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どろとてつ  作者: ニノフミ
第六話
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【一叢】①




 「追い詰められたら本気を出す」という言葉の真意は「本気など出したくない」ということだ。


 逃げようがない事を先延ばしにし続けて、その果てに仕方なく重い腰を上げるという、度し難い怠惰の宣言でしかない。

 試したこともないのに自分の本気というものを過大評価してしまっている。或いは、親切な誰かが問題を解決してくれると楽観的に待っている。

 浪費した時間で、向き合わなければならない現実がどれほどの怪物に成長しているのか想像しない。想像したくない。だから目を逸らし続ける。

 これは怠惰のループだ。手に負えなくなった怪物に踏み潰される日まで続く、愚かなループなのだ。


 素晴らしい、私はまた教訓を得た、人はこうやって成長していくんだな――と、春旗鉄華は生命の危機を感じながら思った。


 胃腸が何度目かの無駄な収縮を始め、捨てたれた子犬のような鳴き声を上げる。

 これこそ今、向き合わなければならない現実に他ならない。

 悲しいことに教訓で腹は膨れないのだ。


 鉄華は森の中、木立ちに囲まれた川の畔で極限の飢餓状態を迎えつつあった。

 この四日間で口にしたのは水と煮詰めた雑草と氷砂糖一つである。しかも、食べた雑草が良くなかったのか昨晩は二回吐いている。実質何も食べていないに等しい。

 

 初夏を迎え青々と生い茂る草木が風で揺れている。

 ひと時の灯火を燃やす蝉時雨と野鳥の歌声が競い合うように忙しく鳴り響いている。

 透き通る川の水は時折飛沫を上げながら下流へと注がれていく。

 自然は人間の都合など知ったことではなくただそこに在り続ける。

 それどころか今力尽きようとしている人間に弱肉強食を剥き出す瞬間を待ち構えているようにも思わせた。


 鉄華は空腹で視界がゆっくりと回転し始めるのを感じていたが、もはや抵抗する気力もなく、回転に身を任せると倒れるように横になった。

 

 事の発端は二週間前まで遡る。




   ■■■




 その日は大事を取って学校を休んでいた。

 テレビでは梅雨明けが宣言され、窓の外では久々に顔を覗かせた太陽が下界の水分を蒸発させている。

 肌寒くてかぶっていた布団の中も、朝になると徐々に寝苦しく蒸されていく。

 二度寝に挑戦した鉄華もとうとう暑さに耐えきれず掛け布団を跳ね除けながら目覚めた。

 

 週末を挟んで養生していたおかげか額の腫れは縮小期に入ったように思えた。

 迅速な手当があってこそのものである。

 明らかに剣道では負うことのない怪我に母親の心配が向けられたが、転んだ怪我だと納得させることでやり過ごすことができた。

 被害届を出されでもしたら、冬川だけの問題ではなくなる。

 紛れもない決闘罪であり、弱くて一方的に敗けたから被害者になっただけだ。

 今朝方一巴と交わしたメールには、『暴力事件にはなっていないので安心するっす。富士子ちゃん超怒ってたからちゃんと謝ること!』と書かれていた。

 怒るのも無理はないと鉄華は忖度する。


 ――あの瞬間を思い出す。

 たったの一撃。

 武器を持った勝負の世界は一瞬で勝敗が決する。

 華やかな攻防も、鮮やかな連携も存在せず、生死を賭けて尚、生き残ろうと足掻く執念を試される死地。

 そこ踏み入ったという自覚が欠如していた。

 勝手に相手の力量を値踏みし、事情を推し量り、斟酌した打突を放つ。

 敗けて当然だろう。

 そんな芸当が出来るのは圧倒的な戦力差を確信した時だけだ。


 鉄華は布団の上で膝を抱えて身を震わせる。

 ――ならば、冬川を殺すつもりで木刀を振り下ろすべきだったのか?


