【私淑】③
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二月の風が梅一輪ずつ暖かさを運び始める時節、早朝。
寝ぼけ眼を冷水で引き締めた鉄華は、久方ぶりに制服を着て鞄を手に取った。
埃を被った革靴をワックスで磨く間、拭いきれない心の靄と格闘していたが、玄関を出る頃にはなんとか居着きを捨て去っていた。
高校一年目、最後の期末テスト前日。
それは鉄華の停学が解け、学業へ復帰できる日でもあった。
悩んでも仕方ないのだ。
例えクラスで孤立しようとも全ては自分で選んだ結果であり、失ったものもあれば得たものもある。
師の喪失に比べれば大抵のことは取るに足らない些事でしかなく、祖父の起源に触れて強さの軸を得たことは学業以上の糧となっている。
だから、仕方ないのだ。
テスト勉強を全くしていなくても。
同じ空の下、何処かの国では紛争が続き、経済搾取で困窮する人々がいる。
膨張していく宇宙の片隅で目視も出来ないような素粒子以下の粒がテストで赤点を取る程度のこと。
だから大丈夫。
鉄華は全ての柵を振り切るように大地を踏みしめて開き直った。
◆
油断と断ずるには残酷な、突飛な現実というものがある。
予測とは知識と経験と観察によって成り立つ。
剣の極みとされる水月の境地も例外ではなく、唐突に現れる災害規模のアクシデントを防ぐ術を個人が持つことはない。
大会後に刃物を使った決闘が行われた事実は、実名こそ公表されなかったが迂遠な形で世間に報道されていた。
当事者の鉄華と冬川は未成年であり、一貫して演武中の事故だと口裏を合わせている為、決闘罪としては立件には至っていない。
場所の提供を否定した運営側が住居侵入罪として被害届を出し、数万の罰金を払ったことが表向きの事件である。
退学処分にならなかっただけでも奇跡であった。
朝一、廊下で擦れ違った古武術部顧問の八重洲川に無視されたことで鉄華は、予め知らされていた事実を改めて認識した。
もはや私立刃心女子高等学校に古武術部は存在しないのだ。
倫理的に問題のある大会への参加に加え、部員の失踪と停学。
存続を許容するほうがどうかしている。
鉄華が怪我の治療で休まざるを得ない期間を停学にしたのは、元顧問の八重洲川の働きかけによるところが大きい。
彼女曰く「親友に通す最後の義理」とのことであり、以降は一教師と一生徒を超える計らいは望めないだろう。
更にもう一つ。
春旗鉄華が決闘の当事者だということがクラス中に知られてしまっている。
小さな田舎町の小さな学校。
噂の尾ひれが伝言ゲームで過剰に盛られている可能性すらあるだろう。
他校の生徒と喧嘩した前科があり、立て続けに暴力事件を起こす悪名高い古武術部の部員。
教室の扉を開けた鉄華を曜子や鈴海といった友人ですら様子を窺う程度に留めている。
しかしここまでは予想通り。
予め準備していた鉄華の心は揺らがない。
多少傷付きはしたが、覚悟していれば受け入れることはできる。
このまま明日のテストで散々な結果を残そうとも全ては自らが選んだ結果。
流されるまま衝動的に掴んだ道ではなく、ちゃんと考えた上で踏み出した一歩なら後悔など無い。
問題は授業の始まる前。
朝のホームルームで担任が入室してきた時、眼前で展開される異様な光景にある。
担任教師の後に続く少女。
彼女が纏う深緑の制服は刃心女子のものではなく、都会の由緒正しい私学のものである。
腰まで届く長髪、左目に付けた眼帯、右手の指を固定するギブス。
少女の外見に既視感を覚えた鉄華は、記憶には無い彼女の怪我の正体を思い出して青ざめていた。
「本日転校してきた冬川亜麗さんです。二年生を間近に控えた短い期間ですが、分からないところ等皆さんでフォローしてあげてください」
「冬川です、よろしく」
何故? 何が目的で? ――などと考える暇もなく思考が真っ白になる。
短い挨拶で区切った冬川は艶のある髪をなびかせて、教室内にいる一際座高の高い人物へ視線を送った。
「先生、私あの春旗さんとは旧知の仲なの。隣の席にしてくれると助かるわ」
一斉に向けられる周囲の視線に鉄華は何故だか羞耻心を覚えた。
おそらく二人の事情を察した人間もいるかもしれない。
冬川が撃剣大会で篠咲のセコンドを務めていた事実を知っていれば、大会後に決闘をやらかしたのが誰なのか考えるまでもないからだ。
――何故?
