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どろとてつ  作者: ニノフミ
第二十七話
127/224

【円相】⑧

   ■■■




 雨は馬鹿げている、と今更のことのように能登原弦次郎は呟いた。

 充分な静音性を備えているはずのリムジン内にボディを叩く雨音が薄っすら聞こえてくる。

 向かいのソファに座る執事の島田は、主人の愚痴がただの独り言であることを理解していた。

 それでも立場上無視するわけにもいかず口を開く。


「いかがなされましたか? 旦那様」


 老齢の執事はこめかみを撫でるように老眼鏡を持ち上げて主人の次の言葉を待っていた。


「人工降雨の話だよ。大気に微粒子を撒いて雨天を操作する技術があるらしいじゃないか。大陸では当然のように使われているだろう。必要な所にだけ降らせてあとは晴れにしてしまえばいいのだよ。そうすれば大雨や大雪に悩まされることがなくなり、黄砂も洋上で処理できる。日本全土で一体どれだけのコストが削減できることか」

「はぁ、なにせ自然のことですから、未だ確実な手段とはなっていないと聞き及んでおります」

「基礎研究を疎かにしたツケだな。昨今は目先の餌ばかり拾い食いする心貧しき者で溢れている。公園の鳩でも落とし穴があれば避けて通るだろうに」

「大局を見据えるのは限られた者の役目にございます、旦那様」

「……島田、残念ながら私にも心貧しき一面があることは否定出来ないのだよ」


 当たり障りの無い受け答えで地位に伴う責任感を刺激する執事であったが、それでも払拭されない主人の憂鬱な顔に内心溜息を零した。

 原因は一つしかない。

 長女の英梨子のことである。


「あのイカレたクソ娘は自然災害のようなものだ。私は存在を忘れたいあまり、あいつがどういう思考で動いているのか理解することすら放棄していた」

「才人とは時に破天荒なもの。今では彼女が切り開いた分野が能登原家の一翼を担うのも事実です」

「しかし今度ばかりは度を超えている。これが私の器量を試す試練なのだとしたら神は選ぶ相手を間違えているだろう」

「恐れながら、ここは一つ開き直って楽しんでみるのも人生の糧になるかと存じます」


 島田は咳払いをするように口元を手で隠して反応を窺っている。

 長い付き合いの主従関係ならでは、稀に忍耐の限界を試してみたくなる悪い癖があることは自認していた。


「よせ。私とてもう若くない。心労で死ぬことだってあるんだ」

「なるほど。では脅かさないよう細心の注意を払わねばなりませんな。来月の御誕生日、奥様がサプライズパーティーを企画しているようですが別の予定で埋めておきましょうか?」

