【喪失】⑥
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「私は呆れてるんですよ? 聞いてますか、不玉さん」
「おうよ、聞いておる聞いておる」
焼肉屋『樹々苑』の座敷部屋。
立ち込める煙を掻き分けて語りかける鉄華は、頬を赤らめて酒をあおる不玉に語気を強めていた。
脳挫傷の緊急手術からまだ一日しか経っていない。
絶対安静にも拘わらず動き回れる不玉の体力には驚きを隠せないが、それよりも呆れる思いの方が大きい。
今頃病院側は行方不明患者の捜索に奔走していることだろう。
「まー不玉ちゃんのことだから肉食ってればすぐ回復するでしょ。プラナリアも真っ青な野人の回復力を見れるわよ」
「うむうむ。高い肉であればあるほど回復は早まるのじゃ」
遠路遥々見舞いにやってきた古武術部顧問の八重洲川富士子もほぼ出来上がっている。
大吟醸の酒瓶を抱えて横になった体勢で、目蓋を閉じたり開いたりして睡眠の準備に入っていた。
飲み会も終盤。
会計を任される為だけに呼び出されたことを察した鉄華は頭痛すら感じている。
「三日連続で私持ちって酷くないですか?」
「なにおう~、先生は鉄華ちゃんが金持ちだってことちゃんと知ってんだからね! どーせ学祭の出店で小銭稼いではしゃいでた薄給公務員を嘲笑ってたんでしょ!? う……ううっ……酷いのはどっちだってんだチクショー!」
「富士子先生は声のトーン抑えてください。店に迷惑です」
どこで知ったか富士子に資産状況を知られているのはマズい。
不玉が口を滑らすとは考えらない。
鉄華は即座に情報の出処が泥蓮であることを悟り、早急な口止め方法を脳内で構築し始めていた。
「心配せずとも今回の支払いは儂が持つ。鉄華はこのバカの介護を任せたぞ」
「先生なんかその辺に置いとけばいいじゃないですか。今心配なのは不玉さんの方です。お願いですからさっさと病院へ戻ってください」
「病院食のカロリーでは身体が衰えてしまうのじゃ。多少は目を潰れい」
「駄目です。タクシー呼んでますからもうお開きにしてください」
言うや否や、いびきをかき始めている富士子を肩で支えて持ち上げ出入り口へ向かう鉄華。
目端で捉えた不玉は酔いが回っているのか、足元が覚束ないまま立ち上がって壁に手をついて体を支えていた。
不玉がここまで酔うのは珍しい光景である。
やはり想像以上に弱っているのだろうと察して、空いてる肩で不玉も支えて退店することになった。
店内は喧騒に包まれている。
無遠慮な客の怒号、酔っぱらいの対応に追われる店員の足音、グラスや瓶がぶつかり合わさる甲高い音、鉄板の上で跳ねる油の音、食欲をそそる白煙を吸い込んでいく換気扇の音。
その裏側で静かに流れているクラシックピアノの店内BGMを鉄華は聴いていた。
題名は分からない。
ただ喧騒の奥で誰も耳を傾けないまま悲しく響く旋律が心に残る。
疲れた、と声に出したい気持ちがこみ上がってきた。
この三日間、色々なことが起こった。色々なことを考えた。
だが、それも今夜まで。
撃剣大会が決勝を待たずに終わることは、予想するまでもなく明らかであった。
◆
「月夜が綺麗じゃ。少し歩こう」
富士子をビジネスホテルに押し込んだ後、乗り合わせたタクシーから降りた不玉は独り言のように呟いて歩を進めていた。
病院までは然程離れていない。
師の気まぐれに付き合う気力はあまり残されていなかったが、行方が分からない能登原が気になる鉄華は護衛の役目を果たすべく不玉に追いついて歩調を合わせる。
午後十時を回る歓楽街を離れた街並みは不気味なほどの静けさを保っていた。
等間隔に並ぶ街路灯が規則的な明暗を二人に落とす。
