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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十話
146/224

【華麗】⑤

   ◆




 返り血が雨のように降り注ぐ。

 死と隣合わせの緊張感で痛みは麻痺しているのかもしれない。

 それでも左太腿を突き抜ける感触に恐怖したのか、春旗鉄華は即座に腕ひしぎを解き、右足で踏み抜くように蹴りを放って距離を置いていた。


 冬川は追わない。

 手放した真剣を拾い直すことを優先した。

 手負いの獣には捨て身の攻撃という選択肢があるからだ。

 出血量は充分。大きな動脈を傷付けることには成功している。

 積極的に攻めなくても待っていれば勝利できる状況であった。


 冬川は初めて刃物で人を刺した良心の呵責を思考の中で肯定化していく。

 卑怯であるとは思わない。

 体格の違いで格差が生まれるスポーツをしているのではない。

 向かい合って始まるまでは礼を尽くすが、一度始まれば総動員。

 身体も技も武器も知恵も全てを使って、考えられる不利な状況を潰していく戦い。

 真剣を抜いておいて短刀やナイフは禁止などというルールや共通認識など存在しない。

 例え銃器が出てきても生き残る手段を考えておくのが現代の武術である。

 互いに了承の上で挑んだ以上、全ての選択肢に於いて平等である。

 春旗鉄華が木刀を選んだからといって同じ武器に変えてやる義理はなかった。

 木刀と安心させてから隠していた刃物で襲いかかる可能性もゼロではないからだ。

 まさか本当に不殺の心置きで策もなく挑んで来るとは思わなかったが、その責任は彼女自身が背負うべき教訓である。


 冬川はただひたすらに腹立たしく思っていた。

 春旗が一叢流を学んだ期間以上に冬川は古流に触れている。

 春旗はその事実を軽視しすぎているのだ。

 最後の最後に身の丈に合わない手加減を始めて、結果失血死しようとしているライバルの醜態は見るに堪えない。


「無様ね」


 言葉にせずには居られなかった。

 あれだけ柔術流派であることを主張しておいて、至近距離の刃物を警戒していない甘え。

 小枩原不玉や泥蓮ならこんなミスは犯さない。


 視線の先の春旗は動かないままでいる。

 いつの間にか手拭いで足の付け根を縛り上げている辺り、おそらくは患部を押さえる圧迫止血で乗り切ろうとしているのだろう。

 数十分もそうしていれば止血は成功するかもしれないが戦闘の続行は不可能である。

 既に勝敗は付いた。

 春旗はここからどうするつもりか。

 止めどなく流れる血液に錯乱し気絶するのか。

 敗北を認めて救急医療を要請するのか。

 ヤケになり相打ち覚悟の特攻をするのか。

 せめて最後まで見届けてやろうと冬川は中段構えを突き付けたまま眺めていた。


 春旗は動かない。

 土に染み込まない程の血溜まりの中で、スポットライトの光が夕日のように輝いている。

 充満する鉄の匂いが冬川の元にも届き始めていた。


 春旗は、まだ動かない。

 冬川は気付く。

 動けないのではない。

 呼吸を刻み、戦う意志を絶やしてはいない。

 何故動かないのか。

 何を待っているのか。


 冬川が疑問の答えを探り始めた瞬間、春旗鉄華は立ち上がった。

 距離を取った時に位置取りをしていたのか、足元にある祖父の真剣を左手で拾い上げている。

 今更やる気を出したのだろうか。

 出血による血圧の低下、集中力と判断力の低下は免れないというのに。

 まともに食らった目潰しも未だ回復はしていないはず――、


 冬川は眼前で展開される異様な光景に、言葉どころか思考すら止めてしまう。


 赤色の顔貌。赤色の双眸。

 春旗の顔面は血で染まっていた。

 肌や白目が見えなくなる程の赤色の中、黒い虹彩だけがぽっかり空いた穴のように異形の視線を向けている。

 見ている。

 見つめ返している。


 なんてことはない。

 土砂で汚れた眼球を自らの血液で洗ったのだ。

 患部を押さえながら手の平に充分な量の血液が溜まるのを待ってうずくまっていたのだ。

 錯乱も降参も逃亡も特攻も、彼女の選択肢にないことを示していた。

 全ては、戦いを続けるために。

 春旗鉄華は未だ折れていない。


 冬川は頬が緩み、涙が滲んだ。

 追い抜かれて、追い越して、また同じ地平に並ぶ宿敵が死の恐怖を制して相対している。

 木刀ではなく真剣を携えたのはようやく信じてもらえたからだ。

 生死を問わず全力を出さねばならない相手だと。

 全てを受け止めることができる同格以上の遣い手だと。

 不殺などというのはただの結果論であり、覚悟でも美学でもない。

