【喪失】③
◆
円弧の軌道によって遠心力を乗せた長さ二.六メートルの鉄薙刀。
人の身で辿り着ける限界の筋力によって操作される先端は、一般的な刀剣術とは別次元の威力を内包している。
防御不能の一撃必殺。
日馬琉一は両手に握る十手と徒手格闘家として鍛えた身体能力で止めることが出来たが、余人が刀一本で防ぐことは敵わない。
その必殺を、犀川は逃げ場のない空中で弾き飛ばしていた。
取った行動は、『振り下ろされる薙刀を横から蹴り飛ばす』である。
腰を捻り手足を振る体重移動で空中での回転力を発生、そのまま突き出す右膝で薙刀の真横を捉えて軌道を強引に曲げていた。
受ければ必殺の重量である鉄薙刀だが、速度は犀川の予想を上回るものではない。
然らば受けず、弾く。
犀川はこの日に備えて身体操作が制限される空中での戦い方を研究している。
跳躍からの攻めを得意とする日馬との戦闘を想定してのことであったが、奇しくも日馬を倒した相手への使用を余儀なくされていた。
滝ヶ谷は薙刀が真横に弾かれた瞬間、何が起きたのか理解できず居着いている。
慮外。予想外。
もし彼女が事前に犀川の特別を知って対策行動を検証していたのならば、薙刀を振り下ろしつつ刃の向きを変える【袖切】で膝頭を破壊できていたであろう。
しかし知る術はなかった。
無痛症が突出した有利とならない舞台があり、そのヒエラルキーの頂点に君臨する王がいることなど、表社会に生きる滝ヶ谷では知りようがない。
空中で薙刀を蹴り、その勢いのまま三回転スピンで着地した犀川は流れるように突進へと移行する。
「遅いッ」
犀川が吠えると同時に、繰り出された剣尖が滝ヶ谷の喉を捉えていた。
空を切る薙刀を戻すよりも速く到達した突きは天然理心流の技ではなく、低い姿勢から上方へ向けて突きを飛ばす鹿島新當流の【遠山】に近い。
滝ヶ谷は咽頭を僅かに突かれながらも咄嗟に後方へ飛び、顎を引いて刀身を挟み込むことで威力を殺す。
面防具や防刃服を活かした戦いに適応することも兵法の範疇である。
大会ルールが存在しない真剣勝負ならば即死の一撃であるが、滝ヶ谷は恐怖に居着くこと無く紙一重で回避に成功していた。
顎と鎖骨で強固に挟まれた刀身。
これ以上押し込めないことを悟った犀川は刀を手放しつつ、更に踏み込んで後退する敵を追う。
滝ヶ谷は組討に備えて重心を意識し始める。
脳裏では犀川の異常な身体能力に対する疑問が飽和して処理が追いつかないが、目に映る攻防は脊髄反射で対応できる境地にある。
犀川が薙刀の柄を掴むのに合わせ、奪刀を拒絶する筋力で関節を固定した。
次の瞬間、滝ヶ谷の意識は白く塗りつぶされることになった。
時間にすれば一秒にも満たない僅かな間。
痛みはない。
痛みはないが、身体が痛みを緩和しようと反射で痙攣している。
視線を落とせば、ダメージの大元である鳩尾に深く刺さる棒状の得物が映る。
犀川は刀剣の代わりに腰に差していた鞘を掴み、そのまま前方に差し出す突きを放っていた。
天然理心流にも近接戦用の技がある。
実際の運用は抜刀前の柄頭を使っての突き技であるが、鞘でも同じ技を実行することは可能である。
滝ヶ谷は天然理心流の【綾落】と呼ばれる技を知っているが故、続く袈裟打ちを防ぐべく腹部に刺さる鞘を掴んでいた。
嘔吐反射で咽頭が引き攣るよりも先に動けたのは、痛みを感じない身体だからこそ為せる冷静な判断である。
だがそんな滝ヶ谷の超反応とは裏腹に、犀川は既に鞘も手放していた。
爆発。或いは爆音。
滝ヶ谷の右側頭部に体全体を跳ね飛ばす衝撃が発生する。
同時に右耳の鼓膜が爆ぜる。
刀も鞘も手放した犀川の次手は、横面へ向けての平手打ち。
手刀打ちでは殺しきれないと判断し、三半規管へのダメージへと切り替えていた。
全ては一瞬の立会い。
内耳震盪のめまいの中、滝ヶ谷は朧気ながら犀川の強さの正体を掴み始めていた。
