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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十八話
132/224

【草書】⑤

   ◆




 かつての師は言う。


『書にも型にも草書というものがある』


 型に始まり型に終わる合気道。その実戦性に疑問も持った若き日の赤羽は師に問いかけていた。

 型に固執しすぎるあまり、実際の闘争の場では役に立たないのではないか。

 赤羽の疑問の矛先は合気だけではない。型稽古を神聖視する柔術の諸派へも向けられている。


 時節は太平洋戦争の最中。

 武術大会で柔術諸派を下した講道館柔道が警視庁で正式に採用されており、『柔』と言えば柔道を指し示す時代である。

 大会自体が柔道に有利であったという議論が度々起こったが、技を秘匿して長い習得段階を課す柔術流派に対し、惜しげなく技を公開し組み手を中心として習得させる柔道には実戦性という有無を言わせない説得力がある。

 貧しい家庭で育った赤羽は志願兵として兵役に参加する気であり、それまでの僅かな時間を実戦性に欠いた合気に費やすことを心の何処かで惜しんでいた。


 結局のところ、赤羽はこの日師が語った内容を理解できないまま戦争に行くことになる。

 そして戦場での実戦性を語る時、柔道ですら話にならないという事実を知ることになった。


 最後に残ったのは師の教えだけである。

 奇しくも死地に於ける心構えという点で圧倒的に実戦性を示したのは合気道であった。

 赤羽は戦果を潜る中で少しずつ師の言葉を理解し、日本に帰り、合気に没頭し続けて師と同じ年齢をになってようやく気付くことになる。


 型は記号でしかない。

 流派が誕生した瞬間には型など存在しない。

 実戦の中で閃いた術理を後世に伝える為、小奇麗に記号化しただけのものである。


 肉体を用いる護身を突き詰めた時、フィジカル差という先天性の資質全てをカバーする術理など存在しない。

 故に合気は型より始まり、型に終わる。

 実戦性を求める時は、より原始的で、より個人の癖や反射に近い所作へと枝分かれしていくことを念頭に置いている。

 楷書を守り、行書へ崩し、草書へ至る。

 合気の着地点は、合気であって合気ではない、操者個人の流派であった。




   ◆



 

