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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十九話
140/224

【喪失】⑤

   ■■■




 夜九時を回る頃、大会会場の一角にある能登原の私室の明かりだけは消えないでいた。

 

 書斎棚のガラスケースに並ぶ酒瓶から、特に凝った意匠が施されたクリスタルガラスの一本を取り出す女。その手は震えている。

 手にしたブランデーの価値を慮ってのことではない。

 積み重なる問題が瓦解の一方を辿るだけではなく、能登原英梨子の残務処理の過程であってはならない不発弾を発見してしまったからだ。

 能登原家の秘書課長、舞園璃穂(リスイ)は心底青ざめていた。


 M資金、及び内閣の収賄。

 政治献金の手引きをしていた舞園ではあるが、金の出所までは知らされていなかった。

 現段階でも警察と公安相手の綱渡りをしているのに、戦後隠匿物資の行方が絡むともなれば間違いなく検察が動く。

 古くは隠匿退蔵物資事件捜査部。

 現在は国内最強の捜査機関である特別捜査部が出てくる案件である。

 白日の下へ晒されれば能登原英梨子個人を生贄にして終わる話ではなくなる。

 能登原家と内閣が特捜と対立する構図にまで発展した際、警察も絡んだ違法捜査が明らかになり公訴権という面子を賭けた内戦状態になる。

 そこまで行くと血みどろの相関図の中で不都合な者が次々と暗殺される可能性すらあり、それは舞園本人にも飛び火するだろう。

 現状、検察はどこまで把握しているのか。

 もはや猶予はそれほど残されていないように思える。


 撃剣大会にしても限界が見えている。

 滝ヶ谷とかいうイカレが故意の反則による殺人を実行してしまった。

 これも彼女を処分して終わりという話ではない。

 ネット中継もしている衆目の前で本当の殺し合いを観せてしまった以上、是も非もなく興行の中止命令が出るだろう。

 明日の日程なら世論を無視して敢行できるかもしれないが、得られる対価と降りかかる厄災の帳尻が合わない。


 また、殺された男、犀川秀極は八雲會と呼ばれる地下闘技のVIPであることも分かっている。

 稼ぎ頭を潰された報復の矛先が運営に向かないとも限らない状況。

 出資者である能登原ならいざ知らず、舞園には八雲會とコンタクトを取る術すらない。


 能登原が不在の間に全権力を奪うつもりでいた舞園であったが、命を賭ける覚悟までは無かった。


 舞園は開封したコニャックの瓶を傾けてグラスに指三本分程注ぎ、一息で飲み干す。

 追いかけるようにもう一杯。

 不安感を紛らわす意図で口にしたものの、喉が焼けるばかりで全く酔うことは出来なかった。

 完全に詰んでいる。八方塞がりでどこにも味方がいない。

 居直っても死を待つだけ。全てを捨てて逃げ出せばこれ幸いとばかりに全責任を被せられるだろう。


 ――どうしてこうなった? どこで間違えた?


 思考は無意味な方向へと逃避を始める。

 今更過去の選択を悔やんでも物事は動かないというのに、行き場を失くした怒りを過去の自分へと向けていく。

 そんな心境を自己分析しながら舞園は「もうおしまいだ」と小さく呟いた。

 茫然自失の視界は暗く、底の見えない深海の只中に漂う藻のように揺らめいていた。


 だから理解が遅れたと言えよう。

 孤独の執務室に入室してきた男がいたことに、声をかけられるまで気付けなかった。


「良い酒が台無しだな」

「は? ……え?」


 朦朧とした意識に介入する低い声に、舞園は驚くでもなく呆けた顔を向けることしかできない。

 壮年の男。眼帯に無精髭、トレンチコートで隠し切れない身体の輪郭が積み上げた鍛錬を物語っている。

 何処かで見た記憶があるが誰だか思い出せない。

 思い出せなくてもどうでもいい。

 或いは、いずれかの組織が派遣した殺し屋かもしれないが、いっその事失意のどん底で瞬殺してくれるならそれも悪くはないと思えた。


「こいつは一世紀以上前の原酒を含んだブレンデッドでね、安酒気分で気まぐれに開けるもんじゃない。開ける時があるなら余程の祝い事でなくてはな。例えば、そう、新たな人生の門出を祝う時とかな」