 少なくとも冬川にはその覚悟があった。

 彼女の言うように、古流の全力とはそういう闘いの場だ。

 互いに構えた瞬間から相手への気遣いなど不要で、その不文律を破ることは侮辱に等しい。


 春旗鉄華は心も技も足りていない。

 座学だけでは補うことが出来ない隙間がある。

 古流に踏み込んで以来、やる気は空回りし続けて無為な時間だけが過ぎて行くように感じていたが、ついにそれが結果になって現れてしまった。

 自身の特徴を伸ばして技を修めた冬川に対して、泥蓮の物真似だけで戦うには限界がある。

 剣道では負けることのなかった相手に、こんなにも追い込まれているのが悔しくて仕方なかった。

 こんなにも悔しくて悩ましいのに―――腹は減ってしまうものだ。

 甲高い内臓の収縮音を上げる腹部を押さえながら、鉄華は情けなくて笑ってしまった。

 脳内活動を除けば人間など脆弱で惰弱で単純な生物でしかなく、本能という欲求の前では一時の感情など塵に等しい。


 鉄華は惨めな気分を脱ぎ捨てるように布団から起き上がり、軽く伸びをした。

 卓上の時計は午前十一時を表示しいる。

 今頃学校では四限目の予鈴が鳴っている頃だろう。

 額の傷を押して痛みを確かめてから、遅めの朝食を取るためにとぼとぼと台所へと向かった。




   ◆




「あら、鉄華。お友達が来てるわよ」


 その珍客は、食卓に並ぶパンとサラダを貪りながら母親、華苗と談笑していた。


「よう。元気そうじゃないか。おい華苗、マヨ取ってくれ」

「はいどうぞ、泥蓮ちゃん」


 泥蓮はレタス、キャベツ、コーン、ミニトマト、ツナのサラダにたっぷりとマヨネーズをかけると、箸でぐちゃぐちゃにかき混ぜてから流すように飲み込んで「おかわり」と呟いた。

 華苗はにこやかに空の器を受け取ると何杯目かのサラダを盛り付け始める。


「……デレ姉? 何で、ここに? 学校はどうしたんですか?」

「私も休んだ」

「……」


 お茶の間に紛れ込んだ異物を怪訝に眺めながら鉄華は同じく食卓の向かいに着いた。


 ――違和感。

 友人ではないし、見舞いであるはずもない。

 気を抜いた瞬間に食卓を蹴り上げてくるかもしれない。

 警戒する鉄華をよそに、泥蓮はトーストにマーガリンを塗りながら口を開いた。


「あれだな。高校生にもなると学校をサボるくらい何でもないことだな。小学生の時のような後ろめたさが無い。これが成長というやつなんだろう」

「別にサボりじゃないんですけど……」

「そういやそうだったな。悪かったな。転んで怪我をしたんだっけか? 大丈夫か? アルファベット全部書けるか? 九九分かるか?」


 あぁこれは悪意だ、と鉄華は理解した。

 泥蓮は学校を休んでまで後輩を煽りに来ている。

 

「鉄華、今日はちょっとデートしよう」

「はい?」

「デートだよ、デート。もう動き回るくらい平気だろ。ズル休み同士仲良くしようぜ」


 屈託の無い笑顔を広げる泥蓮を見て、鉄華はさらに警戒を強めた。

 つい先週自分を殴りつけた人間が目の前で笑っている。

 頭を打ちすぎて狂気の世界に迷い込んだかのような錯覚すら覚えた。


「まずはメシだ。早く食え」

「はぁ……」


 トーストにモサモサと齧り付きながらも泥蓮の目は鋭く向けられる。

 鉄華はそれを読み解こうとするが、目的が分からない。

 分かることは『母親に喧嘩の詳細を話されたくないなら言う通りにしろ』ということくらいだ。

 当の華苗は見舞いにまで来てくれる友人がいるという事実に、鉄華の学校生活の順調さを想像して喜んでいるように見えた。


 ――何故こうも親を利用した脅迫が続くのだろうか。

 鉄華は溜息をついた。


「そういうことだから華苗、この馬鹿借りてくぞ」

「はいはい、よろしくね泥蓮ちゃん。しっかりやるのよ鉄華」


 母親と打ち解けている泥蓮の様子を眺めていた鉄華は、その背景に隠された何かを詮索するのが何か酷く失礼な事のようにも思えた。

 親愛の表現が少し捻くれているだけで、もしかしたら本当にただ単純に怪我の様子を心配して見舞いに来てくれたのではないだろうか、と。

 その後ろめたさから、この時感じた違和感を深く追求することができなかった。




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