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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十八話
131/224

【草書】④

   ■■■




 午後一時。

 負傷者への対応を強化したとの説明もそこそこに、ようやく始まった三回戦第一試合。

 待たされた観客の愚痴は入場した男たちの抜刀と共に歓声へと変わり、会場の屋根を叩く雨音を掻き消す程の轟音を響かせる。


 ――静かだ。


 周囲から向けられる歓声が音の波を打ち消し合っているのか、死闘に際し自身の集中力が高まっているのか分からないが、渦中は静謐の異空間となる。

 赤羽は未だ慣れないでいた。

 道場稽古や町中での戦いとは全く異なる競技としての空間。

 他流試合や大会を行わない合気道赤羽派に対し、競技として普及する剣道経験者には有利な舞台と言える。

 自己満足で終わるのではなく、衆目の中で自負心を感じるのも悪くないと思うことで、赤羽は心の中にも静謐を染み込ませていく。


 アルフォンソに八百長を持ちかけた意図は単純。

 退くことが出来ない闘争の中で闘争を回避する唯一の手段だからだ。

 両者が譲り合い、両者に利益がある。

 拮抗する暴力をどちらかが滅びるまでぶつけ合わせる愚を嫌という程体験している赤羽ならではの解答であった。


 当然だが、アルフォンソが赤羽の提案に乗るとは限らない。

 若く、愚直で、プライドを優先する可能性は大いにある。

 その場合は赤羽をただの詐欺師と思い込み剣が鈍るだろう。

 どちらに転ぼうとも対戦前に一石投じられたのは僥倖とも言える。


 構えは中段。

 手元は正中線よりも右に寄り、左足前の撞木足。

 普段と変わらない心気を確かめた赤羽は視線を対手に向け――そして息を呑む。


 アルフォンソの構えも全く同じ中段であった。

 手元は右寄り、左足前、撞木足。

 相手の真似をして遊んでいるかに思えたが、追認で細部が異なることに気付く。

 後ろ足の踵に重心を置く合気剣術とは違い、アルフォンソは前傾姿勢の爪先で体重を支えて攻めの気配を漲らせている。

 ドイツ流剣術【(Pflug)の構え】。

 奇しくも同じ構えを取りながらも、内包する意図は静と動で分かれていた。


 赤羽は目を見開き視界に全神経を集中させる。

 アルフォンソの初激は唯一背負わなければならないリスクだ。

 わざと敗けるつもりで近づいて裏切った場合、即座に心置きを変える必要がある。

 現時点ではまだ赤羽は弱者を演じていなければならない。


 アルフォンソは鋤の構えを維持したまま足底を擦るように少しずつ間合いを詰めている。

 視線の交差。息遣いの同調。西洋剣と日本刀の剣尖が触れ合う距離。

 先に動いたアルフォンソの起こりを捉えた赤羽は、余裕を持って右方へ転身していた。

 そこに迫り来るは左肩を前に突き出したショルダータックル。肩の影に隠れる左手はロングソードの刀身を掴み、右手は柄を握っている。

 密阿弥との対戦で見せた下からシャベルを掬い上げるような杭打ちへと繋げる技。

 一度見せた技は通じないとばかりにアルフォンソの背中に回り込んだ赤羽は、眼の前に差し出された奥襟と肩を捕え、突進の勢いを入身投げの回転運動へと変えていく。


 ――が、突如視界の隅から伸びた銀色に驚き、赤羽は両手を突き出して距離を離した。


 アルフォンソは背中に回り込まれるのを理解した上で突進し、鞘に納刀する要領で剣尖を左脇腹から背後に突き出していたのだ。

 誘いと不意打ち。

 その剣の勢いには確実に相手を仕留め得る威力が込められていた。

 思わず赤羽は声を上げる。


「おい、約束守れやイタリア人」


 既に向き直っているアルフォンソはゆっくりと口端を歪めて応えた。


「違うな。貴方は選択肢を提示しただけだ」