ようやく正常な思考を取り戻した鉄華は、隣席に移動する冬川を眺めながら彼女の目的を考え始めた。
怪我の度合いは冬川の方が酷く見える。
鉄華は大腿部を刺されたというのに一方的な加害者として扱われる可能性があり、集団心理を利用した圧力で追い詰めるために転校してきたのか。
それとも単に身近で虎視眈々と寝首を掻くためなのか。
そんな復讐のためだけに転校までしてくる冬川の行動力は予想の範疇を超えていた。
だが思い返せば徴候はあったはずなのだ。
復讐のためだけに二度も現れていたことを鉄華は失念していた。
まともではない。狂気とも言える行動力。
冬川はここまでやるのだ。
何の備えもなく呑気にテストのことを考えながら登校した鉄華は、これから身に降りかかるであろう危機を予測して戦慄していた。
机一つ分を空けた空間には重苦しく張り詰めた空気が流れていた。
一般相対性理論において高重力場ほど時間の進みが遅くなるというが、鉄華は無限に引き伸ばされた一瞬の中にいる。
思考に伸し掛かる重力は時間を加速させるのだ。
鉄華は予期しない冬川の出現に考えを修正せざるを得なかった。
あらゆる思い込みや先入観を捨てなければ冬川には追いつけない。
授業中いきなり脇腹を刺されることなどありえない、と決めつけていれば無様に死ぬことになる。
先手。
身を護るために何か先手を打たなければ。
たとえ法や倫理を踏破してでも。
鉄華の思考が黒く染まり始めた瞬間、左側の席に座る冬川が話しかけてきた。
「ねえ鉄華」
「は……はい?」
「私、まだ教科書貰ってないのよ。見せてくれる?」
冬川は鉄華の返事を待たず、強引に机を近付けてくる。
気付けばホームルームは終わり、一限目が始まろうとしていた。
不意な接近を許してしまった鉄華は声を上げることも出来ず固まっていた。
――冷静に考えて、そこまでやるのだろうか?
先手の荊棘を考えていた鉄華は思考を逡巡させていた。
過去の決闘はいずれも向かい合って尋常に行っている。
勝負の始まりも曖昧なまま背中を刺すような不意打ちをするのは生存術という意味では正しいが、それが強さの指標とならないことは冬川も分かっているはずだ。
いくら悔しい思いをしても正面から挑むという美学に支えられているのが冬川だという根拠がある。
このまま先手を放つことが正しいのか未だ判断が付かない。
「ねえ鉄華」
「……なんですか?」
交わす視線の向こう側で、冬川は鉄華の思考を見抜いているかのように柔らかな笑みを浮かべていた。
「私はこの通り、誰かに圧し折られた右手が動かなくてノートのページが捲れないのよ」
「……左手でやればいいじゃないですか」
「左手は慣れない文字書きで忙しいの。無駄に長いリーチを持つ人が捲ってくれると助かるわ」
「ぐぬ……」
お願いの体を成した命令に、鉄華は逆らえなかった。
互いに被害者でも加害者でもあるのに、残るダメージは冬川の方が大きいのは認めざるを得ない。
隣の机のノートを捲るために腕を伸ばした鉄華。
その耳元で囁くように冬川は呟いた。
「楽しかったわ。ありがとう」
理解するまでの僅かな時間、鉄華は手が止まった。
言葉が意味するところは明白であったが、わざわざ言葉にして伝えに来るとは思ってもいなかった。
思い込みを捨てたつもりでも勝手に人物像を描いていたことを鉄華は少し反省して、同じく囁くように返答した。
「私も楽しかったよ。二度とやりたくないけど」
「そ。残念」
残念そうに肩を落としながらも口元の笑みは消えない。
その冬川の態度でようやく鉄華は納得できたのであった。
彼女との因縁は終了したことを。
あの決闘が救いになったのかは分からない。
それでも殺し合いの螺旋を抜け出た実感に鉄華は心から安堵していた。
この先また冬川と戦うことがあるかも知れないが、それは憎しみも殺意もない、ある種競技めいた手合わせの範疇に留まるだろう。
そんな鉄華に向けて冬川が零した言葉は、途方もなく残酷な未来を予期させるものであった。
「ところで鉄華。私は箸が持てなくて食事もままならないのだけれど、誰かが助けてくれると嬉しいわ」