 男は新たにグラスを棚から取り出して机の上に置く。

 そして左眼で舞園をじっくり観察してから、二つのグラスにコニャックを注ぎ始めた。


「それに良い女も台無しじゃないか。アンタみたいな美人には笑って生きていて貰いたいもんだね」

「……失礼ですが、どちら様でしょうか?」

「俺? 俺は由々桐というただの詐欺師だよ」

「警備を呼びますよ?」

「まぁ話くらいいいじゃないか。今のままだとアンタはどこぞの誰かに殺されてしまう。能登原本家か、政治家か、はたまた八雲會か。それは俺的にも、正義の味方的にも見過ごせないことなんでね、舞園さん」


 迂遠ではあるが核心を突く言葉に舞園は言葉を失った。

 殺し屋ではない。

 詐欺師を名乗りながら助け舟を出そうとしているのだろうか。

 続く言葉を待つ舞園は、ようやく脳を巡り始めたアルコールに少し後悔し始めていた。

 努めて冷静に頭を働かさなければならない場面。

 差し出されたグラスを無視してミネラルウォーターに手を伸ばした。

 その様を満足気に眺める由々桐はポケットから銀のシガーケースを取り出して、口元で手を動かすジェスチャーと共に口を開く。


「タバコ吸ってもいいかな?」

「駄目です」

「どこもかしこも世知辛いねえ。今に喫煙自体が犯罪になったりしてな。偏西風の風上は公害を撒き散らす喫煙国家だってのに」

「……時間が惜しいのよ。さっさと本題に入りなさい」


 由々桐は失意の溜め息を飲み込んだかのように微笑んで、代わりにグラスを持ち上げる。

 香りを楽しみ、舐めるように一口飲んでから、二口目で一気に飲み干して「やはり良い酒だ」と感想を漏らした。


「ところで舞園さんはどうも俺の事を忘れているようだが、俺は大会参加者として能登原の身辺警護をしていた者だよ」

「あぁ、どおりで」

「思い出してくれたかい? 更に言えば能登原を拉致して今の状況を拵えた元凶が俺だったりする。いやぁ悪かったね。責任感じるよ」

「……」


 驚きはない。

 身辺警護を任されながらも平然とこの場に現れた時点で立場を明確にしている。

 問題はそうまでしてこの男は何を得たかだ。


「今の所アンタにとって最悪中の最良は検察に庇護を求めることだ。少なくとも一定期間は命が保証される。でもそれじゃ不十分だろ?」


 それは言われるまでもなく最終手段として検討している。

 近年、日本にも司法取引制度が作られたので情報提供者として振る舞えば被害者を演じられるだろう。

 しかし、それでは駄目だ。

 検察以外の全員を敵に回すことになり、司法を頼っても全ての敵を潰すことなど出来ない。

 政治家でも八雲會会員でもたった一人逃してしまうだけで終わり。待つのは権力者の報復である。

 舞園の詰みは孤立無援であることに起因し、今はまだポーン一つで挑むチェスのような状況だ。


「生き延びるには権力の枠組みに飛び込まなければならない。そこで俺が助け舟を出そう。もちろん俺もアンタを使わせてもらうがな。最悪よりは幾らかマシって程度の綱渡りなんだが聞いてみるかい?」


 一縷の望み。

 職務上自分を殺して他人の意図の中で泳がされることには慣れている。

 失意の底から急に掬い上げる親切がまやかしであることも分かっている。

 とは言え他に選択肢があるわけでもない。

 本来は一笑に付す詐欺師の提案だが、相手は能登原を陥れた男である。

 猜疑心の中に微かな期待があるのは否定できない。


「いいわ。私はもう踊るしかないもの。貴方のエスコートを断る理由は無いわね」


 どう転んでも終わるのならば、せめて最後まで華麗にステップを刻みたい。

 我欲の果てに自身の誇りを取り戻した舞園は、未だ震え続けている手に気付き、男が人生の門出と言った祝杯を再度持ち上げるのであった。




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