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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十一話
149/224

【私淑】①




 夜道に規則的に吐かれる呼気が白んで浮かぶ。

 理由は何でもよかった。

 今日はとりあえず下ろし立ての靴を慣らそうと、いつものランニングコースから逸れた脇道に入る。

 見慣れない生け垣、商店、ガードレール、標識。

 途端に足取りが軽くなったように感じた。

 慣れた道から離れる不安が予定調和を崩す刺激となって、危険に備えて余力を引き出している感覚。

 新しい靴、新しい道。

 人生にスパイスを加えたいならば、大抵の場合自ら動かなければならない。

 稀にコースを変更することの重要性を鉄華は経験則で知っていた。


 時刻は午前四時。

 氷点下に迫る気温が放射冷却を誘発し、大気中に降りる霜が街灯の光を薄く曇らせている。

 町は静けさに包まれていた。

 正月の三ヶ日を終えて本来ならばいくつかの職種が日常業務へと戻る節目ではあるが、上手い具合に土日を挟んだ連休になった本年は未だ人々に眠りの猶予を与えていた。

 大通りに出ても運送業者のトラックすら走っていない。

 鉄華は見た目が同じなだけの異次元の町へたった一人で迷い込んだように思えた。

 丁度いい機会だと考えて、路面電車の線路を追うように未踏のコースを追加していく。

 冬川との死闘で負傷した足の調子も大分回復している。

 呼吸も酸素量を意識して適切に刻めている。

 今ならもう一度冬川が襲撃してきても万全の態勢で迎え打てるだろう。

 内側から込み上がる熱に耐え切れなくなった鉄華は、襟首を覆う上着のファスナーを少しだけ開放して朝の寒気を取り入れた。


 撃剣大会から二ヶ月。


 あの大会で得られたもの、失ったもの、どちらが多いのか鉄華は考えている。

 全てに意味があり、教えがあり、教訓があった――そう思わないと走るどころか立っていることすら出来ない。

 大切だと思っていた者が消えた後も世界は無情にも回り続けていく。

 残された者は心の置き所を探して足掻き、彷徨い続けていくしかないのだ。




   ◆




 宗彭山の頂上へ着いた時、日の出に備えた空が白明かりを灯し始めていた。

 息を整えた鉄華はスマートフォンのGPSトラッカーを起動する。

 画面のランニングコースはフルマラソンに迫る距離を記録しており、自分で選んだこととはいえ同じ復路を辿ることを考えて少しうんざりした。

 二時間二十分という記録は悪くない。

 世界の舞台では歯が立たないが、国内ならばマラソン競技でそこそこの結果を残せるだろう。

 一叢流の末席に名を連ねるに相応しい身体能力が備わってきていることを確かめながら、鉄華は小枩原邸の門前を通り過ぎる。

 そして背に付けていたボディバッグを胸側へ回し、中から軍手と懐中電灯を取り出す。

 一度の深呼吸の後、辺りを一度見渡してからおもむろに脇の山道へと踏み入った。


 靄掛かる朝の山道は不思議な気配が満ちている。

 朝露を乗せた草木が光合成を開始する気配か、夜行性の動物が侵入者の様子を窺う気配かは分からないが、大勢の奇異の目に晒される時に似た疎外感を覚える。

 ここは人間の棲まう領域ではないと、山の総意が向けられているようにも思えた。

 何時来ても獣道が存続しているのは、本当に獣だけの通り道として機能しているからだ。

 鉄華は野生動物の不意討ちを警戒しつつも、足取り軽く草木の障害を掻き分けていく。

 勝手知ったる慣れ親しんだ道。

 一叢流の修行で何度も踏み入った場所である。

 季節によって全く違う植生が展開されて景色を変えるが、樹木や岩は簡単に動いたりしない。

 

