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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十二話
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【八雲】①




 最初に気付いたのはソロキャンプ愛好家の会社員、堀切卓であった。


 祝日と有給を繋げた連休初日の早朝、堀切は大きな荷物を担いで山間入りしている。

 過去何度も訪れたことのある山道、キャンプ場。

 時節柄未だ春の暖かさが届かない山道には、流石に堀切以外の人影はない。

 ところが妙な静けさがあった。

 自分の息遣いと足音、熊鈴の音しか聞こえない単独行ではあるが、それにしても森の気配が薄すぎると堀切は思う。

 虫の音、鳥の羽音、潜む動物の足音が一切しない。

 ほんの僅かな違和感。それでもベテランの堀切は立ち止まり、何故そうなのかを熟考する。

 現代の安全性に保証されたトレッキングとはいえ、油断や思い込みが死につながることも珍しくないからだ。


 暫く考えた堀切は、少し前に同じ道を先に誰かが通ったのだと結論する。

 それも動物が退散する程度に騒がしく。

 複数人である可能性が高いと推測したが、そもそも一人で来る方が珍しいことを思い出して苦笑した。

 一人でゆったり落ち着けるのも好きではあるが、同好の士との出会いも悪くはない。

 今回目指す目的地は大自然の絶景ではなく、巨大な人工物を俯瞰できるというマニアックなスポットである。

 物見遊山な観光目的で来る者はそういない。

 先を行く者たちが浮ついた学生の集団でないことを祈りつつ、堀切はまた歩き始めた。




 日本の屋根と呼ばれる三山脈。

 その等高線を共有する二県の堺。

 東西に潤いを齎しながら日本海と太平洋へ流れ出る豊かな山上の水源地。

 そこには度々国会やマスコミを騒がせた一大公共事業『井伏ダム』の跡地がある。


 騒動の発端は戦後の経済成長期まで遡る。

 井伏ダムの工事入札にはゼネコン五社が参加していたが、島熊建設はたった五百万円上回る価格での落札に成功してしまったのだ。

 問題なのは他四社が最低入札制限価格(ロアリミット)を下回って失格になったことである。

 見積もりの算出というのは大抵同じ教育を受けた大学卒がやるものであり、どこの組織がやっても誤差は少ない。

 明暗を分けるのは、見積もりから何%引いた値がロアリミットになるかという予想である。

 一番高額で入札した島熊建設の落札は情報漏洩の疑いが濃厚で、島熊建設、及び特殊法人である送電開発からそれぞれ代表者を証人喚問するまでに発展している。

 その結果、首相の秘書官、島熊建設の代表、強引な取材を続けた新聞記者、疑惑を追求した議員、その全てが不審死を遂げることとなった。

 それでも消えない世論の疑惑と、現地住民との補償交渉の長期化が影響してダム計画は一旦頓挫することになる。


 宙に浮いた建設計画が再開したのは平成に入って間もなくのことである。

 困窮する県の財政を立て直すべく、今度は地方自治体主導でのダム建設事業となった。

 村落も過疎化が進み、かつて居座っていた住民との交渉も平和的に解決した――かに見えたその矢先、今度は環境保護の抗議活動が始まる。

 工事期の堆砂による深刻な環境被害を訴える自然保護団体に、娯楽や観光として地域を愛する多種の業界団体が合流し、一時は国立公園に登録しようとする動きすらあった。

 最終的に世論の意を汲んで当選した県知事が脱ダム宣言を発することで、井伏ダムの計画は破綻することとなる。


 ところが次の県知事は脱ダムを撤回し、またもや再開。

 県議や土木関係者を味方に付けて経済への有効性を主張し、半ば強引に建設が始まる。

 ここに大きな誤算があった。

 数十年越しの計画延期期間の工法、物価、賃金、環境の変化を軽く見すぎていたのだ。

 担当していた県内の土木業者は、当初の見積もりを大きく超えた工事価格に耐えきれず、上乗せ交渉も上手くいかないまま倒産することとなった。


 以降、井伏ダム計画はどの業者も手を上げることのないまま頓挫し、今現在に至る。




 堀切は山の中腹に設置された物見台で休息を取りながら、眼下の景色を眺めていた。

 貯水予定地を取り囲む高さ百五十メートルのコンクリート壁、無人になった村落、田畑らしき跡地。

 人里離れた山間に位置するトマソンとも言うべき夢の残骸は年々荒廃の一途を辿る。

 人の手で刈り取られていた雑草が本来の力を存分に発揮し始め、太陽を求めて壁面を登る蔦植物は村の外観を大きく変化させていく。

 かつて確かにあったはずの文明は自然に還ろうとしていた。

 ここから見えるのは自然の色彩に圧倒される感動ではなく、人間という存在の儚さである。

 『自然の中で生かされている』

 堀切は初心を忘れないよう年に一度はこのダムを見に来ることにしていた。


 それにしても妙である。

 多少急ぎ足で来たにも係わらず、先導する集団など影も形もない。

 あと少しでキャンプ場だというのに人の気配がしない。

 次第に大きくなっていく違和感は、不意に形あるものとして堀切の視界に飛び込んできた。


 鉄塔。

 高さ十メートル程の人工物が脇道の木々の間に建てられている。

 複数の配線を這わせ、頂点付近にある三つの箱へと繋げている。

 以前来た時には無かった物だ。

 よくよく辺りを見渡せば、同じような鉄塔が山道から外れた箇所に何本も立っているのが分かった。


 堀切は少しの驚きの後、それが意味することを予想して興奮した。

 電力会社勤務という仕事柄、備え付けられた箱が次世代通信規格のアンテナであることを知っていたからだ。

 高周波数帯を利用するのでセル範囲が狭くなり、従来より多くのアンテナが必要になる。

 その為の鉄塔であった。

 受信できる機器は持ち合わせていないが、今この場で通信のテストをしているのは疑いようもない。

 山の動物は飛ばされる電波を感じ取って退散したのであろう。

 堀切の心中は電波がもたらす自然への影響よりも、これほど大規模な実験がニュースにもならず秘密裏に行われていることに関心が向いていた。


 何故ここなのか。何が行われているのか。

 一体どこの組織が……。


 眼下にそびえる巨大なコンクリート壁が見えた。

 内側には水没するはずであった廃村。

 堀切は湧き上がる好奇心を抑えられず、普段なら通ることのない下山路へと踏み出していた。




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