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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十八話
130/224

【草書】③

   ■■■




 はぁ、と呼気が喉を震わせると、心なしか底冷えする控室に薄い白靄が浮かんだ。

 昨晩の騒動で空調の運転が遅れていたのだろう。

 向かい合って座る二人の少女の一方が口を開いた。


「よりによってお前かよ」


 後頭部を掻きながら悪態をつく泥蓮は、当然であるかのようにセコンドとして現れた鉄華を下から睨みつけていた。


「はい。よりによって私です」


 対する鉄華は悪怯れもせず笑みを乗せて応えた。

 胸の前で組まれる両腕は不遜な態度の現れではなく、咄嗟の暴力に備えている防御姿勢である。

 彼女なりの覚悟を持って臨んでいることを理解した泥蓮は、毒気を抜かれ再度嘆息した。


 運営がセコンドの交代を認めたのはそれだけ切迫した状況であるということだ。

 しかし泥蓮の予想に反し、興行自体は中止されなかった。

 警察の介入を処理できる有能な人材が能登原の代わりに就いたことが分かる。

 とは言え能登原の絵図は崩れ、債務処理の段階に入っているのも明らかであり、禿鷹に啄まれる財団が形を保っていられるのはほんの僅かな時間だけだろう。


「一巴先輩は、戻ってくるのでしょうか?」

「さあな」


 泥蓮は返事を濁す。

 木南一巴の失踪は大会とは関係のない、大会以前から周到に準備されていた事である。

 泥蓮や鉄華が一巴の足跡を追うことは不可能であり、それが可能な彼女の親族も近い内に皆殺しにされるだろう。

 もしもまた一巴と会えたとしても、顔も名前も別物の他人としてすれ違う程度である。

 陰謀渦巻く大会に於いて、現時点で唯一完全な勝利を掴んだ存在だと言える。


 結果的に全員を裏切った一巴だが、泥蓮としては今更恨み言を垂れるつもりはない。

 それどころか木南一巴の半生を知るだけに、最後の義理として彼女に関する情報は誰にも話すつもりはなかった。


 泥蓮は思い出したかのように懐から革張りの手帳を取り出して鉄華に放り投げた。


「イッパの遺品だよ。期待はしてないが何となくはセコンドの役目を果たせよ」

「遺品って、縁起でもない……」


 一巴が残した諜報ノートを捲り始めた鉄華から視線を切り、倒れるようにしてソファに身を投げた泥蓮は仮眠のために瞼を閉じた。

 そして一言告げる。


「まぁそんなことは、もうどうでもいいんだがな」


 誰かに向けたわけでもない言葉が宙を泳ぎ、煙のように立ち消える。


 泥蓮の言葉が何を意味しているのか分からず返答に困る鉄華は、心に掛かる靄を敢えて無視して役目に戻る。

 大事な何かを見落としているような気がしたが、今の瞬間に取り組む問題ではないと目を逸してしまった。




   ■■■




 アルフォンソ・カルダーノは大会施設の一角にある選手用のカフェで、昼食のサンドイッチを頬張っていた。

 早朝に起床し試合開始予定時刻の四時間前に糖質を補給していたが、大会運営のトラブルで進行が遅延して、そろそろ正午になろうとしている。

 例え僅かであっても空腹で集中力を切らすことは死に繋がると判断しての食事であった。


 とはいえ食事は楽しい時間だ。

 誰もが当たり前に持つ欲求であるが、アルフォンソにとっては儀式に近い特別なことであった。

 簡素でも豪華でも等しく感謝し、生きているのではなく生かされていることを実感しながら、舌上で更なる特別を感じ取る。

 程よく湯通しされたレタス、オーブンで焼いた溶けかけのトマト、柔らかさを損なっていないフライドベーコン、その上に黒こしょうとガーリックバター。

 パンは耳付きでもなければ、フランスパンでもドイツパンでもベーグルでもない。

 全てが温かく、柔らかく、それでいて確かな食感を残している。

 特別な素材を使っているわけではないが、出場選手の要望にパーフェクトな回答を示したシェフの工夫が伝わり、アルフォンソは至福を感じていた。