驚異的な瞬発力による攻防のコントロール。
どういうカラクリか、動作に移行する瞬間に急激な加速を実行している。
静から動、動から静への緩急を明確にすることが一種の錯覚として作用し、実際の速さ以上の驚異を感じてしまっている。
結果、ただ真っ直ぐ攻めるだけのことがフェイントを内包する瞬速の術理へと昇華されているのだ。
滝ヶ谷が永遠に知り得ない犀川の異能がそこにはあった。
犀川は激情をトリガーにして一般的に不整脈、頻脈と呼ばれる心臓の疾患を発動することを可能としている。
一瞬で毎秒五回という心拍数に到達し、その間の運動能力は持ち得る最高性能へと踏み込む。
性質としては人間よりも野生のチーターに近い。
急激な心拍数変化が失神や心室細動へ繋がらないのは、並外れて強靭な心臓壁と血管を有しているからだ。
犀川も日馬と同じく人外。
特質を手にして生まれ落ち、戦う人生を運命付けられた怪物であった。
この事実を知るのは犀川本人と八雲會所属の医療関係者と運営上層部の一握りだけである。
滝ヶ谷が戦いの最中にいくら考察したところで解答に辿り付けるはずもない。
しかし活路は見えていた。
明らかな優勢にも拘らず、犀川は追撃の手を緩めている。
刀と鞘を拾い直すことで余裕を見せているのかもしれないが、その顔貌は息も荒く苦悶を滲ませている。
瞬間的に人外の領域へ踏み込める犀川でも、発生する熱による内臓へのダメージは無視できないのだ。
長時間の維持ができないことを示唆している。
そして緩急差はあれど、犀川の術者としての練度は決して高くはない。
前試合の野村源造戦ではその辺りが顕著に出ている。
一言で言えば野蛮。
至って原始的な破壊衝動に身を任せて力技を振り回す類いの狂戦士である。
気組みで以て死地に入り、気組みで以て瞬殺することを旨とする天然理心流の理念に沿ってはいるが、それ故に競技の場で攻防が長引いた時の緻密な刀身操作までは想定していない。
意図して習得を切り捨てているのだろう、と結論した滝ヶ谷はその理由まで想起されて息を呑んだ。
――何故、充分な身体能力を持ちながらも多彩な組太刀にまで踏み込んで習得しないのか?
簡単である。
競技としての戦いなど端から興味がないからだ。
もっと実戦に近い場、或いは実戦そのもので経験を積んできたことが犀川秀極という男を作り上げている。
現代に於ける刀剣術の実戦などまともなものであるはずがない。
犀川が体現しているのは殺人者の理屈と理論である。
殺人者。
滝ヶ谷の心底が揺らぎ、ざわめく。
止むに止まれず、という言い訳を無視して結果だけに焦点を向けるなら、滝ヶ谷も紛うことなき殺人者である。
まるで自身が犯した過ち、法ではなく信念を通した業が終着点にいる男を引き寄せたかの如く巡り合わせ。
これがお前の末路だと、誰かが嘲笑っているようにすら思えた。
覚悟して選択した道の途上で、滝ヶ谷は先に横たわる醜悪を見せつけられて息が詰まる。
それでも立ち止まるわけにはいかない。
行動の規範、軸としている信念が眼前の殺人者への義憤を急き立てる。
――この男はここで殺さなければならない、と。
血で血を洗う闘争ならば、既に血塗れの腕をぶら下げた者が行くべきなのだ。
それは他の誰でもない滝ヶ谷香集の責務である。
殺人の業が同類を引き寄せるというのなら丁度いい。
その全てを屠り尽くし、狂人共の骸で屍山血河を築き上げる。
運良く生き延びた者、傍から観ていた者の教訓の中で月山流が語り継がれていけばいい。
薙刀の剣尖は中段を離れ、右手右脇で保持する小脇構えへと移行している。
息を整えた犀川は向けられる気質の変化を感じ取り、満足そうに微笑んでいた。
もはや迷いはなく、躊躇も斟酌も存在しない。
純然たる殺意を通す鉄薙刀は、朱色を被る瞬間を待ち侘びるかのように鈍く鋭く輝いていた。