 流暢な日本語で八百長の提案を破棄しながら、構えは顔の右横で剣を掲げる八相へと移行する。


「だから私は貴方を踏み越えるという楽な方を選んだ。試合後に例の会話も公開してやるから合気は今日で終わりと思え」

「なんだおめえさん、普通に喋れるじゃねえか」


 赤羽にわざと敗ける際、八百長を疑われないよう幾らかの負傷を伴うことは避けられない。

 セコンドを務める兄や故郷で待つ父を深く失望させてしまうかもしれない。

 それらのリスクよりも赤羽を打ち倒すことの方が安全であるとアルフォンソは告げていた。

 弱者たる老人が往生際悪く手練手管を弄することへの怒りも滲ませている。


 裏切っているつもりのアルフォンソへ赤羽も笑みを返していた。




   ◆




 思考の濁りというにはあまりにも鮮明で理路整然とした情報の奔流。

 アルフォンソは自分の思考を更に高次元の意識で、どこか他人事のように眺めていた。

 心の内にある形而上視点。

 今、身体を動かしているのは本来の自分ではない。

 思考に相乗りする誰かがいる。


 当初は恐怖が作り上げた脳の異常のように思えていたが、今なら分かる。

 二回戦で密阿弥に追いつめられた時、アルフォンソは絶体絶命の恐怖を克服し窮地を脱する為、無意識に脳処理を並列化していた。

 それは記憶の奥底に根を張る、冷静にして冷酷で何者も怖れない最強の人物像を呼び起こしている。

 在りし日の父、ドミニクである。

 最強たる父ならどうするか? その回答こそが闘争の場の最適解だと理解していた。


 ――【(vom Tag)】で構えろ。


 アルフォンソは父の命令に従い、ロングソードを右肩上で八相に構えた。

 日本刀とは違う横長の鍔を正面に向けることで手元に十字を形作る。

 そして父に背中を押されるまま、大きく踏み込んで右八相から剣を振り下ろしていた。

 瞬間、眼の前で赤羽が僅かに遠退く。

 赤羽は前試合で戸草の袈裟斬りを躱している。

 それ自体も八百長だったのかも知れないが、左右構えのスイッチで僅かに距離を誤認させる術理は偽物ではない。

 八相からただ斬り落とすだけでは赤羽に有利な駆け引きになる可能性がある。


 しかしアルフォンソの技は袈裟斬りではない。

 振り下ろしながらも刀身を寝かし、首を狙う水平斬りへと変化している。

 正面から受けるのではなく横へ回り込んで反撃に転じる合気剣術の定石を横薙ぎで封じていた。

 老齢の筋力では更に引き下がるか、上体を反らすスウェーバックで避けるしかない。


 そう思っていた。


 退くはずの赤羽が前進してきた時、アルフォンソの思考は混濁する。

 膝抜きの沈身で、水平斬りをギリギリ躱す水面下を掻い潜っていた。

 その刹那、ようやく理解できた。

 赤羽の提案が実力を隠すための駆け引きであったことに。

 狡賢い弱者という虚像を心の何処かに植え付けられていた。


 ――全く問題ない。


 アルフォンソ・カルダーノ個人であれば勝敗は決していただろう。

 しかしドミニク・カルダーノに拙い駆け引きは通じない。

 身体は既に動いていた。


 放つ水平斬りは赤羽の頭頂を掠めるよりも先に、軌道を維持したまま捻れて(・・・)いた。 

 上柄を握る右手の親指を上に伸ばし、刀身の根本を支えて手首を返している。

 つまり斬撃は繰り出した瞬間とは逆の裏刃で空を切っていたことになる。


 日本刀にはない両刃剣の術理、【十字の斬撃(Zwerchau)】。


 そして手首を返して水平斬りを振り切った後は、自然と左側頭部から刀身を垂らす【ハンギングガード】へスタンスが移行する。

 されど防御に非ず。

 大きく引き戻された刀身は面小手胴を守りながらも、剣尖は相手を捉えている。

 銀に輝く西洋剣の先端は、柔術を仕掛けようと迫る赤羽の右肩に深く突き刺さっていた。




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