「……君のユーモアも節度を守ってほしいものだな」


 弦次郎はアームレスト横にある灰皿から吸いかけの葉巻を持ち上げて紫煙を燻らす。

 少しの思案。

 執事が長女を庇おうとしているのは明白であったが、主人の根源にある意志は煙のように揺らぎはしない。


「公安に関しては一応口を利くが、金で解決できない場合は手を引く。身の振り方を考えておけと件の秘書課長に伝えておけ」

「然るべく」

「あいつが何を目論んでいたかは知らんが、目的が手段を正当化すると奢るのならば、せめて私の手で終わらせてやろう」


 欲望を管理できない者が必滅の末路を辿るのは歴史が物語っている。

 故に、財を持つ者はその節度を見極めることこそが何よりも重要である、というのが弦次郎の持論であった。

 生かすべきは個人ではなく、能登原家。

 弦次郎は家訓に従い、実の娘ですら切り捨てるのに躊躇はなかった。


 主人の決意を汲んだ執事は、幼少期から知る長女の行く末を案じ、静かに黙祷を捧げるのであった。




   ■■■




 八雲會のマネジメント職であり、闘技者犀川秀極のセコンドでもある黒服の男、三矢谷栄治は現代の貧民窟とも呼べる荒廃した町で生まれ育った。

 親の顔は覚えていない。

 もしかしたら捨て子だったのかもしれないが、出自を知る術は失われている。名前も後に自分で買った戸籍の物だ。


 バラック建てのあばら家が連なるその町には独自のルールが有り、身寄りのない子供の面倒を見る『担当』が存在していた。

 誰もが自分のことで精一杯、他人のことなど気にかけている余裕もない人間ばかりだったが、僅かばかりのルールを順守することでどうにか町の自治を維持していたのだ。

 幸か不幸か、汚水が溢れ動物の死骸が転がる町の仕組みに守られることで三矢谷はこれまで生きてこられた。


 最初に覚えたのは、泣くこと。

 迫真の泣き真似で同情を引いて道行く者に投げ銭を引き出させるという、乞食の脇に座る小道具になること。


 次に覚えたのは走ること。

 弱者たる子供が身を護る唯一の手段が逃走である。

 稼いだ日銭を奪おうとする敵が現れた時、盗みを働いた後の逃走時には必ず脚力が必要になる。


 とりわけ走ることには才気があった。

 三矢谷は普段偉そうにしている大人たちを翻弄し、置き去りにする瞬間が堪らなく好きだった。

 持て余すスタミナと集中力で狭い路地を縫うように疾走するというゲーム。

 誰も自分に付いてこれないという優越感で翼が生えた気分になれる数少ない娯楽であった。



 そして今も三矢谷は走っている。



 十階建ての廃ビルの屋上からスタートした『ゲーム』は、方法を問わずビルから脱出することで勝利となるシンプルなルールである。

 望んで参加したわけではない。

 ビル内を駆け回り階下へと進み続ける三矢谷の背後には、彼の命を奪おうとする追跡者がいる。

 これは公開処刑である。

 八雲會の名簿を公安に流出させた見せしめとして死のゲームが催されていた。


 三矢谷は疑問を感じている余裕すらなかった。

 滴る汗は運動量以上に流れ続け、口腔は強烈な乾きで粘つき、唾液の嚥下すらまともにできない。

 汗で貼り付くシャツを外気に晒したかったが、闇中で黒スーツという利を手放すわけにもいかなかった。


 背後から発砲音が聞こえると三矢谷はダンスのステップを刻むように蛇行し、ブラインドを掴んで窓から飛び出した。

 ――刹那の休息。

 夜の雨天に佇む不気味な月と、眼下に散らばる都市の光を眺めながら三矢谷は疑問の答えを考えていた。

 富裕層を敵に回すことは覚悟の上であったが、名簿のリークにはタイマーと匿名通信を利用して足が付かない手段を選んでいる。

 にも係わらず個人を特定されたのは、名簿自体に細工があったからだ。

 八雲會を甘く見すぎていた。

 彼らはマネジメント職ですら信用せず、それぞれの権限で得られる情報に通し番号のような偽の情報を混入させているのだろう。


 しかし願ってもない状況でもある。

 処刑にゲームという手段を用いた賭博狂どもの愚を嘲笑った。

 法を破る八雲會ではあるが、彼らも彼らで独自ルールの枠を逸脱することは出来ない存在である。

 複数の会員が見守る中、脱出を以てして勝者とする確約をした以上、体裁を保つことが優先される。

 彼らとしては鼻先に『生存』という餌を吊るした気でいるのだろうが、野生を生き抜いてきた脱兎の実力を正確に測れていない。


 三矢谷は追跡者の脚力と射撃精度を測り終え、自由を勝ち取れる確信を得ていた。

 今では体の震えも、止めどなく流れる汗も収まり、普段のポテンシャルを引き出せている。

 掴んでいるブラインドが窓枠から外れた時には既に階下の窓を蹴破って着地していた。

 そしてもう一度、その階にあったブラインドを掴み更に階下へと降りる。

 繰り返すこと四度。

 一瞬で六階まで到達した三矢谷は、飛び込んだ窓にブラインドやカーテンが付いていないことを確認すると、冷静に室内を見渡して廃ビルの構造を予測でしていく。

 元は雑居ビルだったのか階による構造はバラバラだが、エアコンの室外機は一定に配置されているはずだ。

 室外機を足場にあと二階ほど下れば、残るは四階程度の高さ。五点着地で飛び降りる自信はある。

 三矢谷は飛び降りた面には無かった室外機の位置を特定するため、部屋の側面を辿って闇中を駆けた。


 ――が、只ならぬ気配に気付いて足を止める。


 眼前の闇にゆっくりと光の線が浮かび始めた。

 月光を反射する金属面は日本刀である。


「お前は三矢谷という名前なのか。今日まで知らなかったが覚えておこう。大切なコレクションの一つとしてな」


 よく知る低い声が室内に反響する。

 大きな影に浮かぶ眼光と、剥き出される牙も月明かりで光っていた。


 先に動いたのは三矢谷であった。

 着地の時に握り込んでいたガラスを血糊と一緒に投げつけ、反対の手で錆びた金属片を棒手裏剣の要領で投擲する。

 輝くガラスを虚とし、闇に隠れた金属片を本命とする目潰し。

 同時に踵を返し、今し方飛び込んできた窓へと逃走を開始した。

 眼の前の男を相手にするくらいならば、指先が潰れてでも窓枠を掴んで階下に飛び降りた方がマシだと判断している。


 三矢谷は、一歩目を踏み出すよりも先に宙に浮いていた。


 理解が追いつかない。

 視線の高さは変わらないのに浮遊感がある。

 両足を斬られたのかと思ったが、膝下の感覚は確かにある。

 視線を下ろすとそこには、左方へ直角に折れ曲がった両膝が浮かんでいた。


 下段回し蹴り。


 犀川の放つただ一発の蹴りで両足は刈り取られ、強度を超えた衝撃に耐えられず折れ曲がっていた。


「脆いな。ダンボールで出来てんのかてめえは」


 背後から獣の嗤い声が聞こえる。

 達磨落としのように重力で地に叩きつけられた三矢谷はゲームの終わりを悟った。

 最後はせめて自らの手で幕を引こうと、地面に散らばるガラス片を掴み取って頸部に当てる。


 しかし、その手は更に大きな獣の手によって握り潰される。

 痛みはない。

 死ぬ準備を始めた身体が過剰なアドレナリンを分泌している。


 眼前の獣は、泣いていた。


「なぁ三矢谷、俺は悲しい。とても悲しいんだ。慰めてくれよ」


 犀川の涙は三矢谷の死を慮って流れているのではない。

 人生最高の好敵手と認めた日馬琉一の喪失によるものだ。


「知るか。さっさと殺れよ。妹殺しの変態野郎が」


 弄ばれるのを拒否する三矢谷は、犀川に言ってはいけない禁句を告げる。

 その一言で獣の瞳は赤く輝き、噛み締める牙は割れ砕ける音を発していた。


 ――ここが終着点。


 死を覚悟した三矢谷はあらゆるしがらみから解放され、心なしか穏やかな気分であった。

 そして、名簿の流出が世の歪みの元凶である者たちに一石を投じることを期待しながら、生涯を閉じた。




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