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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十九話
137/224

【喪失】②

   ■■■




 命を奪う瞬間の手応えというものは特別なものがある、と滝ヶ谷香集は知っている。

 刃に殺意を乗せたことなどこれまでの人生で一度もない。

 それでも結果として二度の殺人を実行してしまった滝ヶ谷は、刃が人体に食い込み、抵抗を失って絶命に届く瞬間を心に焼き付けている。

 命を奪うであろう限界点で留まれない身体能力。

 いくら痛みを感じない身体であろうとも、人並みに良心の呵責は感じている。

 滝ヶ谷がなぎなた競技の世界に進まなかったのも、競技の枠に収まらない自身のポテンシャルを知ってのことである。


 唯一の門弟である垂水悦子は棄権するべきだと言う。

 日馬琉一の拳を受けた右手の怪我は深刻であり、死者を出したことが露見した後の社会的な立ち位置を考慮してこれ以上続けるべきではない、と。

 しかし滝ヶ谷は彼女の真意に気付いていた。

 実際のところ、垂水が感じているのは滝ヶ谷への恐怖である。

 いくら常識を備えた心優しき巨人がいたとしても、歩むだけで蟻のように人間を殺してしまう存在である以上相容れないのだ。

 垂水は滝ヶ谷の無痛症や異常な鍛錬法を知らないが、間近で見続けて気付くものがあったのだろう。

 師と仰ぐ人物が人ならぬ異形であったことを知り、今更ながらに恐怖で言葉が震えていた。


 仄かに血の匂いが漂う黒土の上。

 天井のメタルハライド照明が入場する滝ヶ谷を照らしていた。

 その背後には、これまで付いてきてくれた門弟の姿は無い。

 代わりに大会運営が用意した剣道関係者がセコンドとして就いている。

 垂水をセコンドから降ろしたのは他でもない滝ヶ谷の提案であった。

 優しすぎるという美徳を歪んだ価値観の中で汚すことは、死闘で誰かを殺めることよりも心が痛むからだ。


 三度目の死闘に踏み込み、多くの闘技者が越えてきたであろう思考の回廊が滝ヶ谷の心中にも顕現する。


 ――何故、戦うのか。


 母から受け継いだ刀剣の売却金。二回戦の賞金。

 流派を存続させるだけの知名度も得られた今、垂水が言ったようにこれ以上殺し合いに身を投じる必要性は無いように思える。


 滝ヶ谷香集の答えは、『滝ヶ谷志津麻なら戦う』という確信にあった。

 天覧試合で多くの剣客を打倒して決勝まで進んだ母親の足跡の上にいる。

 その歩みを否定することは死ぬことと同義である。

 血の繋がりのない親子だが、細胞の全てに染み付いた月山流という遺伝子がある。

 他の者ならば厄介なしがらみと言うかもしれないが、こと滝ヶ谷香集に於いては生きている理由そのものと言える愛すべき栄誉であった。

 他者の理解など要らない。

 過去、明治期の撃剣興行を制したのも女性の薙刀使いであったという。

 ならば今一度、観る者全てに薙刀術の恐怖を残す。

 月山流薙刀を侮った者、面白半分に術者を闘争の場へ引き摺り出した者、滝ヶ谷志津麻の強さに懐疑の目を向ける者、全員に思い出すだけでも震える悪夢を与えてやろう。

 滝ヶ谷香集は燃え上がる闘争心を戒飭させて、静かに持ち上げた薙刀を腰溜めの中段で構えた。




   ◆




 女。

 或いは、脆く崩れやすい肉塊。

 或いは、愛でる為だけに存在する孕み袋。

 どうしてこんな不純物(弱者)が混じっているのか。

 そんな当初の疑問は既に通り越し、犀川の思考は突き付けられる現実の解を模索する。


 ――この女の何が日馬琉一を殺したのか。


 その一点に尽きる。

 武器術とて極まれば膂力と胆力の世界である。

 表社会に生きる古流の集大成とも言える大会に、未だ女子供が二人も残っている事実は無視できない。

 八雲會と比べれば死闘とは程遠い娯楽ではあるものの、運だけで日馬を屠ることなど出来るわけがないのだ。

 犀川は大会を最大限愉しむ為に他闘技者の試合までは一々確認していない。