 一方的にぶつけていた想いは今、互いの魂に触れ合う交合へと昇華していた。

 冬川は止め処なく溢れる感涙もそのままに声を上げた。


「そうよ。それでいいの。私はここにいるわ、鉄華」


 全冬川亜麗と全春旗鉄華の衝突。

 ここまで来れたのなら、もうどちらが死んでもおかしくはない。

 どちらが死んでも納得して受け入れることができる。

 もはや失血死を待つなどという怠惰は許されない。

 歓喜とも愛情ともいえる殺意を乗せて、冬川は先に飛び出していた。




   ◆




 会場の屋根を叩く雨音。

 気圧差で場内を流れる空気の音。

 呼気、吸気。

 道着の衣擦れ音。

 土の粒が人間の重みで軋み合う音。

 相手の心音。

 身体を流れる血液の音。

 筋収縮の音。


 鉄華は聞こえる音全てに耳を傾けている。

 ノイズとしての総体を細かに分解して、一つ一つの意味を考えていた。

 音が聞こえるということはそれぞれの振動が鼓膜という障害物にぶつかっているからである。

 眼前の冬川は弾けるような爆音を撒き散らして行動を起こしていたが、かと言って他の音が消えるわけではない。

 人間一人が起こせる振動などその程度のもの。

 大海に投げ込む一石でしかないのだ。


 ならば自身も大海となり、抗わなければいい。

 冬川の剣よりも遥か前に到達する振動に従い、受け入れる準備を以て待っていればいい。

 鉄華は朦朧とする意識の狭間で不定形な自己の輪郭をあるがままに歪めていた。

 鼻先に到達する剣尖。

 切先、ふくら、三ツ角、物打ちの刃紋。

 鏡面のように磨かれた刀身に映る自分の姿を見て笑う。

 酷いものだ、と。

 鼻先から上が血塗れの化物がいる。

 歌舞伎の隈取でもここまでヤケクソなものなど無い。

 戦いが終わったらまず顔を洗わなければと思う。


 冬川の突きが逸れていく。

 膝抜きと身体の引き寄せから始まる起こりが見えない珠玉の突き技だが、空気を掻き分ける振動の方が先に伝わる。

 ただ波を感じ取り、水面に浮かぶ木の葉のように揺らめけばいい。

 しかし、さすがは冬川と言うべきか。

 首振りだけで紙一重の回避をしたつもりだったが、冬川は即座に軌道を修正し、顕になった首筋を撫でるように刀身を引き戻し始めていた。

 ここから体幹を維持したまま間に合う回避方法はない。

 鉄華は迷うことなく左腰から祖父の刀を持ち上げ、鞘の重みごと冬川の太刀にぶつけた。

 運足は柳生新陰流の如く踵を残し、浮かせた爪先で蹴り込むように体重を乗せて迫る。


 重みで勝てないことを悟ったのか。冬川は更に動きを変化させて対応していた。

 剣道で言うところの引き技に近い。

 鍔迫り合い無しで相手から離れる足運び、その最中に引き小手を狙っていた。

 刺し面と同じく、まるで突き技のように小手の内側に差し込まれる打ち込みは小野派一刀流の型で見たように思える。

 撃剣大会で有用な技ではないが、刀剣の切断力を活かす斬り合いならこれで充分なのだろう。

 鉄華は鞘から柄へと握りを移行し、膝抜きで冬川の小手を回避しながら抜刀していた。

 蓬莱と銘打つ刀。

 古代中国では仙人が住むとされる蓬莱山、或いは蓬ケ島(よもぎがしま)を指す言葉だが、日本に於いては主に富士や熊野三山といった霊峰を指し示す。

 銘が仙力を宿すわけではないが、春旗鉄斎の魂を宿す刀と四肢が邂逅し、染み付いた術理へと導いてくれるように思えた。


 中空に鞘を残したまま膝抜きから立ち上がると自然と刀を担ぐ構えになる。

 在りし日の庭で見た祖父の型を想起した鉄華は、逆らうことなく流れに身を委ねるように記憶を再現していく。

 冬川の左側面を撫でるように回り込みながら袈裟斬りを振り下ろすと、当然のように冬川も回り込む運足で袈裟の内側へ回避する。

 だが、初手は虚である。

 振り切る前に手の内で向きを変えた刀が下段から立ち昇り、再度冬川を捉えた。


 鉄華の脳内で予測していた手応えは虚空を斬って空振る。

 古流の運足を修得した冬川は速いなどという次元ではない。

 左右の転換すら鉄華の一挙動の間に収まる速度であった。

 斬り上げを空振って居着く両手の隙間から、顔面を平に突く剣閃が伸びて来ている。


 しかし、春旗鉄斎の型は三度目に集約されることを冬川は知らない。

 空振った斬り上げがそのまま高めの八相構えになっていることに気付く程の時間は彼女に無かった。

 師である篠咲が何度も見せた構え【蜻蛉】。

 そこから放たれる最速の一撃【雲耀】と、粘りの後の先【合撃(がっし)】の融合。


 誘われ居着かされた末に迫り来る必殺の一撃を、速さを突き詰めたはずの冬川は目視することすらできなかった。




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