 肩を深く刺された赤羽は笑っていた。

 対手のアルフォンソは呆気にとられていた。


 ロングソードを保持する右手首が脱臼し、上腕橈骨の先端が皮膚を破りそうな程突き出ている。


 内在する二人分の思考を持ってしても想定できなかった。

 刺突を上腕骨頭と鎖骨で掴み(・・)、捻り上げることで剣を握る手首を極めるなど、常軌を逸している。

 そればかりか更に肩を押し込んでアルフォンソの右肘ごと持ち上げようとしていた。

 釣り上がる右肘を起点に後方への回転力が発生する。


 赤羽の草書たる【四方投げ】は両手で掴む必要すらない。

 攻撃を受けた骨身で合気を実行できる領域にある。


 しかしアルフォンソは耐える。

 脱臼した右手を剣から放し、上体を前に屈めることで踏み止まっていた。

 それでも両腕を持ち上げ、後方への回転を耐える状態である。

 予想するまでもなく距離を詰めてくる赤羽が視界の右下に映る。


 ――投げ技を耐えなければならない。


 既に心構えを受け身へと移行させていたアルフォンソは――突如発生した激痛に顔を歪めた。

 視界の更に右外を回り込む鉤突きが脇腹に刺さる。

 体躯を更に屈めて接近してからの打撃は合気ではなく、ボクシングのダッキングとフックに近い。

 ダメージの大きい肝臓部を狙って放たれたのではなく、前試合で密阿弥に小柄を刺された箇所を拳撃で正確に押し込んでいた。


「――――ッ」


 声にならない。

 唾液が歯間から泡となり漏れ出る。

 いくら痛みを切り離そうとしても身体が反射的に右脇を引こうとする。

 その一方で、未だロングソードを握る左手も経験による反射で動いていた。

 既に投げ技の間合いだが、ドイツ流剣術にはこの密着距離でも使える剣技が存在する。


 アルフォンソは脇腹打たれるままに左前に踏み込み、剣を握る左手を一瞥した。

 掴みが緩い。

 麻酔で痛みはないものの、前試合で砕かれた指骨は万全とは言えない。


 ――タダでは投げさせない。


 強固な意志で痛みを無視し、自分の拳を握り潰す程の握力を得たアルフォンソは思考を術理へと繋げる。

 狙うは赤羽と同じく、視界の外を辿る大振りのフックの軌道。

 しかしあくまでも剣技。

 腰の回転で外周の剣尖に遠心力を宿し、肘を曲げ、手首を返して順に内径を縮めていく。

 一見自身の胸元を狙うような裏刃の軌道は、密着距離にある赤羽の後頭部を捉えていた。


 ドイツ流剣術のみならず西洋剣術全般に伝わる技、【ラップショット】。


 赤羽は避けない。避けようがないのだ。

 視界の外を通って後頭部を狙う技である。

 直感的に勘付いたとしても、日本古流の常識に囚われ即座に対応することなど普通はできない。


 ――普通は(・・・)


 アルフォンソが犯したミスは、脇腹を打たれた激痛で思考が解けた時、赤羽の刀が何処にあるのか確認しなかったことにあった。

 もし一瞥でもしていれば刀の行方に疑問が浮かんでいたはずである。

 もし注視していれば赤羽の右手に刀の柄だけが握られていることに気付いたはずである。


 渾身のラップショットを、赤羽は逆手に握る刀を背中に立てて防いでいた。


 この瞬間、アルフォンソは自身が古流の常識に囚われていた事に気付いた。

 赤羽は知っている。

 西洋剣術を、ドイツ流剣術を識っている。

 識った上で攻撃よりも先に防御を置いていたのだ。

 

 強烈な悪寒が背筋を走る。

 片手打ちを防がれるということは、片手を差し出したに等しい状態である。

 よりにもよって、合気道家の眼前に。


 アルフォンソが左手を引き戻そうとした時には、既に左脇に赤羽の刀身が埋まっていた。

 防御から流れるように逆手の剣戟へ移行している。

 赤羽の右手は打撃後そのまま襟を掴み、左手の刀は脇下を持ち上げながら肩を固定している。

 合気ではなく、柔道でもない。

 相撲の掬い投げであった。


 両腕を固定され回転に抗うことができないアルフォンソは、流れに身を任せながら側転を敢行する。

 ――が、後ろ足を踏み切った瞬間、脇下を通り抜けた赤羽が右手でアルフォンソの左手首を掴んで引き戻す。

 中空から強引に地面に叩き付けられたアルフォンソは、何かが千切れる音を聞いた。

 発生源は自身の左肘。

 伸し掛かる膝の圧力に耐えられず可動域を超えて曲げられている。


 攻防を制したのは合気道の初歩にして真髄、赤羽の【一教】であった。


 しかし今だ意識が鮮明であるアルフォンソは立ち上がろうと藻掻く。

 右手首の脱臼、左肘関節の脱臼及び靭帯断裂。

 もはや立つことすらままならない。

 それでも足掻く。

 闘争心が消えていないことをアピールしているのではない。

 怒り。

 燃え上がる憤怒で心を染め上げている。


 視線の先で赤羽は――追撃の手を止めて立ち上がっていた。

 勝負は付いたとばかりに手を抜き、勝敗の彼岸で余裕を見せて傍観している。


 ――何という侮辱。


 何としてでも一矢報いたい。

 両足が無事なら蟹挟も三角絞めも使える。

 まだ戦える。まだ終わっていない。


 震える手足を制御しながらアルフォンソが立ち上がった時、視界に映ったのは諦めたかのように再度中段で構える赤羽であった。


「馬鹿野郎が」


 赤羽の声が聞こえる。

 審判は止めない。

 そもそも骨折や脱臼で止まる試合ではない。

 和解を以て護身と成す赤羽は死闘の気迫に圧され、自らが掲げる信念を曲げざるを得ない瞬間に遭遇していた。


 ――そうだ。それでいい。


 アルフォンソは吼えた。

 剣道の掛け声のように、腹の底を震わせる叫びでシャウト効果を引き出す。

 剣を握ることができる、戦う意志がある、ならば退いてはいけない。

 あの夜の狼のように、最後の最後まで戦士として向き合わなければいけない。


 両者共に覚悟が完了した相対。

 最後の一噛みで飛び出す瞬間。手負いの獣を迎え撃つ瞬間。

 時間が止まった。


 会場全体を震わせて鳴り響くブザー音。

 まさか、という思考の混乱が両者の衝突を中断する。


 アルフォンソはゆっくりと背後を振り返る。

 そこには地面に落ちるタオルと、泣き崩れる兄。

 そして本来居るはずもない父、ドミニク・カルダーノが立っていた。




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