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どろとてつ  作者: ニノフミ
第三十話
143/224

【華麗】②

   ■■■




 どちらかと問われれば、恵まれた人生であると冬川亜麗は答える。

 著名な陶芸家を父として中流以上の家庭で育ち、飢えること無く、何かを押し付けられること無く、温和な家族環境で育ってきた人生に不満を漏らす方がどうかしている。


 ――だからこそ、と言えるのかもしれない。


 日々の生活に何不自由ない人間は時間に余裕があり、必要以上に人生の意味を考えてしまう。

 与えられるだけの道筋に転がる、普通の人間は気にも止めないような引っ掛かりにすら思考を巡らせては不満を感じてしまう。

 どんな環境にいても積極的に思い詰めれば不満などいくらでも掘り出せる。

 そんな贅沢な悩みで一々憤ることはおもちゃ売り場で駄々をこねる子供のようなものだ、と冬川は小学生の時分には理解していた。

 客観的、相対的な視点を持てばどんな苛立ちも不満も些細なものでしかないことは分かっているのだ。


 しかし中学一年の夏、春旗鉄華と出会ってしまった。


 長い時間耐え忍んで唯一自分自身の手で掴んだ剣の道を全否定する存在に。

 技は拙く、覚悟も甘く、生まれ持ったフィジカルだけで恥ずかしげもなく剣道を踏み荒らしていく災害に。

 どんなに鍛錬を積み工夫を凝らそうとも勝てない才能という差を有り有りと見せつけてくれた。

 悔しくて悔しくて、やがて憎しみに変わると同時に、冬川は女子剣道の限界が見えてしまう。そして嫌という程知ってしまった。

 体重差、リーチ差を埋める技など無く、競技としての剣道で生き抜くだけの才能が自分には無い。

 なんという時間の無駄だったのだろうか。

 何不自由ない人生を用意されているだけの凡人ではないか。

 全てを賭けた三年の夏でも負けてしまった冬川は、もはや竹刀を握る気力すらなかった。

 絶望の底で進学すらどうでもよくなっていた。

 ただただ自分の弱さに白けてしまったのだ。




 目を開けると闇が広がっている。

 大会会場の観客席から見える場内は、天窓の僅かな陽光だけを頼りに朧気ながら輪郭を浮かべている。

 急遽中止が宣告された大会は撤収作業の日程を早めることはなく、廃墟のように静謐な空間だけを残していた。

 観客や審判どころか警備員さえ居ない。

 真剣を用意して防刃服は用意しない辺り能登原の悪意を感じるが、冬川の目的からすれば充分に仕事をしてくれている。

 

 ――もうすぐ。


 もうすぐで、殺し合いが始まる。

 冬川は競技を離れ、剣の道本来の意味に生きる意味を求めた。

 つまらない意地と言われてもいい。

 しがみついた蜘蛛の糸が地獄へと続く悪魔の誘惑であっとしても後悔はない。

 自分の存在が不確かなまま埋没して生きていくくらいならば、自ら腹を切ったほうがマシだ。

 何のルールも無く、フィジカル差が絶対の有利にはならない闘争。

 試合ではなく、殺人技術としての剣の道。

 きっと傍から見れば「頭がどうかしてしまっている」凶行でしかないだろうが、今やこの瞬間だけが心の支えである。

 上には上がいる。一度倒した春旗鉄華を再度斬ったところで心の乾きは消えないだろう。

 それでもこの先の人生、彼女を完全に乗り越えたという実感が欲しい。

 同じく古流を手にしたかつてのライバルがどの程度なのか、衝突の瞬間に思いを馳せて心が猛る。


 遠くで金属の扉が閉まる音がすると、冬川は席を立ち、観客席の脇を通り抜けて競技場へと向かった。

 時刻は十七時。

 どちらかにとって人生の終わりとなる逢瀬の時間が始まろうとしていた。




   ◆




 思いが錯綜し、混乱しそうだった。

 踏み出す一歩一歩が深い泥沼へ沈んでいくように思える。

 誰もが覚悟の上で立った舞台。

 その重みに耐えきれず、春旗鉄華は大きく深呼吸した。


『居着きを捨てろ』


 師の声が響く。

 何度も、何度も繰り返す。

 

