【円相】⑥
◆
傷口は鈍い痛みを伴い、崩壊する皮膚からリンパ液が流れ出ていた。
衰枯の初期に襲い来るカエンタケの糜爛症状。
表皮を削っただけにも係わらず毒素は意思を持つかの如く広く深く浸透を始めている。
篠咲は再度飛び出すまでの短い時間で、幾つかの精神的葛藤を払拭しなければならなかった。
痛みから始まる侵食、臓器の破壊、生命維持の阻害。
毒の内容を知るだけに、戦いで死ぬ覚悟とは別種の恐怖が身体を蝕んでいく。
今、敗北を認めれば初期治療が間に合い、生還できる確率が大きく上がる。
不玉もこれ以上の追撃はしないだろう。
――しかし、それでは駄目だ。
例え明日の試合に出られる程度に回復し、ルールのある表舞台で再戦したとしても、ここで不玉を倒さずして先はない。
対武器を掲げる柔術に偽りは無く、小枩原不玉という人間もハンデを抱えて乗り越えられる程甘くはないからだ。
或いは、万全な状態で挑めたとしても敗れる可能性すらある。
この瞬間。
相手を気遣う不玉が闘気を収める瞬間。
毒が身体に回り切るまでの猶予時間。
何でもありの殺し合い、場外の決闘でなければ起こりえない状況である『今』を逃して確実な勝利は無い。
だからこそ、篠咲は駆けた。
前方に倒れていく身体を踏鳴で支え、迫り上がる自重を重力加速度とぶつけ合わせて足先へと流していく。
千切れそうな大腿筋を弓のように弾きながら、刀を保持する両腕を右脇構えで後方へと引き絞る。
瞬時に最高速度に到達した篠咲は三メートル程の間合いを残して上体を起こし、最後の剣戟を放つ。
その刹那、視界の先で既に迎撃体勢に入っている不玉が見えた。
差し出される義手は柔術のみならず剣術にも対応できる盾であり矛である。
会話を無視した奇襲程度で不玉から居着く瞬間を引き出すことは叶わない。
三度目の死地。
女たちは時間すら超越し、交差する視線で互いの感情を共有していた。
自身の正しさを暴力でしか証明し得ない性質、才能、人生を呪わしくも憐れむ想い。
そして、それを超える喜び。愉しみ。
互いにこの瞬間を望み、全ての欲求を曝け出して戦っている。
「はああぁぁぁぁ!」
篠咲は歓喜の想いが叫び声として漏れ出すのを止められない。
脇構えの剣尖は地を擦り、掘り起こされた黒土を捲き上げて解放の瞬間に備えている。
玄韜流【円相】。
斬撃の加速を地に埋める抵抗力で塞ぎ、拮抗する力積の解放を以てして刀身を弾き上げる奥義。
しかし、彼我の間合いは剣尖が掠りもしない距離にある。
不玉は土砂の目潰しに備え、顎に付けている右手の五指を広げていた。
篠咲は地の底を打つ踏み込みを起点に、解放する剣尖で円を描き始める。
遠い日、父親が筆を走らせて描いた円のように、墨の代わりに黒土と火花を撥ねながら軌道を辿り、――そして、手放した。
斬り上げではなく、投擲。
全身の筋繊維を巧みに捻り、人体で実現したカタパルト。
力積と遠心力で加速された剣尖は時速二百キロメートルの初速で空を斬り、不玉から一メートル程離れた位置で射出されている。
一般的な打突の速度を大きく超え、到達まで0.0二秒未満の一撃は人間の反射速度で対応することはできない。
他流を取り込み進化する流派の最果て、篠咲鍵理が唯一手にしたオリジナルは回避が敵わない最速の突き技であった。
玄韜流【円相・巴】。
土を巻き上げる目晦まし、届かない距離から伸びる剣尖、狙いを付け手放された瞬間からは目視で避けられない速度。
その全てを以てして――まだ不玉には届き得ない。
眼前に飛んでくる刀身を、有ろう事か、差し出す義手の手首をスナップさせただけで振り払っていた。
人外の視力と反射神経。
或いは、見える攻撃ならば銃撃ですら看破し得るのかもしれない。
だが必殺の突きが通じないのもまた、篠咲の予想通りであった。
最後の剣戟を終えた篠咲は、投擲の勢いをそのままに跳躍に移行している。
狙うは不玉の頭部と水平な位置からの飛び足刀蹴り。
踏み切り前に蹴り足で掬い上げた黒土を撒き散らす上空からの目潰しも織り交ぜていた。
対する不玉には僅かに迷いが見えた。
刀剣を投げ捨てた剣術家が柔術家に勝てないのは明白。
脇差でもあれば別だが篠咲の腰帯にはもはや何も無く、懐から取り出せる程度の獲物で対抗するしかない。
死を賭した特攻、或いは柔術戦でも勝てる算段があると判断した不玉は、迷いなく篠咲の蹴り足に重ねるように右手で貫手を放つ。
手と足の相突き。
だが芯を取ったのは当然のごとく、地に足を着ける不玉の方である。
宙に飛び出せば身の捻りか四肢を動かす反動以外に体重移動をする術がない。
篠咲は蹴り出した右足の横脛を貫手の爪先で切り開かれている。
足から跳ね上がる鮮血が二度目の【衰枯】を知らせていた。
ここが分水嶺とも言える最後の瞬間。
これ以上続ければ一方的に毒を埋め込まれていくだけである。
篠咲は闘争の終了を悟り、短く息を吐いた。
――ようやく、辿り着いた。
それは敗北の諦めから来るものではなく、詰将棋の最後の一手に手を掛けた満足感であった。
中空にて蹴り足を残しながら、両腕は顔の右横で高く掲げられている。
そして、手の内には本来無いはずの長物が握られていた。
一度目の衝突時に投げ捨て、二度目の三日月蹴りを潰された攻防の最中、不玉の死角に伸ばした足で上空へ蹴り上げていた『鉄鞘』。
最後の攻防はそれを空中で受け取り、不可視の打撃を放つ事にのみ集約されている。
篠咲は反転する吸気で酸素を取り込んで身を反らせた。
二分する精神の一方で毒の痛みを引き受け、もう一方で人体の限界を超える余力を引き出す。
不玉が篠咲の手元を見上げ、煌めく照明を遮る何かを目視した時には、既に、雲耀の袈裟斬りが頭蓋に叩き込まれていた。