
暗闇というものはどうも人間の欲望を顕にする作用でもあるのかもしれない。
或いはそちらが在るべき姿で、お日様の出ている内は皆羞恥心を取り戻し、当たり障りのない仮面を付けて生きているのだろうか。
夜の人間が撒き散らしたゴミを清掃する作業員や買い物袋を下げた主婦、スマートフォンの画面を凝視しながら早足で歩く青年らを遠目に眺めながら、南場は缶コーヒーの缶を開けた。
「火、貸してくれるかい?」
コインランドリーの表、入口近くに立っている南場から自動販売機を挟んで更にその反対側からの声。
中年男性。
髪は白髪交じりのオールバック、白のワイシャツに紫のニット地ベスト、紺をベースとしたチェックのパンツに黒のスニーカー。
今からゴルフにでも行こうかというセミフォーマルな出で立ちの男が、手元でタバコを寂しそうに揺らしていた。
「いいっすよ」
火を点けに来させることに年長者特有の無礼を感じた南場だが、同じく肩身の狭い喫煙者同士でいがみ合う必要はない。
大人の余裕で対応する南場は、自販機の反対側へ歩を進め、百円ライターを持ち上げ、そして男の顔を見て――固まった。
男は死角になっていた右目に眼帯を着けている。
「どっかで見た顔だなオッサン」
「こんなナイスミドルはそういない。多分記憶の中の男と同一人物だな」
南場は右手でライターを点火して、逆の手でコーヒー缶を保持しつつ親指をベルトのバックルにかける。
男は煙草の先端を火に近付け、一ミリ程の赤熱を灯してから一息吐いて「悪いね」と呟く。
その頃には『野村源造』という名前を思い出していた。
撃剣大会出場選手で立身流の遣い手。
南場は警戒と興味を天秤にかけ始めたが、先手を取られていることに気付いてバックルから手を離した。
「偶然だと思えないんですけど」
「もちろん。ただ、俺を呼んだのはアンタの方だよ」
「呼んでないけど? 頭で変な電波受信した話とかやめてくれよ」
「おいおい、山雀を探してんだろ? あいつの今の上司が俺だ」
「自衛隊なのか?」
「違うな。ついでに言うと警察でも公安でもない。じゃあ何なのかってのは答え難いんだが、まぁ割と合法的でアットホームな職場だよ」
「みたいだな。変装ごっこ好きな劇団員が多いようだ」
南場は周囲を見渡す。
それまで目の前を通り過ぎていた人々が、一斉にこちらを注視している。
囲まれている。
山雀一人にここまでして動く理由があまり思い浮かばない。
南場は自分がミスを犯した可能性を気にしていた。
自衛隊に探りを入れる段階で八雲會やそれに関連する情報は与えていないが、木崎三千風の友人ということで端からマークされていた可能性はある。
不審な行動を取りそうな者を、怪しいと思う初期段階で排除する。
情報を秘匿する手段としては、動機も不明な段階で殺人を敢行するのが尤も効率が良い。
法に準ずる必要が無い組織だからこそ使える予防薬だ。
南場は最後の賭けとして、敢えて言葉にしてみることにした。
「八雲會か?」
覚悟は済んでいる。
富裕層の金が目当てで乗った話だが、リスクの勘定はできている。
逃げる手段は常に用意してあり、逃げられるのであれば何度でも戦える。
そうなれば後は根気の勝負だ。
先に仕掛ける奇襲が理想的ではあるが、個人が組織と戦う方法など他に幾らでもある。
再びベルトのバックルへ手を伸ばした南場は、またもや機先を制する男の言葉に動きを止められてしまった。
「早まるな。そういう心配はしなくていい。八雲會はアンタと俺共通の敵だよ」
――敵? 敵だと?
警察ですら手玉に取る上流階級に対抗する組織などあるのだろうか。
少し考えた南場は直ぐ様疑問を肯定する結論を出していた。
ある。あるに決まっているのだ。
金が動けばそれを巡って派閥が出来る。
智謀策謀、足の引っ張り合いが日常の彼らが足並み揃えて一大スキャンダルたる犯罪行為を黙認する訳がない。
どんなに上手く隠せても長続きする組織ではなく、内部崩壊で消えるのは目に見えている。
「……じゃあお手上げ。想像はできるが具体的な情報が俺には無い」
「敢えて名乗るなら正義の味方ってとこかね。日本もあいつらを放置するほど馬鹿じゃないってことさ」
南場は口端を上げて小さく笑いながら、新しく取り出した煙草を咥えた。
――『日本』ときたか。
騙りとしては馬鹿馬鹿しい規模だが、確かに特殊部隊所属の山雀がその辺の反社会組織に身を落とすメリットがない。
かと言って普通の転職なら態々除隊後の足跡を消す必要がない。
男の口上通りであれば警察や自衛隊とは別の、更に上位の権限を持つ超法的組織が存在することになる。
甲高い金属の反響音と共にライターの火が灯る。
今度は男の持つ高級ライターが南場の眼前に差し出されていた。
少し呆れて溜め息をついた南場は、遠慮なく火を借りて僅かに漂うオイル臭ごと肺に取り込む。
高いライターは蓋を開ける時、化粧板が良い音色を上げる。
南場は値段を想像することで幾らか富豪の気分を味わえた気がした。
その程度の小市民が革命の鉄槌を振り下ろせるのだとしたら、さぞかし気分の良いことだろう。
今になって木崎の動機を理解できた南場は、笑み口から煙を吐いて言葉を続けた。
「なんだそれ。超燃える展開じゃん」