 ――そんなの、無理です。


 全てを教えてくれた師はもういない。

 手足に宿る技。心に根付く教え。何もかもが自分のものではない。

 与えてくれた本人が死んだ今、抜け殻のような春旗鉄華しか残っていないというのに何を支えに戦えばいいというのか。

 こんなことをしている場合じゃない。

 今すぐにでも引き返して最後の最後まできちんと看取るべきなのだ。

 しかし、不玉がそれを許さないことも分かっている。


『冬川とか言ったか。あやつはお前が救ってやれ』


 死期を悟りながらも弟子に残した言葉を裏切る訳にはいかない。

 呪いとも言える最後の言葉を全うすべく、鉄華は約束の場に現れた。


 ――自分で勝手に救われてくれればいいのに。


 視線の先の冬川を睨む。

 分かっている。

 彼女を歪ませたのは春旗鉄華であり、救う救わないを問わず戦う責務がある。

 あれほど望んだ瞬間なのに、吐き気すら覚える狂気の時間と化していた。


「時間通りね」

「冬川さん……」


 闇に浮かぶ輪郭が言葉を吐く。

 笑っている。

 何がそこまで可笑しいのだろうか。


「貴方の刀よ。受け取りなさい」


 そう言って冬川の手から放り投げられた黒鞘が鉄華の足元に落ちた。

 瞬間、鉄華は目を見開いた。

 黒い石目塗りの鞘に黒無地の鍔。

 蓬莱(ほうらい)。見紛うことのない祖父の刀だ。

 この場を用意した能登原の悪意が存分に伝わる演出であった。


「何をしているの? 細工がないか確かめる時間くらいあげるわ」


 冬川は帯刀している。

 本気で真剣同士の殺し合いを望んでいる。

 鉄華は地に転がる刀を無視して、腰帯に差さる枇杷の木刀を引き抜いた。

 そして祖父の刀から離れるように回り込み、慣れ親しんだ八相の構えに入る。


「何のつもりかしら? あまりがっかりさせないで欲しいわね」

「私は……冬川さんを倒しに来ただけです。殺しに来たわけじゃない」

「ふざけるな!」


 誰も居ない場内に怒号が反響して響き渡った。

 冬川の激昂は理解できる。

 だがそれ(・・)だけは出来ない。

 得物が祖父の刀ならば尚更だ。


「私がどれだけこの瞬間を待っていたか分からない貴方ではないでしょう!?」

「何でも勝手に決めつけないでください。冬川さんは真剣でいいですよ。私はこれ以外有り得ません」


 失望。憤怒。怨嗟。

 感情のコントロールができない冬川は意図から外れた裏切りに震えていた。

 鉄華には今だ迷いがある。

 会話の合間に互いの弱点が浮き彫りになっていた。

 真剣と木刀。少なくとも心で上回らなければ鉄華に勝ち目はない。

 鉄華は心中に渦巻く様々な居着きを払拭すべく、静かに呼吸を刻み始める。


「……ふっ、ふふ、そう、あの女ね。あの師匠気取りの間抜けが貴方を弱くしたのね」


 聞き捨てならない言葉があった。

 稚拙な煽りだが、鉄華は無視できず呼吸と思考を止めていた。


「私はね、観ていたのよ。小枩原不玉と鍵理さんが戦うのを。……ふふふ、哀れだったわ。なりふり構わず毒まで使ったのに地べたを舐める結果になろうとはね。貴方も同じ末路を辿りなさい」


 視界が歪む。

 観ていたことはいい。だが、不玉を侮辱することだけは許せない。

 悩んで悩んで悩み抜いて、最後に命を賭して螺旋を壊した生き様を観ておきながら、こいつは何も学ぶことはできなかったのか。


 ――お前ごときに真似できるわけがないだろう!


 言葉は出ない。出す必要もない。

 噴出する怒りを剣に乗せて、鉄華は勁草で踏み込んでいた。




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