『逸草の(くさむら)に千種万葉なる枝在り』


 戦国時代初期に発掘された一叢流は、草花に相当する文字を当てた歌にして秘匿されていた。

 編纂に関わったとされる千種(ちぐさ)忠顕(ただあき)公に歌人としての才があったことで、失伝を免れたとも、武術としての普及が阻害されたとも言われている。

 彼は遣唐使の大江家に伝わる書物から毒術等の只ならぬ内容を読み取り、それらを天狗の業と称して人の手に渡ることを恐れていたのだ。

 時節は後醍醐天皇による鎌倉倒幕直後の安寧の期間であったと推測される。

 徒手による武術とは帯刀が許されない敷地内でも有用な暗殺術であり、平和な時代の体制側には必要とされないからだ。

 一方で、遣唐使から連綿と続く歴史に対する敬意はあった。

 故に後世の動乱を案じ、歌集として編纂する手法を取ったのだろう。

 目録に『当流者元来 中原法眼大江流也、後学流祖 千種一草』となっているのはそういった複雑な事情があるからだ。


 もちろん仮託として創作された歴史かもしれない。

 それでも誰かが引き継いで行かなければ、あっけなく時代の影に消えていく。

 鉄華はその大役を引き受けることにしていた。

 撃剣大会で名を残した一叢流の唯一残る師弟、春旗鉄華個人にコンタクトを取ろうとする者も少なくない。

 未だ修行の身の上、弟子を取る気など全く無いが、文化財として術理を残す算段を進めれば秘匿と継承を両立できる。

 国の重要文化財とまでは行かなくても、守山流のように地方公共団体の文化財ならばなんとかなりそうに思える。

 鉄華は冬川との決闘で長期の停学を喰らって暇な時間を、一叢流の存続に関する勉強に費やしていた。


 泥蓮は大会以降復学することもなく行方を晦ませている。


 山道が開けた空間に差し掛かると、鉄華の目に懐かしい景色が映った。

 夏休みの間、多くを過ごした場所である小さな畑。

 脇に建っている不格好に組まれた小さな小屋は、最近鉄華が竹と石灰モルタルで拵えたものだ。

 更にその奥に石碑と呼べる程の大きな岩が鎮座している。

 当初は何を意味するものか理解できなかった鉄華だが今は違う。

 これは小枩原家の墓石である。

 不玉を含め、代々の当主が眠る墓所が山中に存在していた。


 鉄華は両手を合わせて一礼をした後、小屋に置かれた鉈と水桶を手に取って近くの川へと下る。

 足場の岩を踏み締めると、眠りについていたムカデが隙間から逃げるように飛び出していった。

 嫌悪感はなく、郷愁の想いさえある。

 ここで死にかけていたのが昨日の事のようだ。

 大仰な言い方をすれば始まりの地とも言える思い出深い聖地である。

 暫し感傷に浸った鉄華は朝焼けの薄明かりの中、冷え込む川の水を汲み上げて墓石へと戻っていった。


 ――が、ふと立ち止まる。

 墓石近くの気配。

 鉄華は鉈を握る手を前に構え、桶を下ろして空いた手でボディバッグから熊よけスプレーを取り出してトリガーを握った。

 そして警戒を維持しながら少しずつ間合いを離していく。

 時間はいくらでもあるので無理な逃走はしない。

 熊がいるとは不玉から聞いたこともないし、供え物も酒以外の食料を避けている。

 畑周りも忌避剤を散布して野生動物は近付けないようにしている。

 食料探しではなくただ通り過ぎる鹿か猪と遭遇しただけ、そう結論していた。


 しかし、事実は鉄華の想像を超えていた。


「おい、春旗だろう? そう殺気立つな。熊か猪かと警戒されるのは流石に傷付くぞ」


 向けられる声。

 その声の主を鉄華は知っていたし、彼女が小枩原邸を相続して住み着いていることも知っている。

 だが、この場に現れることは全く考えてもいなかった。


 鉄華は微塵も警戒を緩めず歩を進め、声の主と対面した。

 着物の上に厚手の羽織を重ねた出で立ち。

 前に下ろした黒髪が隠す顔の半分は火傷痕のように醜く変形している。


 そこには小枩原家を因縁の渦に巻き込んだ張本人、篠咲鍵理が立っていた。




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