【草書】⑧
◆
ぞぶり、と音がした。
まるで熟れた果実に刃を通すような音。
実際に鳴った音ではないが、金属が腹筋の筋繊維を割入る感触が脳内で擬音に変わっていた。
突かれた箇所はヘソ下三寸。丹田と呼ばれる身体の中心。
木崎は斬り上げから柔術へと切り替えるつもりで備えていたが、下肢の力が足先から霧散していくように思えた。
続いて腹腔の空気が口から嗚咽となって漏れ出る。
冷たい金属の感触が、滲む血液で焼け付くような熱さへと変わっていく。
過信していた。
大会ルールで用意した防刃服と刃先を丸めた得物。
斬撃は打撃に変わるが、刺されるのは死の感触を伴っている。
幸か不幸か、恐怖による生理反応が身体を仰け反らせ、内臓に届く刃先が致命傷を与える前に後転を開始していた。
二転。三転。
後転と呼ぶには無様な、肩を地に付けた方向転換も交えて転がる。
そして身を起こしながら地を蹴りバックステップに移行。
その最中にダメージを分析。
突き技で肉が裂ける程の圧迫を受けているが、まだ動くことに問題はない。
恐怖から過剰に痛みを感じているだけだ。
ようやく体勢を立て直した後、視界の先で槍の中段を維持する少女を捉える。
追撃を気にしてあれほど無様に転がったのに、動く気配すら見せていない。
――余裕かよ。
泥蓮は再び槍の間合いへと離れていく木崎を嘲笑いながら見送っていた。
開始前は殺意どころかやる気すら感じられない抜け殻であったが、一度戦いが始まると人格が入れ替わったかのように積極性を発揮している。
恍惚とした表情すら見せる狂戦士。
最年少参加者ながら大人に対抗し得る業がそこに在った。
木崎は息が整うのも待たずに反転して前へ踏み込む。
納刀で間合いを制する手法は二度と通じない。
それでも初見の奇襲技に居着かされ、腹を刺突された恐怖で退却してしまった愚を即座に修正しなければならない。
おそらくは柔術も並ならぬ練度を持っている泥蓮だが、まともに組まれた時のフィジカル差を覆すことは容易ではなく、剣と槍の攻防を続けるよりは活路が見える。
当然、泥蓮も同じ考えであろう。
前進を開始した木崎へ向けて、至近距離の攻防を拒絶する穂先が対岸から飛んでくる。
もう一度下腹部を狙った刺突。
恐怖を煽る意図が見えるが、木崎は冷静な観察眼を持ってして死の気配を払拭していた。
泥蓮は突きを繰り出しながらも僅かに後退を開始している。
剣尖を維持しながらも後ろ柄を下げ、石突を地面で固定しようとしている。
前試合で一ノ瀬の突進を留めた技。
一叢流槍術の基本が中段構えを続けることにあるのは疑いようもない。
距離の有利を活かし、飛び込む相手を剣尖で迎える技術がいくつかある。続飯付を修得しているのもその為だ。
――覚悟は済んでいる。俺ならできる。
木崎は心中で言葉を反復し、死中に踏み込む気力を維持する。
そして突進の最中に膝を抜いて前傾姿勢へ移行。
刀は下段で構えつつ、迫る槍の先端を敢えて顔面で迎え入れた。
刹那、殺意の先端がポリカーボネートの曲面で弾かれていくのが見えた。
木崎は確信に至る。
小枩原泥蓮は小枩原不玉のように芯を捉える技術を持っていない。
槍を保持する両手の拳は打撃を習得した者の形状ではなく、至近距離の攻防で当破に相当する技術を警戒する必要は無くなった。
やはり活路は槍の内側にある。
ほくそ笑む木崎は首を捻り、スリッピングアウェーで更に踏み込みながら下段の刀を斬り上げた。
槍の引き戻しが間に合わないことを察した泥蓮は、予定通りに石突を地に付けて固定して斬り上げを柄で防御する。
その衝撃と予め地を蹴っていた反動で小さな体躯が跳ね上がり、距離を離すに充分な跳躍となる――が、袖を掴まれ中空から強引に引き戻された。
木崎は既に刀を手放している。
右手で槍の柄を押さえ、左手で泥蓮の左袖を掴んで引き寄せている。