 準備不足がもたらす予想外に興奮を抑えられずにいた。

 今から眼前の女の秘密を一枚ずつ強引に捲り上げていく、そう思うだけで血流が加速し視界は赤く染まっていく。


 構えは天然理心流の平晴眼。

 まだ家族が生きていた頃、人を殺す為に覚え始めた剣術。

 幾多の血を啜ってきた腕が更なる血を求め、渇いた牙を先走らせた。

 猛り、奔る。

 狂気の刃を突き出し、向けられる薙刀の先端など意に介さず踏み込む。

 突きに特化した槍ならばともかく、刀剣と同じく反りのある刀身を持つ薙刀は斬撃を目的とする得物である。

 ポリカーボネートの面防具に防刃繊維の服という守りまであるならば、ただフィジカルをぶつける突進を敢行するだけで薙刀の理合は消え、男女の筋力差を顕にする間合いへと到達できる。

 生への執着を捨て相打ちをも辞さない天然理心流の【陰撓(いんぎょう)】という覚悟に加え、真剣試合に慣れている犀川は今更剥き身の刀身を怖れない。

 突進に合わせて抜き技に移行するならば起こりを突きで潰す【虎逢剣】、左右に避けるなら踏み込みを深めてタックルで強引に組み付く。

 女体で対抗できるはずもない至極単純な選択肢を迫る犀川の眼に、滝ヶ谷が取った第三の選択肢が写った。


 踏み込む(・・・・)

 防ぐでも躱すでもなく、滝ヶ谷は薙刀を立てて体の前で両手を構え、向い来る犀川に正面から衝突するべく大きく踏み込んでいた。

 攻防は犀川の予想に反し、体当たりをぶつけ合う原始的な力比べへと移行している。


 ――阿呆が。


 間合いは既に互いの剣が届かない至近距離。

 相対速度の衝突を回避する術は無い。

 弾き飛ばして続く斬撃を何処に落とすかを考えていた犀川の思考は――白い火花で覆われ霧散した。


 耳から入る音が消える。

 代わりに胸骨の軋む音が骨振動で脳へと届く。

 押し上げられた横隔膜が肺を圧迫し、嘔吐感を伴う呼気が強引に口外へ飛び出る。

 前後に揺さぶられた頚椎が平衡感覚を狂わせ、足元から地面の感触を失う。

 意識すらも空の彼方まで飛ばされそうになった犀川は、無意識に舌を噛んで思考を保っていた。

 そして中空(・・)にて理解する。

 弾き飛ばされたのは俺の方だ、と。


 眼下にはまるで巌のように不動の女が居る。

 圧倒的な筋力差。

 所詮は女の膂力だという侮りは、走るトラック相手に鍔競り合いを挑むが如く愚行へと繋がっていた。


 ――これが滝ヶ谷香集。


 犀川は糸一本で繋ぐ意識の中、日馬を殺した女の能力を分析していた。

 滝ヶ谷の出鱈目な出力はアスリート体質の筋肉異常に似ている。

 日馬に折られた拳面を躊躇なく突き出す辺り、痛みや身体の破損に対する耐性も有しているのだろう。

 それぞれ別個の能力か、若しくは先天性の無痛症を持っているか。

 異能の巣窟たる八雲會の特別闘技者戦では特に珍しい事例でもない。

 天に与えられた特別を以てして薙刀にだけ特化した肉体を構築しているからこそ、女体という原型から外れていないだけの化物である。


 ――なんと憐れな異形か。


 なるほど、こいつは現段階でも日馬に届き得る。

 しかし、これほどの異常者が闇に堕ちず、人間社会の中で生活出来ていたという醜悪さには目を伏せずにいられない。

 彼女の異常に気付きつつも慎ましやかに生きる術を与えたクソお節介野郎がいるのだろう。

 格下の生物に合わせて生きていく必要など何処にも無いというのに。

 彼女は気付いていないのだろうか。

 余りにも未完成。

 才能の無駄遣いを強いられ本質を発揮できない傀儡。

 まるで高級食材をふんだんに使った残飯だ。

 弱者である誰かの意志で作られた不格好なガラクタに、芸術者たる犀川は猛烈な憎しみを覚えた。


 ――もっと深くまで俺が連れて行ってやるよ、滝ヶ谷。


 犀川は噛み切った舌先から滴る血液を飲み下し、ようやく敵と認識した女へと殺意を向ける。

 その視線の先では、縦に円を描いて加速された薙刀の刀身が迫っていた。




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