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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十九話
136/224

【喪失】①




 人生に於ける振れ幅、最高潮の訪れというものをその場に居ながら自覚することは難しい。

 大抵の場合過ぎ去った後に気付き、最善の行動を取れなかった後悔だけが残る。

 幸運を掴むことができる者はほんの一握。

 他の多くの者は特別の時間に気付かないまま通り過ぎていく。


 犀川秀極にとっての最高潮が大会初日の控室であったことは疑いようもない。

 天啓とすら思える瞬間。最初で最後の逢瀬。

 あの時、日馬琉一という特別が永遠に失われることを知っていたのなら、全てのしがらみを捨てて剣を抜いていたであろう。


 それでも犀川秀極は後悔していない。

 最高の理解者を喪失したことに、一片の後悔も持っていなかった。


 熱気で揺らめく控室。

 犀川は今、卓上に置かれたガスコンロの火を眺めていた。

 空調も真夏日の室温で可動させている。

 眼の前のテーブルには二つのグラス、それぞれの底には翠玉色の茶葉が敷かれていた。

 グツグツとやかんが揺れ始めると犀川はコンロの火を切り、ほんの十度程を冷ますためにそのまま静かに待つ。

 吹き出す汗粒が頬を伝い、床の水溜りで飛沫を上げた。

 視線だけで温度を測れるかのように頃合いを察すると、音を立てずゆっくりと二つのグラスに湯を注いでいく。

 扁平形の茶葉が湯の中で花開くのを確認し、グラスの片方を対面に、もう一方を自分の手前に並べる。

 立ち上る蒸気が室内に広がり、更に気温を上げていく。

 更に待つこと数分。

 水面に浮かぶ葉が沈み切ると、犀川は笑みを浮かべてグラスを持ち上げ、鼻と舌で黄金の液体を愉しみ始める。

 飲み口は炒った豆のように香ばしく、後味は仄かに甘い。

 舌の上で踊る茶葉の産毛が若く青い一芽一葉の生命力を主張している。

 一口で七割程を飲み干した犀川は、新たに湯を注ぎながら言葉を吐いた。


「どうだ日馬? 俺の茶も中々のものだろう?」


 未だかつてなく穏やかな時間の中にいる犀川は、対面に差し出したグラスにも追加で湯を注いだ。

 溢れた龍井(ロンジン)茶がテーブルの上で液面を広げ、床へと滴っていく。

 

「はぁ……こうしていると思い出すよ。かつての食卓を」


 在りし日の小さな幸せ。

 八雲會の怪物にも浸れる思い出がある。


「……何だと? 馬鹿を言え。俺にだって家族くらいいるさ。親父も小春(ウララ)も俺が殺してしまったけど、いつかまた会えた時はこうして穏やかな時を過ごしたいものだな。……ん? ああ、小春ってのは妹のことだよ。生まれつき病弱でね、偶に調子の良い日は縁側に座って木とか鳥とか眺めたりするんだ。それが堪らなく愛おしくてね。触れれば途端に崩れる砂山のような儚さ、あれはあれで美しいものだ」


 破綻。狂気。

 美学や信念はそのままに、昨日までとは違う異質を宿す別の怪物がそこにはいた。

 もし前任者の三矢谷が存命ならば犀川の異常に警鐘を鳴らしていただろうが、今や気付ける者は存在しない。


「いつかお前も招待するよ。きっと気に入るから。……おいおい、邪魔だなんて思わないさ。お前は唯一無二の同好の士であり理解者だ。そうだろ? 小春だって歓迎してくれるよ」