攻防は木崎にとって後に引けない局面に差し掛かっていた。
それでも未だ冷静。心には明鏡の水面が広がっている。
全てが意図通りに進んでいることを認識する度、不動の自信へと変換されていく。
泥蓮は左肘を畳んで槍を垂直に立て、突き出す右手の後ろ柄で金的を狙う。
だが、立ち昇る石突は虚しく木崎の面防具を掠って跳ね上げただけである。
前試合と同じく、面の付け方に細工して外れやすくしていた木崎は歯を剥き出して嗤って見せた。
これも予想通り。
木崎は左袖を離し、下から迫る柄を左方の転身で躱しながら、泥蓮の右肩の奥襟を掴み返していた。
当初は髪の毛を掴もうとしていたが、泥蓮の後ろ髪を束ねている紐が金属の鋼線であることに気付いて手を止めている。
天神真楊流の【手髪取】に代表される髪を掴む崩し技は、古流のみならずルールのない闘争の場では当たり前に使われるものであり、何らかの対策をしているのが当然である。
囮としての髪を揺らしながら内側に針を仕込んでいることを予想した木崎は、柔術から柔道の定石へと変更して奥襟を掴んだ。
しかし奥襟を掴む行為にも危険は潜む。
この戦いは柔道ではない。
木崎の懸念をなぞるように腰を捻って右肩を引いた泥蓮は、顔の前を横切る木崎の腕に顎を乗せて手首の関節を極めていた。
同時に槍から手放された左手が背掌で放たれ、眼を狙う軌道上で羽を広げる。
一叢流に於いて【荊棘】と呼ばれる手刀。
後になってフィンガージャブに近いものだと認識できた木崎だが、今この瞬間に理解が追いついたわけではない。
荊棘を避け、手首に掛かる関節技を無効化することが出来たのは、これから使う術理が下方向への沈身を必要としていたからだ。
木崎は腰を落とし、脇を締め、肘を落とす順番で奥襟を下方へ引き込む。
その最中、右手を泥蓮の左膝に掛けていた。
片足タックル、或いは朽木倒し。
木崎の狙いは寝技である。
寝技はルールのある柔道、現代柔術による発展が大きい技術であり、路上の武器術である古流よりも多彩な選択肢を有しているのは考えるまでもない。
今や両者共に武器を手放している。
技術のみでは抗いようのないフィジカル差の世界に誘うべく、木崎は片足タックルを狙う右手を緩めた。
即座に重心を反転させ、尻餅をつくように左足を泥蓮の右足の外側に伸ばすスライディングへと移行。
全体重を利用した引き込みに抗えず、少女の体躯が宙を舞う。
柔道の横捨身技である【横落】。
受け身を取らせないよう奥襟を保持したままの投げ技。
落下後はそのままチョークスリーパーへと移行する為に、木崎自身は既に膝を付いて待ち構えている。
紆余曲折ありながら決着に到達した木崎は――、
――眼前に突き付けられる剣尖を眺めて「は?」と間抜けに声を上げた。
視線の先、投げ落とされたはずの泥蓮は、木崎の刀を拾い上げて下段で構えている。
――何だ!? 何が……。
掴んでいたはずの奥襟から手が離れている。
改めて左手に視線を移した木崎は、小指と親指を外側に捻じ曲げられている事に気付き、遅れてやって来た痛みで顔を歪めた。
古流の指取り。
時間にして二秒程度の近接戦、投げられ宙に浮く最中に拳から両端の指を引き抜いて折っている。
つまるところ、この少女は一連の攻防を端から読み切っていたのだ。
それも木崎よりも正確に予想し、一旦武器を手放すという危険ですら躊躇せず実行していた。
――何なんだよ、お前は。
向けられる双眸に底知れぬ深淵が浮かんでいる。
一体どんな人生を歩んできたのか知らないが、少女が有する問答無用の強さは篠咲鍵理に比肩するレベルである。
木崎は分からなくなっていた。
泥蓮の値踏みを誤ったのか、彼女が大会中に劇的に強くなったのか。
何れにせよ戦いは誰の眼にも決着であることは間違いなく、鳴り響くブザーの音を受け入れて悔しさと安堵のため息をつくのであった。