 最後の一口をオレンジジュースで流し込んだアルフォンソは、至福の余韻を巡らせながら、眼前に座る老人へと視線を移す。


 ――赤羽清雪。


 彼も試合までの時間を持て余したのか、予期せず戦う者同士の邂逅が発生している。

 目が合うや否や迷うこと無く相席した赤羽は、カフェインレスの変わった香りのお茶を啜りつつ、掴みどころのない笑顔でアルフォンソの食事を待っていた。


「何か私に用事がありますカ? 赤羽サン」


 紙ナプキンで口の周りを拭きながら、アルフォンソは片言の日本語で話しかけた。

 本来日本語に不自由はないが、この状況では敢えて相手にコミュニケーションの努力をさせることを選択している。

 最大の障害だと考えていた戸草仁礼が消えたことは喜ばしい。だがそれを倒した赤羽が楽な相手だとは考えていなかった。


「なぁに、ちょっと忠告してやろうと思ってさ」

「忠告、ですカ?」

「今、運営が揉めてるだろ? 何でもよぉ、昨晩、篠咲が毒で奇襲されたらしくてよ、アンタも気を付けたほうがいいぞ。食べ物は特にな」

「……人が悪いデスネ」


 空になった皿と意地悪く笑う赤羽を交互に見ながらアルフォンソは苦笑する。

 三回戦の第四試合、篠咲鍵理と小枩原不玉の対戦が中止になったことは知らされていたが、その詳細までは調べる術がなかった。

 わざわざカフェで誰かが接触してくるのを待っていた甲斐があるというものだ。


 食事に関しては異国の地で戦う以上ある程度先手は打っている。

 大会参加に際して飲食の安全を保証させ、努めて運営が用意する施設の利用に終止していた。

 もし食中毒などで敗退することになった時、責任の所在が運営にあれば大会の順位そのものが茶番となる。

 それは同じく参加者である赤羽も知っているはずだ。


「他にも何かアリそうですネ?」


 対戦相手に些細な揺さぶりをかけた赤羽は未だ退席せずに笑みを浮かべている。

 食えない爺さんだと思った。

 虚実を織り交ぜてメンタルを攻め、フィジカル差を埋める努力を惜しまない。

 日本語が拙いフリをしたことは間違いでなかったとアルフォンソは再認識した――が、


「おうよ。これは提案なんだが、わざと敗けてくれないか? アルフォンソ君」

「……」


 あまりに不用意な提案に言葉を失ってしまう。

 選手専用のカフェで周囲には店員すら居ないが、万が一運営に知られでもすれば参加資格を剥奪されかねない。

 しかし、赤羽は開き直りとも言える態度で言葉を続けた。


「父親が残った牧場の維持に困窮しているんだろう? 敗けてくれたら前の試合と次の試合の賞金合わせて二億円をアンタにくれてやるよ」


 地元のスポーツ紙にも語ったことのない家族の事情を知られている。

 アルフォンソは急激に心が冷えていくのを感じていた。

 必要に迫られて参加していた部分は確かにあるが、何よりも強者との戦いに焦がれて自発的に飛び込んだ戦いである。

 そんな聖地に紛い物が残っている。

 言葉巧みに拐かし、強さとは別次元の処世術で見せかけの勝利を掴もうとする詐欺師がいる。

 大会が始まってから二度目の意図しない変質(・・・・・・・)は試合上の外で始まっていた。


「悪くナイ提案ですネ。アナタが信用できる人物ナラ受けてもいいデスよ。まだ信用が足りまセン」

「この会話を録音している。俺が裏切ったら公開すりゃいい。その時は合気の面目丸潰れで俺は二億以上のものを失う」


 事実だ。

 赤羽は流派を煽られ、退くに退けなくなって舞台に出てきた詐欺師である。

 本当に詐欺師である証拠が露見すれば合気そのものが終わるだろう。


 アルフォンソは少し考える真似をした後、赤羽の差し出すレコーダーを受け取って微笑んだ。


「イイでしょう。もう一億は貰ってマスからネ。そろそろ安全にドロップできれバと思テタところデース」

「交渉成立だな。よろしく頼むよ、アルフォンソ君」


 大会運営が試合再開を告げる一時間前。

 第一試合の両雄の密談は固い握手で締め括られたのであった。




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