 破綻しつつも矛盾なく定着してしまっている空想の理解者と会話を続ける。

 受け入れない現実の解を求めた犀川の脳は、目に写るほどリアルに日馬の幻影を再現していた。

 たった一度の邂逅だったが、濃密な時間を共有し互いを知り尽くしてしまっている。


「だから殺してくるよ。それで俺とお前はずっと一緒だ」


 もはや他人の言葉は届かない。

 現実世界との接点は闘争の場のみ。

 平穏を壊す不都合を摘み取るべく、狂気の怪物は控室を後にした。




   ■■■




「負けても一億。上出来じゃないか」

「……」


 大会会場の裏手、荷物搬入路から退場する木崎は心中複雑であった。

 本来の居場所である剣術の舞台で結果を残せなかったのだ。

 徒手格闘技での敗北とは重みが違う。

 励ましとも慰めとも取れる言葉を投げかける南場だったが、木崎は心底の燻りすら失ってしまったかのように空虚な思いだった。


 目標となるものはある。自分に足りないものも分かる。

 しかしそれを追いかけることは人生を賭けた博打のようなもの。

 大会の賞金でいくらかの自由を得ることはできるが、もうすぐ三十路を迎える木崎は残りの人生を費やす価値があるのか考えないわけにはいかない。


「俺が信じていたものは何だったんだろうな」


 思わず口にしてしまう。

 小枩原泥蓮との対戦は積み上げたものが通用しない領域、博打ではなく明確な実力差を示す戦いであった。

 一言で『水月の境地』と表せるのかもしれないが、オカルトに踏み込まずどうやって彼女の位置まで行けばいいのか分からず苦笑するしかない。


「まるで最強のレスラーがグレイシー柔術に敗れた時のプロレスファンみたいな感想だね。まーそんなに思い詰めなくて大丈夫だよ。心形刀流の人らも『よりによって最弱の奴が出場した』ってしゃくれた声で言ってくれるって」

「そろそろ本気でぶっ飛ばしてもいいかな?」


 言うや否や木崎と南場は身構えた。

 冗談の飛ばし合いから闘争に発展したわけではない。

 人気の無いはずの搬入路出口で、複数人に囲まれていることに気付いたからだ。

 取り囲む男たちは一様に黒のスーツに黒ネクタイという統一された出で立ちで、復讐に駆られた誰かの差金とはかけ離れた異様さを放っていた。


「南場くん。退路の確認はお願いしたよね? 分け前減額ものじゃないかな」

「こういうヤバ目なのは不可抗力だと抗議したいね」


 木崎は腰の刀に手を伸ばし、南場は革袋に砂を詰め込んだ護身具を懐から取り出して構えた。

 同時に相手を値踏みする。

 チンピラのかき集めではない。退路を塞ぐ手際もよく、ある種組織立った一団である。

 

 張り詰めた緊張の中、一人の黒服が柔らかな物腰で近付いてきた。


「木崎様ですね? 争うつもりはないのでどうかお収めください。我々は招待状を渡しに来ただけです」


 黒服は蝋で封印された一通の封筒を木崎に差し出す。


「なんだ? エスポワール号に招待されんのか?」

「我らは八雲會という組織の者です。端的に説明しますと、非合法の地下闘技場を運営しています」

「地下闘技? 殺し合いか?」

「ええ。我々で厳選した強者による殺し合いです。尤も、この撃剣大会のおかげで安全性はかなり上がりましたが」


 防刃繊維のことだ。

 それまでは生身同然の闘争で多数の死者を出していたことを暗に告げていた。

 事実ならば非合法どころの話ではない。

 警戒はしていたが、まさか闇賭博の大本営が現れるとは木崎も予想していなかった。


「いや、おかしくね? 負けた俺を誘うメリットなんか無いだろ」

「我々は競技の場での勝敗を問いません。人物像を検証し適任者を勧誘するだけです。負けたままで終わらない貴方の気質は理解していますよ」


 木崎は封筒を受け取ると、照明にかざして中身を透かし見てから溜め息を付いた。

 死者の出る地下闘技。

 事件を揉み消すだけの金と権力を有している。警察に通報しても意味はない。

 恐らくは趣味の悪い富裕層の娯楽であり、或いは撃剣大会ですらも八雲會の延長なのかもしれない。

 皮肉にも今、木崎らの安全を保証しているのが彼らであることは間違いなく、即座に勧誘を断るのはデメリットの方が大きい。


「ふーん。じゃあ、まぁ考えとくわ。今はさっさと帰ってシコりたいから通してくれる?」

「ええ。どうぞ。充分な報酬と強者を用意しておりますので、入り用になった時はいつでもご連絡ください」


 深々と一礼する黒服たちを擦り抜け扉を開く。

 外は雨。

 叩きつける大粒の雨水が歓声にも似たざわめきを響かせていた。

 用意していた車に乗り込んだ木崎と南場は無言のまま雨音を聞いている。

 木崎は思う。


 ――人生ってのは面白い。


 絶望的な失意を与えたかと思えば、先に続く蜘蛛の糸を垂らしてくる。

 神がいるとすればそいつは碌でもない奴だが、センスは悪くない。

 人間を道化のように踊り狂わせては愉快に笑う神に倣い、木崎も笑みを浮かべて天を仰ぎ見るのであった。


「……木崎くん。女子高生にやられた後シコる宣言してニヤつくのは流石にドン引きだよ」

「俺の感傷を台無しにしないで!」




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