時折通り過ぎる車でさえ、どこか規則的に流れてくるようにすら思える。
流石は不玉と言うべきか、酔いで覚束ない足取りは既に見られず、正中線を維持した普段の歩みを取り戻していた。
「鉄華や、どうじゃった?」
師の声が響く。視線は斜め後ろを歩く鉄華にではなく、虚空で輝く黄金に向けられている。
「何がですか?」
「大会のことじゃ。この三日間、得られるものはあったか?」
不玉も大会の終了を悟っているのであろう。
泥蓮らの凶行を止める為に動いていた鉄華だが、本来は修行の一環で参加していたことを思い出し、参加者たちの死闘へと思いを向ける。
改めて考えるまでもなく、答えは出ていた。
「学ぶことは多くありましたが、同時に怖くなりました」
「ほう」
「勝った人、負けた人、恨んだ人、恨まれた人、きっと誰もが守山さんの言う『戦いの螺旋』からは逃れられないと思います。強さを求め、振るう機会を求めてしまったら、もう、護身ではなくなるのでしょうね」
「はは、耳が痛いの」
守山為久は剣を置くことを選んだ。
いつか誰かに打ち倒されることに怯え、誰かを打ち倒すことを怖れて身を引いた。
鉄華は未だ強くなる鍛錬を放棄する気はないが、彼の選択が間違いであると否定できるだけの言葉を持っていない。
言葉を求めれば求めるほどに自分の歪みを認識させられるだけである。
「鉄華、儂はの、完全なものに憧れていたのじゃ」
不玉は夜空を見上げたまま静かに語る。
弟子の不安を言葉に変えようと、自らの足跡を辿り始める。
「崩れなく、汚れなく、鈍りなく、傾きなく、憂いなく、惑いなく、時間からも切り離されたように変わらない強さと精神。あの日親父が見せたように、有象が見せたように、全てのしがらみから解き放たれた純粋な強さを求めた。完全へ近付く簡単な方法は、よりシンプルになることじゃ。だから山奥に閉じ籠もり人間社会から離れてみたりもした」
命を賭す苛烈な修行の果てに不玉を超える強さを得た小枩原有象。
それは不玉にとっても憧れと言える最終型に到達していたのだろう。
「じゃが、それは間違いじゃったと今は確信しておる。篠咲もある種の境地に達しておるかに思えたが断じて違う。本当の強さとは自身を取り巻く複雑さを受け入れることよ。拒絶し破壊する手段しか持たない者の末路たるや、それは何とも哀れなものじゃ。
よいか? 強さは思考停止の中にはない。深く考えること無く、暴力で乗り越えていく者はいつか破綻する。だからお前はそのまま悩みつつ足掻きつつ生きてゆくがよい」
不玉の考える答えは、決して自分や誰かを不幸にするものではない。
暴力しか答えを持たない者は必滅する定めから逃れることは出来ないのだ。
それを受け入れることが士道であるとする者もいるが、少なくとも鉄華の求めるものではない。
「鉄華や。泥蓮はああ見えて芯は出来ておる。自分のことは自分で何とかするじゃろうて。だが冬川とか言ったか。あやつはお前が救ってやれ」
「救う、ですか?」
「うむ。溢れた水を掬うようにの」
大会後に冬川と戦うことは誰も知らないはずである。
しかし、不玉は鉄華が抱える螺旋が何であるかは知っている。
近からず衝突することを察して言葉を向けていた。
「救うだなんて、そんなのどうやればいいか分かりませんよ。そこまで冬川さんの人生背負えないです」
「なぁに、お前なら大丈夫じゃ。よくよく工夫せよ」
ようやく鉄華に視線を向けた不玉は、いつものように頭へ手を伸ばし髪をくしゃくしゃと撫で付ける。
月明かりの逆光で隠れた表情は見えない。
不玉は何を思うのか。
弟子に何を期待するのか。
何故一叢流を教えたのか。
いくら考えても答えは見つからない。
こんなにも求めて止まないのに、今すぐにでも成長したいのに、眼の前には無慈悲な月光の帳が浮かぶだけであった。
気付けば病院の夜間出入り口へと差し掛かっている。
時間は待ってくれない。冬川との戦いもすぐそこまで来ている。
「ここでよい。お前も疲れたじゃろう。今日は夜更かしせずに眠るがよい」
「……分かりました。おやすみなさい、不玉さん」
「うむ、またの」
いつもの挨拶はまるで今生の別れのような空虚さを漂わせていたが、鉄華はただ師の背中を眺めて立ち竦むことしかできなかった。
◆
夜間出入り口の警備員に挨拶して、長い通路を抜ける。
救急医療で担架が通る道。
消毒の塩素やアルデヒドが混じり合う匂いの中に、微かな血臭がある。
夜の病院には特別なものがある、と不玉は感じ取っていた。
霊的なものは一切信じないが、それでも怨念とも取れる死の気配が浮き彫りになっている。
息が切れる。
視界が歪む。
飲酒が原因ではない。
視界が落雷のように白く光り、そして赤に染まる。
病室で目覚めて以来、何度も頻発する明滅だが、今回は意識すら途切れる規模の波が到来していた。
――ああ、これは駄目じゃな。
壁の手摺りを掴む力すら入らない。
力無く地面に倒れ伏す音すら聞こえない。
それでようやく気付いた。
死の気配を発しているのは自分であると。
不玉は己に問う。
――儂は何になろうとしたのか。
人生は川のようなものだ。
澄んだ水も、淀んだ澱も、汚泥やゴミですらも飲み下し、纏めて流していく大河。
人生は嘘と欺瞞と演技と偽物で満ちている。
真理に到達し、その川底に触れることができる者はほんの一握り。
地位を築き財を得た者とて特別ではない。
どんなに心を尽くしても届かない者がいる。
歪んだ価値観を固定させてしまった忌むべき者もいる。
しかし一方で彼らは彼らで社会の役割を持ち、大切な友人も、尊敬する先達も、家族だっているだろう。
人間の二面性というのは観測者の立場の違いでしかない。
生来の悪など存在せず、演じざるを得ない環境があるだけだ。
篠咲や能登原とて変わらない同じ人間である。
清濁飲み下す広さと深さは経験を以てして作られ、それ以外の道はない。
故に、暴力の一路にて水月を掴み取った者たちは苦悩の人生を送り、生死を賭けた戦いの中にしか生きる意味を見出すことが出来なかった。
故に、不玉は別の道を歩むことに努めた。
だが、全ては遅かったのだ。
――眼の前にはこんなにも開けた道があるのに、答えを見つけたというのに、もはや這い進む力さえ湧かぬのか。
喉が渇く。
急激な眠気が襲い来る。
その最中、不玉は満足していた。
今は気分が良い。
誰も死なせず一応の決着を付けることができたからだ。
先のことは分からないが、きっとこういう積み重ねを出来る者こそが辿り着く地点があるように思える。
完全でなくともいい。
逃げることなく苦悩し、葛藤し、熟考の末に納得して身を委ねられる思想の軸を持つ。
そして最後の最後に想いを実行することができた。
自慢の弟子に伝える猶予もあった。
ならば何の憂いもない。
笑って逝くだけのことである。
霊的なものは信じないが、もし存在するのならばどんなに素晴らしいことだろうか。
笑って、笑って、最愛の者たちが待つ階段を駆け上がっていくだろうに。
空を切る手先で感じる温もりが本物であったなら、これ以上の至福はないだろうに。
――ああ、草眼よ。儂は幸せな人生を全うしたぞ。
言葉にしようとも声は出ない。
意識に掛かる暗雲がゆっくりと濃度を増していくのに委ね、不玉は満足そうに笑みを浮かべて瞳を閉じた。
午後十時三十分。
外傷性脳内血腫にて、小枩原不玉は激動の生涯に幕を下ろしたのであった。




